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触れていい、と言った夜

その日の夕方から、気温は目に見えて下がり始めた。


「雪が降るかもしれませんね」

ヨシノがそう言いながらカーテンを閉めようとした、その時だった。


カチリ、と小さな音を立てて部屋の扉が開く。


現れた侍女は、一礼して口を開いた。


「ミミ様がお呼びです」


「・・・私?」

思わず、ユウが声を上げる。


「いえ――ユウ様の乳母に、お話があるとのことです」


その言葉を聞いた瞬間、ユウは悟った。


――イーライの報告を、すでに聞いたのだ。


そして、あのミミ様のことだ。


イーライの話だけで終わるはずがない。


きっと、ヨシノ自身の口からも確かめたいのだろう。


「・・・こんな時間に」

ヨシノが戸惑いを滲ませる。


「ヨシノ、行ってきて」

ユウは迷いなく頷いた。


長年仕えてきたヨシノなら、自分の考えも、覚悟も理解している。


そう信じていた。


「承知しました」

ヨシノは、無意識に髪を撫でつける。


緊張を誤魔化すような仕草だった。


「失礼いたします」

そう言って、ヨシノは部屋を後にする。


扉が閉まると同時に、

雪が降る前特有の、張りつめた静けさが部屋を包み込んだ。


――二人きり。


シュリは、その事実を意識した途端、どうしても落ち着かなくなり、

逃げるようにカーテンを閉めるため窓際へ向かった。


姫と乳母子が同じ部屋に二人きりになること自体は、決して珍しくない。


けれど――異性となると、話は別だ。


そもそも、姫に異性の乳母子が仕えること自体、前例がない。


今日は、ユウ様の誕生日。


その数日前から、シュリの胸は落ち着かなかった。


数年前から、ユウの誕生日には、口づけを交わしている。


期待してしまう自分を、何度も戒めた。


いつも、ユウの傍にはヨシノがいる。


二人きりの時間など、望むべくもないはずだった。


だからこそ――

突然与えられたこの時間に、どう振る舞えばいいのか分からず、

シュリは窓辺に立ったまま、身動きが取れなくなっていた。


ユウは、その背中をじっと見つめていた。


声をかけるべきか、沈黙を守るべきか。


迷いながらも、胸の奥で思う。


――これは、神様からの誕生日の贈り物だ。


「シュリ」


静かな声が、部屋に落ちる。


シュリは、ゆっくりと振り返った。


澄んだ茶色の瞳が、わずかに揺れている。


――この人も、同じことを考えている。


ユウは、そう悟った。


「今日は・・・誕生日だから」

言葉を探すように、ユウは一度、喉を鳴らす。


「いつもと同じものが、欲しいの」


その一言で、部屋の空気が、一気に色を帯びた気がした。


シュリは息を止め、無意識にカーテンの布を強く握る。


ユウは、一歩だけ距離を詰める。


「・・・だめ?」


姫として、口にすべき言葉ではないことは分かっていた。


けれど、自分から言わなければ――

使用人であるシュリは、決して踏み出さない。


「・・・だめでは、ありません」


掠れた声だった。


そして、確かめるように、ユウを見つめる。


「・・・今年も、よろしいのですか?」


普段とは違う、その声に、ユウは静かに頷いた。


「ええ」


その返答を受けて、シュリは一瞬だけ目を伏せる。


胸の奥で、何かを確かめるように。


そして、静かに手を伸ばし――ユウを、抱きしめた。


シュリの腕が、静かにユウの背へ回された。


力は強くない。


けれど、逃がさないと決めたような、確かな抱擁だった。


ユウの額が、シュリの胸元に触れる。


布越しに伝わる体温に、思わず小さく息を吐いた。


――あたたかい。


シュリは、深く息を吸い、吐いた。


ユウを抱きしめながら、自分の心を落ち着かせるように。


腕の中の存在が、あまりにも大切で、

ほんの一歩先へ進んでしまえば、もう戻れなくなる気がしていた。


ユウは何も言わず、その胸に身を預けた。


指先だけが、離れがたい想いを伝えていた。


二人の呼吸が、少しずつ揃っていく。


「・・・シュリ」


小さく、名を呼ぶ声。


それだけで、十分だった。


シュリは、ユウの髪に顎を寄せ、それ以上、動かなかった。


――今日は、ここまで。


抱きしめることで、欲を知ってしまうから。


抱きしめたまま、止まることで、守れるものがある。


しばらくして、シュリはゆっくりと腕を緩めた。


「・・・ありがとうございます」

低く、抑えた声で、シュリは言った。


その言葉に、ユウはわずかに眉を寄せる。


「シュリ・・・なぜ?」


顔を上げた拍子に、疑問が零れ落ちた。


例年なら、ここで口づけがあった。


それが当たり前のように。


けれど今年は、抱きしめられただけで終わった。


黙って俯くシュリに、ユウは一歩近づく。


「シュリ。こちらを見て」


ためらいながらも、シュリはゆっくりと顔を上げた。


「なぜ、先に進めないのか・・・教えて」


――この目だ。


シュリは心の中で、静かに白旗を上げた。


母シリと、

そして本当の父であるゼンシと同じ――人の奥底を見透かすような、強い眼差し。


誤魔化しも、言い逃れも、許さない。


見つめられると、逆らえない。


シュリは小さく息を吐いた。


――敵わない。


「・・・私も」


一拍、間を置く。


「・・・年頃の男です」


ユウの瞳が、わずかに揺れる。


シュリは視線を逸らさず、続けた。


「ここから先へ進めば・・・」

言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「自分を止められる自信が、ありません」


それは、欲を否定する言葉ではなかった。


むしろ、正直すぎる告白だった。


「触れれば、欲しくなる」


シュリは、熱を帯びた瞳でユウを見つめる。


「欲しくなれば・・・きっと、留まれない」


シュリは拳を、そっと握りしめる。


