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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第6章 妹の婚姻 姫でいられた最後の一年
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身体が覚えていること

◇ 春 サカイ城 執務室


「ユウ様が、城下町へ行きたいと希望されています」

執務室に、イーライの声が静かに響いた。


書類の束に向かっていた重臣サムのペンが、ふと止まる。


「如何でしょうか。ミミ様からは、すでに許可を得ています」


「付き添い、か」

サムはゆっくりと顔を上げ、穏やかに微笑んだ。


「私は行けないが――イーライ、お前が行ってこい」


「しかし、仕事が・・・」

イーライは一瞬、言葉を選ぶように躊躇した。


キヨが出陣してから半年。


兵糧も補給路も、今はサムとイーライが回していた。


「私が受け持つ」

サムは迷いなく言い、部屋の隅で計算を続ける若手に目を向けた。


「残りは任せろ」


「・・・しかし・・・」


「お前は優秀だ、イーライ」

サムは苦笑を浮かべた。


「だからこそ、何でも一人で抱え込もうとする。たまには、他人に委ねろ」


「・・・承知しました」

イーライは静かに頭を下げた。


「ただな」

サムは少し考えるように顎に手を当てる。


「ユウ様が外出されるなら、護衛は一人では足りん。

剣の腕が立つ者を、もう一人つけたい」


その言葉に、イーライの胸に、嫌な予感が走った。



◇ サカイ城 馬場


「ユウ様。ご挨拶は初めてですね」


朗らかな声とともに、男が一歩前へ出る。


「ナノ領領主、次男――リチャードと申します」


大袈裟とも取れるほど丁寧に頭を下げるその姿に、

イーライは思わず奥歯を噛み締めた。


――この男と、一緒に仕事をするなど願い下げだ。


調子が良さそうで、軽薄で、

それでいて妙に人の心を見透かす目をしている。


――この男は、軽い。


だが、その軽さは、相手を油断させるためのものだと、

イーライは直感していた。


そして何より――容姿が良い。


ユウ様の視線を、奪いかねない男だ。


だが。


剣の腕は確かだ。


その一点だけで、サムが選んだ理由は理解できた。


「ユウ・センよ」

ユウは、いつも通り静かに名を告げた。


「馬場では、何度かお見かけしました」


爽やかな微笑みとともに向けられたその言葉に、

ユウはわずかに瞬きをする。


馬場にいるとき、

自分の視線はいつも――シュリを追っていた。


リチャードは、その一瞬の反応を見逃さなかったように、

どこか楽しげに目を細めている。


ユウは小さく空咳をしてから、顎をわずかに上げた。


「そうなの? 気がつかなかったわ」


指先が、無意識に手袋の縁をつまむ。


「そうですか」


リチャードは、

何もかも承知しているような――完璧な笑顔を浮かべた。




港へ近づくにつれ、空気が変わった。


潮の匂い。

魚を焼く煙。

そして、人の声。


城下町とは比べものにならないざわめきが、石畳を満たしている。


「・・・すごい人」

ユウが思わず呟いた。


荷を担いだ男、籠を抱えた女、裸足で走る子ども。

肩が触れそうな距離に、ユウは足を止める。


「昼ですから」

リチャードが軽く言う。


「船が着く時間です」


その瞬間、背後から静かな気配が近づいた。


「こちらへ」

シュリが半歩前に出る。


触れはしないが、進路を示すように立った。


「はぐれますので」


「ありがとう」


声が自然と小さくなる。


リチャードは、そのやり取りを横目で見て、口元をわずかに緩めた。


「間もなく昼食ですが・・・城内へ戻られますか」

イーライの問いに、ユウは首を振った。


「もう少し、見てみたいの」


「それなら――」

リチャードが、にやりと口角を上げる。


「昼は、俺の行きつけにしよう」


歩き出したその背が、ふとシュリの隣に寄った。


「本当はな」

低く、囁く。


「シュリと一緒に、夜に来たかった」


「・・・え」


思わず顔を上げた瞬間、


「ここだ」


何事もなかったように、リチャードは店の前で足を止めた。


店の中は、港町らしい喧騒に満ちていた。


昼時とあって、労働着の男たちや女たちが肩を寄せ合っている。


「昼は健全だろ?」

