――誰にも。彼女に触れられたくない
◇ サカイ城 昼下がり ユウの部屋
午前中には、太陽がのぞき、わずかに残っていた雪は消えた。
穏やかな昼下がり。
銀のワゴンを引き、イーライが茶の支度に入ってきたのだ。
ユウは、思わず小さくため息をつく。
いつもと変わらぬ所作で、湯を用意するイーライに声をかけた。
「イーライ。あなたのお茶は、楽しみにしているの」
「ご期待に添えるよう、本日も美味しい茶を淹れてみせます」
「・・・でも、お茶だけなら、もっと良いのよ」
ユウの口調には、隠しきれない不満が混じっていた。
「残念ながら、本日もございます」
イーライは淡々と答えながら、懐から手紙を差し出す。
「また?」
ユウは、あからさまにうんざりした表情を浮かべた。
「はい。また、でございます」
イーライは丁寧に頭を下げる。
「主は、たいへん筆まめな方ですので」
ユウが苛立っているのは、南領にいるキヨからの手紙だった。
「手紙がなければ、もっとお茶は美味しいのに」
そうこぼすと、イーライはふっと口元を緩めた。
「それでしたら、私の茶の腕が、まだ未熟なのでしょう」
その笑みを見て、シュリは思う。
――イーライは、以前とは比べものにならないほど、
表情が変わった。
もっとも。
それを見せる相手は、ユウ様の前だけだったが。
茶の香りが、ゆっくりと部屋に満ちていく。
最後の一口を飲み終えたユウが、カップを置くのを待ってから――
イーライは、静かに一歩前へ出た。
「ユウ様。今日は、ひとつお願いがございます」
それは、いつもの淡々とした報告とは違う口調だった。
ユウは何も答えず、ただイーライの顔を見つめる。
イーライは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに上げた。
「本日中にキヨ様へ、返書をお出ししたいと存じます」
「いやよ」
ユウは、きっぱりと顎を上げた。
「そこを、なんとか」
イーライは珍しく困ったように眉を寄せる。
「あの男に出す言葉なんて、ないわ」
ユウの声は冷ややかだった。
「ユウ様」
イーライは、一歩だけ距離を詰める。
「文章は、私が考えました。ユウ様は――書くだけで結構です」
淡々とした口調。
だが、引く気配はない。
ユウは唇を噛み、視線を逸らした。
――この豊かな暮らしは、あの男のおかげ。
そのとき。
「・・・ウイ様と、レイ様のことを・・・」
静かに、シュリが呟く。
その一言が、深く刺さった。
「・・・っ」
ユウは悔しそうに息を吐く。
「・・・書くだけなら・・・良いわ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。
その瞬間を逃すまいと、イーライはすぐさま羊皮紙を机に広げた。
――ユウ様の気持ちが、変わらないうちに。
「それで・・・何を書けばいいの?」
ユウはペン先をインクに浸しながら、投げやりに尋ねる。
「はい」
イーライは一瞬だけ視線を伏せ、慎重に言葉を選んだ。
「それでは・・・『この文面を書くことには、迷いもございました』」
だが、その声に淀みはなかった。
「昨夜は、どうしてもペンを置けなかったのです」
「今は昼よ」
ユウは皮肉を交えながらも、言われるままペンを走らせる。
イーライは、静かに言葉を紡いだ。
「――キヨ様のお声、お姿、その一つ一つが、
日を隔てるごとに、胸に深く残ります」
ユウは無言で書く。
感情を乗せないように、機械的に。
イーライの視線が、ほんのわずかに熱を帯びる。
「忘れようとするほど、かえって想いが募ります」
声が、少し掠れた。
「抑えようとするほど、心が惹かれて――」
その言葉を口にした瞬間、イーライは気づいた。
――これは、主を喜ばせるための文章ではない。
恋文の形を借りて浮かんだ言葉は、
ただ一人の女性を想ったときに生まれたものだった。
忘れようとして、深く沈んでいった感情。
それが、声になっただけだ。
次の瞬間。
ペン先が、ぴたりと止まった。
「イーライ」
ユウは顔を上げ、鋭く睨む。
「私は、そんなこと思ってないわ」
きっぱりとした否定だった。
イーライは、息を呑むことも、言い訳をすることもなかった。
「承知しております」
ただ、静かにそう答える。
「これは、ユウ様のお気持ちではありません」
一拍。
「キヨ様が、“そうであってほしいと望んでいる言葉”です」
ユウの指が、わずかに震えた。
「私は、そのような手紙を出さない」
そう言い切ると同時に、
ユウは書きかけの羊皮紙を丸め、暖炉へと投げ込んだ。
火が、ためらいなくそれを呑み込む。
「適当な挨拶文を書くわ」
少しだけ乱れた文字で、ユウは淡々と挨拶文を書き上げた。
感情を削ぎ落とした、儀礼だけの文面。
「これを、あの男に送って」
ユウは羊皮紙を差し出す。
「ありがとうございます」
イーライは深く、丁寧に頭を下げた。
「こちらをどうぞ」
イーライが差し出されたのは、茶ではなく、
やわらかな香りのカモミールティーだった。
少しだけ乱れた今のユウの心情を、正確に読み取った選択。
「イーライ、あなたは聡いわ」
ユウは息を整えながら、カップを受け取る。
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
「恋文を書く才能もあるわ」
ぽつりと落とされたその言葉に、イーライの手が、わずかに止まった。
「想う人に、あの文を出すといいわ。きっと喜ばれるはずよ」
悪意のない、あまりにも無邪気な言葉だった。
「・・・左様でございますね」
イーライはそう答えたが、
その横顔には、ほんの一瞬だけ、翳りが差していた。
それを、間近にいたシュリだけが見逃さなかった。
――ユウ様の鈍感さは、イーライにとって、毒になる。
けれど。
ここでイーライの想いを、
ユウ様に進言するつもりは、一欠片もない。
イーライも、自分と同じだ。
姫に恋を告げて許される立場ではない。
・・・それに。
もし、イーライの想いにユウ様が気づけば、
物事は、良くない方向へ転がり始めるかもしれない。
不思議なもので、ユウに触れてから、
自分の中に秘めていた嫉妬心が、ますます強くなった。
ーー誰にも。ユウ様に触れられたくない。
そんな、醜い感情が胸にあることも、
シュリは否定できなかった。
次回ーー本日の20時20分
城の外に出たことで、
当たり前だった距離が、他人の目に晒される。
守る手つき。
先に動く指先。
考える前に身体が覚えている、いつもの所作。
それを――
見抜く者が現れた。
何も起きていないはずの昼の港町で、
三人の関係は、静かに揺らぎ始める。




