妹を守るという交渉
◇ サカイ城 ユウの部屋
季節は巡り、冬になった。
2月の昼下がりーーこの日はユウの誕生日だった。
「今年は、雪が降りませんね」
バルコニーの窓辺に立ち、ヨシノが外を眺めながら呟いた。
「降らなくていいの」
ユウは、低く言い捨てる。
「あの男が、いないだけで幸せだから」
その声に、部屋の空気がわずかに冷える。
茶の支度を終えたイーライが、深々と頭を下げた。
「キヨ様より、誕生日の贈り物を賜っております」
ユウは、わずかに眉を寄せる。
「こちらを――」
差し出されたのは、大きな包みだった。
だがユウは、手を伸ばさない。
一瞬の逡巡の後、イーライは静かに包みをテーブルへ置き、紐を解いた。
「こちらでございます」
現れたのは、古びた一冊の本だった。
表紙は擦り切れ、角も丸くなっている。
「シュドリー城にあった、シリ様がお読みになっていた本です」
「・・・母上が?」
ユウの声が、わずかに揺れた。
震える指で、本を受け取る。
「はい」
その横顔に浮かんだ、抑えきれない喜び。
ユウの表情を見て、イーライはほんの少しだけ、口元を緩めた。
装飾品を贈るか迷っていたキヨに、
この本を勧めたのは、他でもないイーライだった。
ユウは、ドレスも宝石も、靴も髪飾りも化粧品も喜ばない。
そんなユウの嗜好を、イーライは完全に把握していた。
――やはり、喜ばれた。
イーライの心の中に、静かな喜びが湧き上がる。
本は、まだ他にもある。
キヨの手元に、数冊。
一度に渡さず、折を見て――一冊ずつ。
そうすれば、確実にユウの心は揺らぐ。
もし相手が、別の女性であったなら。
その揺らぎを生んだことに、イーライは誇りを感じただろう。
だが――
主が望む相手は、自分もまた、想っている人だった。
頁をめくるユウの横顔を見つめながら、
イーライは、胸の奥に滲むものを隠せなかった。
――喜ばれて、嬉しい。
けれど――。
その続きを、言葉にすることはできなかった。
「今日は、お誕生日ですので・・・」
イーライはそう言って、小さな杏のタルトをユウの前に置いた。
淡い色のカスタードが、そっと寄り添うように添えられている。
ユウの顔が、ぱっと明るくなる。
「杏!」
声に、隠しきれない喜びが滲んだ。
「はい。厨房に頼んで作らせました」
そう答えるイーライの表情は、以前よりもずっと柔らかい。
「では、こちらをお預かりしますね」
そう言って、ヨシノはテーブルに置かれた本を抱え上げる。
「棚も、少し整理しておきましょう。最近は、増えてきましたから」
ユウは頷いた。
「少し、お時間をいただきますね」
そう告げてから、ヨシノは隣の書斎へと本を運ぶ。
部屋に残されたのは、ユウ、イーライ、シュリだけだった。
「これ、ウイとレイにも食べさせたいわ」
思わず口にしたユウの言葉に、シュリが少し腰を浮かせる。
「お呼びしましょうか」
ユウが頷くよりも早く、イーライが静かに口を開いた。
「その前に、ひとつ伺いたいことがございます」
慎重に選ばれた口調だった。
「何?」
「ミミ様が、疑問に思われていることです」
イーライは視線を落としたまま、続ける。
「ユウ様ご自身の婚姻よりも、妹姫の婚姻を急がせる理由を知りたい、と」
ユウは真剣な表情で、静かに頷いた。
イーライは、淡々と事実を並べる。
「ユウ様は、昨年まではご自身が先に嫁ぐことを望まれていました。
ご年齢から考えても、それが自然な流れでございます」
一拍、間を置く。
「それにもかかわらず、急にご自身よりも妹姫の婚姻を優先してほしいと仰った。
その点を、ミミ様は不思議に思われているようです」
隣で話を聞いていたシュリも、同じ疑問を抱いていた。
けれど――聞くタイミングを逃していた。
ユウは、ふと後ろを振り返る。
視線の先、棚の上には、
母が死の直前にユウへ手渡した、小さな木像が置かれている。
しばらく、それを見つめてから、ユウは静かに口を開いた。
「ウイとレイの、幸せのためよ」
「・・・左様でございますか・・・」
イーライの返答は丁寧だったが、
その声音には、まだ解けない疑問が残っていた。
――妹姫たちに幸せを願う気持ちは、理解できる。
だが、それと婚姻の順を入れ替えることが、どう結びつくのか。
ユウは、ゆっくりと視線を戻した。
「・・・あの男は、私を妾に望んでいるわ」
冷えた声だった。
そこに、喜びは一片もなく、滲んでいたのは明確な嫌悪だけ。
「もし、私が妾になったら・・・」
一拍、間を置く。
「ウイとレイの婚姻を、軽く考えてしまう」
だから、とユウは続けた。
「妾になるまでの間は・・・あの男は、私の要望を無下にはできないわ」
ユウは、はっきりと告げた。
「ウイとレイが、確かな人と結ばれて――その幸せを、私がこの目で見届けるまで」
静かな決意が、言葉に宿る。
「私は、婚姻をしない。もちろん妾にも」
――それが、自分に残された交渉権。
ユウは理解していた。
