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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第6章 妹の婚姻 姫でいられた最後の一年
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昨日とは違う朝

◇ サカイ城 馬場


夜明けの空気は、刺すように冷たかった。


シュリは無言のまま、馬場の端に立っていた。


木剣を手に取り、何度か振る。

――だが、すぐに動きを止める。


ふと、自分の手のひらを見つめた。


『触れても、いいわ』


昨夜のユウの言葉が、はっきりと蘇る。

ほんの一瞬だった。

夢のように、短く、あまりにも近かった時間。


唇の震え。

熱を帯びた眼差し。

声にならなかった吐息。


思い出しただけで、胸の奥がざわつき、落ち着かなくなる。


指先に、昨夜の感触が残っている気がして、

シュリは思わず目を閉じた。


――自分のような立場の人間が、

本当に、ユウ様に触れてよかったのだろうか。


答えの出ない問いが、胸に沈む。


その時だった。


「そんなに良かったのか」


笑みを含んだ、低い声。


「っ――!」


シュリはびくりと肩を跳ねさせ、反射的に木剣を構えようとする。


だが、その動きは遅かった。


「遅い、遅いぞ、シュリ」

リチャードは含み笑いを浮かべながら、軽く木剣を押さえた。


「そうか。お前はな」


耳元で囁く。


「嬉しいことがあると、剣が振れなくなるんだな」


「・・・っ」

シュリは言葉を失い、顔が熱くなるのを自覚する。


「不思議なもんだ」

リチャードは顎を撫で、どこか楽しそうに続けた。


「辛いことがある方が、腕は上達する」


からかいながらも、どこか含みを持たせた声音だった。


一拍置いて、リチャードは視線を逸らした。


「あの本は、そのまま貸してやる」


ーーあの本。

恋愛の手引書。


シュリが何も言えずにいるのを見て、

リチャードは笑いを抑えたまま、妙に真面目な声を作った。


「今後のために、勉学に励むように」


シュリは、息を詰めた。


叱られなかった。

否定も、諭しも、忠告もなかった。


ただ――見抜かれただけだ。


その事実が、なぜか救いだった。


道徳的に正しいことを言わない、この男の存在が。


今の自分には、それが、ひどくありがたかった。



◇ サカイ城 ユウの部屋 朝食


「姉上! すごい顔!」

ウイが、扉をくぐるなり目を丸くした。


ユウは、ぴくりと肩を揺らす。


「・・・本当だ。クマが、すごい」


続いてレイが、淡々と事実だけを口にする。


ユウは思わず視線を逸らした。


「少し・・・眠れなくて」


それだけ答えると、カップを持つ指先に、わずかな力がこもる。


ウイは心配そうにユウの顔を覗き込み、

レイは何も言わず、その様子を静かに観察していた。


――眠れなかった理由を、

二人に話すつもりは、もちろんない。


昨夜の続きを望んでいるなんてーー誰にも、シュリにも、妹にも言えない。


けれど、昨夜のことを思い出さないわけもなく、

ユウは小さく息を吐いた。


「・・・雪、降ってたでしょう」


話題を逸らすように言うと、ウイはぱっと顔を上げる。


「うん! 朝、白くなってた!」


「朝食を食べましょうか」

ヨシノが声をかけ、三人は食事を始めた。


レイは、ユウの目元に残る影を、もう一度だけ見てから、

そっと視線を外した。


――眠れなかったのは、雪のせいじゃない。


そう思いながらも、何も口にはしなかった。


――その時。


「おはようございます」


静かな声とともに、シュリが一礼して入室してきた。


ガチャン――


乾いた音が響き、ユウの手元からフォークが落ちた。


一瞬、部屋の空気が止まる。


「新しいものを、お持ちしますね」

ヨシノがすぐにしゃがみ込み、落ちたフォークを拾い上げた。


「ごめんね・・・」

ユウはそう言ったが、声がわずかに震えていた。


目の縁が、見る間に赤くなる。


「姉上、疲れているの?」

ウイが心配そうに覗き込む。


「大丈夫よ。本当に、大丈夫」

ユウはそう答え、小さく息を整えてから視線を落とした。


ーーこんなふうにシュリのことばかり意識していては、

とてもではないが、身が持たない。


些細なことで動揺する自分とは対照的に、

シュリは相変わらず、淡々としているように見えた。


まるで、昨夜のことは何もなかった、かのように。


ただ一つだけ、

いつもなら自然に向けられる視線が、なかった。


けれど、その「何もなさ」が、

かえって不自然だと気づいたのは、レイだけだった。


レイは、淡々と食事を口にしながら、静かにその場にいる皆の表情を見つめていた。


ーーシュリの頬が少し赤いのは、朝稽古の後だからか。


それともーー


視線を外せない理由が、他にあるのか。


一方で、ウイは目の前の朝食を全力で味わっていた。

「おいしい」と素直に笑っている。


ユウは一口食べては、フォークを止め、ぼんやりしていた。


レイは目を細めた。


ただ静かに、

ユウとシュリの間に流れる――言葉にできない空気を感じ取っていた。


――二人の事情は、分からない。


けれど、

何かが確実に変わったことだけは、はっきりと分かった。


朝の光は、昨日と同じように差し込んでいるのに。


部屋の空気だけが、

ほんのわずかに――昨日とは違っていた。


ユウは、それが何なのかを考えるのを、無意識に避けていた。


――考えてしまえば、もう戻れない気がしたから。


次回ーー明日の9時20分



返事を書くつもりは、なかった。


けれど、妹たちの婚姻のために――

ユウは、あの男へ返書を書く。


用意された文面は、

キヨが望む“想い”の言葉。


それを燃やし、

ユウは自分の言葉だけを残した。


そのやり取りを、

二人の男が、それぞれの想いで見つめていた。


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