あなたに触れたい
ユウの部屋へ向かう途中、イーライはふと足を止めた。
「茶の支度のため、厨房の方へ行って参ります」
そう言い残し、廊下を折れていく。
ユウとシュリは、黙って歩いた。
ユウはちらりとシュリを見る。
その表情は、どこか強張っていた。
シュリの拳は、まだ強く握られたままだった。
シュリは何度も、頭の中で反芻していた。
イーライがユウに触れた手。
そして――重ねられた唇。
ユウは廊下の途中で足を止めた。
「・・・シュリ。心配かけて、ごめんね」
振り向いて、そう謝る。
「・・・とんでもございません」
シュリは少し俯き、小さく頭を振った。
気が強く、思い立ったら止まらないユウは、
これまでも何度か、こうした騒ぎを起こしてきた。
木に登って落ちそうになり、咄嗟に抱きとめたこともある。
事故とはいえ、偶然に身体が触れるたび、シュリの胸は高鳴った。
――その“喜び”を、シュリは知っている。
だからこそ。
それを、今回はイーライが得たことが、どうしても許せなかった。
自分がまだ触れたことのない場所に、
イーライの手が触れていたことが――苦しい。
「・・・嘘」
思わず、ユウが呟く。
慌てて顔を上げたシュリに、ユウが一歩近づいた。
「絶対に怒っているわ」
「怒っていません」
シュリは慌てて首を振る。
「わかるのよ。怒っていることくらい」
見透かすような、強い瞳だった。
その視線に逆らえないことを、シュリはよく知っている。
「・・・怒ってはいません。ただ・・・」
言い淀む。
「ただ?」
ユウが片眉を上げた。
見え透いたその場しのぎの嘘は、ユウには通用しなかった。
長い付き合いなので、わかる。
――ここで正直に言わなければ、ユウ様はきっと納得しない。
シュリは小さく息を吐き、覚悟を決めた。
「・・・面白くないのです」
早口で、一気に続ける。
「イーライ様が、ユウ様に触れたことが」
「・・・触れたこと・・・」
ユウの頬が、じわりと赤くなる。
唇か。
それとも、太ももか。
そこまで具体的に、問い返すことはできなかった。
「・・・それは・・・どうして?」
その問いに、シュリは言葉を失った。
――あなたに、触れたい。
ただ、それだけのこと。
けれど、たとえそれが真実だとしても、
口が裂けても言えるはずがなかった。
使用人が、姫の身体に触れたいと願うなど――
許されるはずのない、ありえない感情だ。
胸の奥で、その想いを押し殺したまま、シュリは黙り込む。
そのとき。
廊下に、思いがけない声が響いた。
「・・・姉上?」
扉が開き、ウイが顔を覗かせていた。
次の瞬間、ウイは目を丸くした。
「姉上! どうしたのですか、その格好!」
驚くのも無理はなかった。
ユウの髪は乱れ、ドレスの裾のしつけはほどけている。
裾には、埃のような汚れまで付いていた。
ウイの後ろに控えていたレイが、静かに口を開く。
「・・・唇。腫れている」
ユウははっとして、自分のドレスに目を落とした。
確かに、ひどい有様だった。
「何をしたの?」
ウイが問いかける。
「本館の屋根裏に登って、梯子から落ちたの」
ユウの説明に、妹たちはそろって目を丸くする。
「・・・屋根裏!!」
ウイは呆れたように声を上げた。
「あら、面白いのよ。サカイの街中が一目でわかるの」
そう説明すると、ウイはほどけたドレスの裾に視線を落とし、
「・・・そう、ですか」
と、どこか曖昧な表情で答えた。
――自分なら、屋根裏なんて絶対に行かない。
「ユウ様、着替えましょう」
シュリが静かに促す。
「これから、イーライが来るの?」
ウイが尋ねる。
「来るわ」
ユウがそう答えた途端、ウイの表情がぱっと明るくなった。
「私も姉上の部屋に行きたい!