リチャードが肩をすくめる。


木の卓に案内され、ほどなく料理が運ばれてきた。


黒パン。

根菜の煮込み。

そして――香草と塩で焼かれた白身魚。


ユウの前に料理が置かれた、その瞬間だった。


シュリは迷いなく、皿を自分の方へ引き寄せた。


唖然とするリチャードとイーライを前に、

シュリは小さく言う。


「失礼します」


黒パン、根菜の煮込み、そして魚。


彼は先に一口ずつ口をつけ、確かめるように味を見た。


主より先に食事をする――

その光景に、イーライが思わず口を開きかける。


だが、ユウは止めなかった。


それどころか、当然のように椅子に腰かけ、前を向いている。


シュリはナイフとフォークを手に取り、

静かに魚の身をほぐし始めた。


骨を探し、外し、避ける。

その手つきに迷いはなく、慣れ切っている。


「どうぞ」


差し出された白い身を、

ユウは一瞬だけシュリの指先を見てから――受け取った。


「ありがとう」


低く、わずかに柔らいだ声。


その様子を眺めながら、リチャードは口の端をつり上げた。


「・・・なるほどな」


「何がだ」

イーライが警戒する。


「いや」

リチャードは魚を頬張り、笑う。


「二人は、ずいぶん親密だと思ってさ」


シュリは何も答えない。


ただもう一度、ユウの皿に視線を落とし、

残った骨を丁寧に取り除いた。


港町のざわめきの中、

リチャードはもう一切れ魚を口に運びながら、何気なく言った。


「いやあ、いいなと思ってね」


シュリの肩がビクッと震える。


リチャードの視線をユウではなく、シュリに向けたまま続ける。


「―ー守るだけではなく、日常の世話もする。多才な乳母子だ」


一瞬、空気が止まる。


イーライは眉をひそめた。


それ以上踏み込ませまいと、口を開こうとする。


だがその前に、ユウが何気なく言った。


「当たり前でしょう」


皿の上の白い身を口に運びながら、淡々と。


「骨がある魚は、昔からシュリが見てくれているもの」


「ユウ様の食事に毒が入ってないか、確認をするのは乳母子の任務です」

シュリも口を添えた。


その言葉に、

リチャードの笑みが、ほんの一瞬だけ深くなる。


「・・・なるほど」

ナイフを置き、軽く息を吐いた。


「それはもう、昼とか夜とかの話じゃないな」


一拍。


「四六時中だ」


「口を慎め」

イーライの視線が鋭くなる。


「はは、悪い悪い」

リチャードは両手を上げる。


「ただの感想だよ。――俺には、真似できない関係だと思っただけさ」


シュリは、何も言わない。


ただ黙って、

次にユウの皿へ手を伸ばすタイミングを測っていた。


リチャードは、黒パンをちぎった後に、

ふっと視線をシュリの手元を見る。


「・・・手が、先に動くんだな」

リチャードは、シュリの指先を見て言った。


「考えてからじゃない。身体が覚えてる」


何でもない雑談のように。


その瞬間ーー。

ユウとシュリは、同時に息が詰まった。


ユウは思わず喉を鳴らした。


誕生日の夜、シュリがユウに触れた指先の感触が、ふいに蘇ったのだ。


「リチャード」

シュリは掠れた声で話す。


だが、リチャードは気にした様子もなく、肩をすくめる。


「冗談だよ」

そう言いながらも、目だけは笑っていない。


イーライは何も言わなかった。


シュリが行った行動は、

作法に反する行為ではないことを、誰よりも知っている。


――だが。


リチャードの発言は、

あまりにも思わせぶりな言葉遣いだった。


「何が言いたい?」

イーライが強い口調で問い詰める。


リチャードは一瞬、目を瞬かせ、シュリとイーライの顔を

思わせぶりに見つめる。


それから小さく笑った。


「・・・特に。何もないさ」


それ以上、何も言わない。


だが、イーライは確かに感じ取っていた。


――この男は、

気づいた上で、あえて投げた。


シュリは、ユウの皿に視線を落とし、

残っていた最後の骨を、無言で取り除いた。


次回ーー明日の20時20分


気づかれたのは、距離ではない。

無意識の所作だった。


守る手。

先に動く指先。

それを見て、笑う男がいる。


そしてもう一人――

守る側でいることを、選び直そうとする者がいる。


厄介なのは、姫ではない。

この関係だ。


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