その場に、短い沈黙が落ちた。
それは、誰かを蔑ろにするという意味ではない。
“守れなくなる”という、もっと切実な恐れだった。
シュリは、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
それは、妹を想う姉の覚悟であり、
同時に――自分自身を後回しにする、あまりにも厳しい選択だった。
イーライは、静かに視線を落とした。
ユウの覚悟は、あまりにも深い。
その重さを受け止めた瞬間、胸の奥が締めつけられる。
――だが。
このまま沈黙することは、職務が許さなかった。
「・・・それでは」
言葉を選びながら、イーライが口を開く。
「ミミ様には、どのようにご報告いたしましょうか」
慎重な声音だった。
その問いに、ユウも一瞬、視線を泳がせる。
「・・・そうね」
本音を語れる相手ではない。
ましてや――
彼女の夫に口説かれているなど、言えるはずもなかった。
短い沈黙ののち、イーライが静かに提案する。
「このようにお伝えしては如何でしょう」
一拍、置いてから続けた。
「妹姫たちの行方を見届けてから、婚姻に臨みたい――と」
ユウは、少し考えたあと、小さく頷く。
「そうね。それでいいわ」
その微笑みは、柔らかいが、どこか覚悟を秘めている。
「そのように伝えて」
「承知いたしました」
イーライは、深く頭を下げた。
「それでは、茶の支度を整えてます」
湯を沸かすためにイーライはマッチをすり、火を起こした。
「シュリ、レイとウイを呼んできて」
ユウは、穏やかにそう頼んだ。
「承知しました」
一礼して、シュリが部屋を出ていく。
扉が静かに閉まると、それだけで、空気が変わった。
人の気配が薄れ、部屋には、ひそやかな静寂が落ちる。
イーライは、ほんの一瞬だけ視線を上げ、ユウの横顔を盗み見た。
すぐに目を伏せる。
――二人きりだと、意識してしまうのは、自分だけだろうか。
銀色のポットが、シュン、と小さな音を立てている。
静まり返った部屋の中で、その音だけがやけに大きく聞こえた。
温めた湯の中にカップを浸す。
沈黙に耐えきれず、
イーライは、カップを拭きながら思わず口を開いてしまった。
「ユウ様は・・・それで、よろしいのですか」
――しまった。
言葉が口を離れた瞬間、強い後悔が胸を刺す。
聞くつもりなどなかったのに。
思ったことを胸に秘めるのは得意なはずなのに。
不意に口にしてしまったのだ。
イーライは慌てて振り向いた。
「・・・忘れてください」
そう言って、視線を落とす。
だが、ユウはイーライから目を離さなかった。
「それで、良いのよ」
はっきりとした声だった。
その力強さに、イーライは思わず顔を上げる。
青い瞳が、まっすぐこちらを射抜いている。
迷いも、揺らぎもない。
「妹を守ることが――私の任務だわ」
その言葉に、空気が引き締まる。
「・・・はっ」
イーライは反射的に背筋を伸ばし、深く、丁寧に頭を下げた。
次の瞬間――勢いよく、部屋の扉が開いた。
「タルト!」
弾けるような声とともに、ウイが駆け込んでくる。
ほとんど跳ねるような足取りで、一直線にユウの元へ。
「姉上! 杏の香りがする!」
テーブルの上を覗き込み、目を輝かせる。
「そうなの。杏のタルトよ」
ユウは思わず笑みをこぼした。
少し遅れて入ってきたレイは、落ち着いた足取りで部屋を見回し――
タルトと、その隣に添えられたカスタードを確認すると、ふっと息をつく。
「姉上、杏が好きだものね」
そう言ってから、何気ないふりを装いながら、イーライへ一瞬だけ視線を向けた。
――やはり、この人が用意したのだ。
イーライはその視線に気づいても、何も言わず、静かに一礼するだけだった。
「お茶にしましょうか」
ユウが柔らかく声をかけると、ウイは嬉しそうに大きく頷いた。
「うん! 早く!」
そのやりとりに、シュリの肩からも、わずかに力が抜ける。
湯気が立ちのぼり、
杏の甘い香りと、茶の香ばしさが部屋に満ちる。
ウイとレイの笑い声が、部屋に満ちる。
イーライは、いつもと変わらぬ手つきで茶を注いだ。
湯の温度も、器の向きも、寸分の狂いもない。
ただ一つ違うのは――心の裡の静かな覚悟だった。
初めて、心から好いた女性は――
美しく、聡明で、そして強かった。
姫というより、
領主のようで、
戦士のような人だ。
守られる存在ではなく、誰かを守る覚悟を持つ人。
この人についていきたい。
その願いを、
イーライは胸の奥に沈めたまま、
何も変わらぬ顔で、給仕を続けていた。
次回ーー明日の20時20分
雪の夜、
触れてはいけないはずの距離は、確かに越えられた。
けれど――
想いが深まるほど、立場と運命は残酷に立ちはだかる。
選んだ覚悟は、
まだ誰にも知られていない。
静かに進む政と、
揺らぎ始めたニ人の心。
次に崩れるのは、
感情か、それとも――均衡か。
「触れてもいいと、言った夜」