イーライ、きっと何か美味しいものを運んでくれるわ」
声は弾んでいた。
「来て。レイも」
ユウが声をかけると、レイは静かに一度だけ頷いた。
◆
イーライがユウの部屋に足を踏み入れると、わずかに目を見開いた。
そこにいたのはユウだけではない。
期待に満ちた瞳を輝かせるウイと、静かな眼差しで状況を見極めるレイの姿もあった。
すぐに察したのだろう。
イーライは何も言わず、控えていた茶色の髪の侍女に視線を向ける。
「カップを二つ、デザート皿も追加で」
淡々と指示を出し、茶の支度に取りかかる。
その様子を、レイは黙って見つめていた。
――彼の唇も、少し腫れている。
その変化を、レイは見逃さなかった。
「ウイ様とレイ様には、こちらのお茶を」
イーライは静かにカップを差し出す。
続いて、布に包んだポットに指先で触れ、温度を確かめてから、
別のカップをユウの前に置いた。
「ユウ様には、こちらを」
「どうして?私たちと姉上で、ポットが違うの?」
ウイが首をかしげ、率直な疑問を口にする。
「ユウ様は、お口に怪我をされていますので」
イーライは変わらぬ調子で答えた。
「ぬるめで、薄めのお茶を用意しました」
そう言って、イーライは別のポットから茶を注ぐ。
続いて、ガラスのグラスを取り出した。
「デザートは、カスタードにしています。
甘さは控えめで、口当たりも良いかと」
「イーライ、ありがとう」
ユウがそう答えると、イーライは淡々と続けた。
「厨房にも指示を出しました。
今夜の夕食は、パンプディングにするように、と」
その一連のやり取りを聞きながら、レイは内心で舌を巻く。
――すごい気遣い。
言葉の端々、所作の一つひとつに、
彼がどれほど細やかに気を配っているかが伝わってくる。
隣で、無邪気にカスタードのグラスへ手を伸ばそうとするウイを、
レイはそっと手で制した。
「私たち、あそこで食べましょう」
レイが指さしたのは、バルコニーのそばに置かれた藤の椅子だった。
「え、どうして?」
不思議そうに首を傾げるウイに、レイは静かに答える。
「姉様。
これから姉上たちは、きっと政の話を始めてしまうわ。
それだと、デザートをゆっくり堪能できないでしょう?」
「・・・それは、そうだわ」
ウイは妙に真剣な顔で頷いた。
その様子がおかしかったのか、
ユウとシュリは思わず顔を見合わせ、微笑みをこぼす。
そして――
驚くべきことに、イーライもまた、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
それに気づいたウイとレイは、同時に目を丸くした。
◆
「あの人・・・笑うのね」
バルコニーの椅子に腰かけたウイが、囁くようにレイへ告げた。
“あの人”とは――イーライのことだ。
レイは黒い瞳で、室内の様子を静かに見つめる。
ソファに座るユウとシュリ、その向かいにいるイーライ。
いつも能面のように感情を隠しているイーライが、
そこでは、ほんのわずかに表情を緩めていた。
ユウが、小さなスプーンですくい、そっと口に運んだ。
傷に触れないよう、慎重な動きだった。
一瞬、眉がわずかに寄る。
けれど――
次の瞬間、思わず目を細めた。
「・・・」
何も言わない。
だが、唇の端がほんの少しだけ緩んでいた。
「・・・おいしい」
小さく漏れたその声に、ユウ自身がはっとしていた。
慌てて口を閉じ、何事もなかったようにもう一口すくう。
「・・・ゆっくり、お召し上がりください」
イーライは淡々と告げた。
けれど、その視線は、
ユウの唇から一瞬も離れていなかった。
一拍、間があった。
それから、ユウの顔を見て、イーライはふっと表情を和らげた。
それは先ほど見せた微笑みではなく、
はっきりとした――笑顔だった。
その瞬間、ウイとレイは同時に口を開ける。
「・・・笑うと、素敵なのね」
ウイが思わず呟いた。
普段のイーライは、整った顔立ちをしているが、
感情を表に出さないぶん、どこか近寄りがたい。
けれど、こうして笑うと――驚くほど、人の目を引く。
「なんで、笑っているの?」
ウイの囁きに、レイはイーライの視線を追った。
その先で止まる。
カスタードを口に運びながら、どこか表情を顰めているユウ。
イーライは、そのユウを見て笑っていた。
「・・・なんでだろうね」
レイはゆっくりと答える。
「でも・・・イーライが笑うのって、姉上の前だけじゃないかな」
その言葉を聞いても、
隣のウイはカスタードの美味しさに夢中だった。
ソファに集まる三人は、
いつもより、少しだけぎこちない。
シュリは表情を曇らせたまま、会話には応じている。
ユウの唇はまだ少し腫れていて、
いつもより赤く、熟れたように見えた。
そのユウを見つめるイーライの眼差しには、
以前よりもはっきりと、想いが滲んでいる。
「・・・何かあったのね」
レイの小さな呟きは、
誰にも届かぬまま、部屋の空気に溶けていった。
次回ーー明日の9時20分
想いは、否定されなかった。
だからこそ、重くなった。
選ばなかった道も、
選べなかった未来も、
剣の音だけが、すべてを知っている。