「ユウ様を、傷つけたくない」


「・・・軽く扱うことも、逃げることも、したくありません」


だから、と。


「今日は、抱きしめるまでにしました」


誕生日だからこそ。


想いが深まる日だからこそ。


ユウは、しばらく何も言わなかった。


やがて、ふっと息を吐き、微かに笑う。


「・・・そういうところが、ずるいのよ」


責める声ではなかった。


「正直で。誠実で。・・・優しすぎる」


「・・・すみません」

シュリは静かに視線を落とした。


「シュリ・・・」

ユウが名を呼ぶ。


「前に、話していたでしょう・・・」


「何が、ですか」


「私が、イーライに触れられて・・・嫌だった、と」


「・・・はい」

シュリは、迷いなく認めた。


一か月前のことだった。


偶然とはいえ、イーライがユウを支え、その手が触れてしまった瞬間。


事故だと、頭では分かっていた。


誰の責任でもない。


それでも――


ユウの白い太ももに、他の男の手が重なったのを見た瞬間、

胸の奥に、言葉にできない感情が湧き上がった。


「・・・妬いたの?」

ユウがつぶやく。


その一言で、シュリの理性が揺らいだ。


距離を取ろうとしたシュリの腕を、ユウはそっと引き寄せた。


ためらいは、一瞬だけだった。


自分から、唇を重ねる。


間近で、シュリの茶色の瞳が大きく見開かれた。


驚きに息を呑むのが、はっきりと分かる。


それでも、ユウは離れなかった。


逃げる理由を、与えないように。


次の瞬間――シュリの腕が、強く、強くユウを抱きしめた。


抑えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。


重ねた唇は、深く。


まるで、確かめるように。


離れがたい想いだけが、そこに残る。


ユウは唇を離さぬまま、シュリの腕をそっと掴んだ。


戸惑いに揺れる瞳には目を向けず、その手を静かに――胸元へと導く。


驚いたシュリが、思わず唇を離す。


ユウはまっすぐに見つめ返した。


「・・・触れても、いいわ」


震えを含んだ声だった。


言い切るために、ほんの少しだけ息を整える。


躊躇うシュリに、ユウはもう一度、唇を重ねた。


確かめるように、逃がさないように。


シュリの手は、戸惑うように、控えめに触れた。


――本当に、許されるのだろうか。


その指先には、不安と、抑えきれない好奇心が混じっている。


探るようで、確かめるような、まだ遠慮の残る触れ方だった。


次の瞬間、ユウがシュリの首の後ろに腕を回し、強く抱きつく。


逃がさない、という意思のこもった仕草。


――やめなくていい。


その想いが伝わった瞬間、

シュリの手から、ためらいが消えた。


部屋には、

二人の呼吸が絡み合い、声にならない息が静かに漏れていった。


――このまま、こうしていられたら。



そう願いが形を結びかけた、その瞬間。


カチッ。


扉の開く小さな音が、静寂を切り裂いた。


二人は弾かれたように離れる。


「遅くなって、すみません」

現れたのはヨシノだった。


ユウは近くの藤の椅子に腰を下ろしていた。


いつもより少し荒い呼吸を、必死に整えながら。


一方、シュリは何事もなかったように背を向け、

静かにカーテンを閉めていた。


部屋には、言葉にできない余韻だけが残っていた。


ユウは、ゆっくりと息を整えた。


頬の熱はなかなか引かず、

蝋燭の灯りに包まれる夜でよかったと、心から思う。


目を閉じると、

シュリが触れたときの、ためらいを含んだ手つきと、

すぐそばで感じた呼吸が、はっきりと蘇った。


思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


――もし。


――もし、シュリと本当に二人きりになれる夜があったなら。


そのときはもう、立ち止まれる気がしなかった。


自分の中に芽生えた想いの強さを、ユウははっきりと自覚していた。


「雪が、降ってきました」

シュリの声は、わずかに掠れていた。


背を向けている彼の表情は、ユウからは見えない。


「やはり・・・ユウ様のお誕生日には、雪が降りますね」

ヨシノが、どこか懐かしむように微笑む。


ユウは、静かに深い息を吐き出した。


「・・・そうね」


窓の外で、雪は音もなく降り積もっていく。


言葉にしなかった想いも、

触れられなかった続きをも、すべてを包み込むように。


17歳の誕生日の夜は、

静かに、そして穏やかに――幕を下ろした。


第五章を読んでくださった皆さまへ


長い第五章を、ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

感情の積み重ねが多く、息の詰まる場面もあった章だったと思いますが、

最後まで付き合ってくださったことに、心から感謝しています。


この章では、

ユウとシュリの関係が一つの節目を迎え、

同時に、イーライを含めた人間関係の輪郭が、はっきりと浮かび上がりました。


静かな場面が多い一方で、

登場人物たちの選択や覚悟が、確実に物語を前へ進めています。



そして、第六章について


・・・先に正直に言います。

第六章も、長いです(笑)


けれどこの章では、

ユウの未来が少しずつ狭まり、

その分、ユウを取り巻く人間関係は、より深く、より濃くなっていきます。


選択肢が減るほど、想いは研ぎ澄まされ、

人と人との距離は、曖昧ではいられなくなる。


そんな時間を描く章になります。



第六章 章タイトル


「妹の婚姻 ――姫でいられた最後の一年――」


姫として守られていた時間の終わりと、

誰かを守る立場へと移っていく、その始まり。


引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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