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初めての口づけは血の味がした

凍った空気の中で、最も早く反応したのはシュリだった。


怒りと嫉妬が一気に込み上げ、目の前の光景が滲む。

全身の血が、煮え立つように巡った。


これまでにも、ユウが他の男と手を握る場面を見たことはある。

額や手の甲に、軽く唇を落とされるのを目にしたこともあった。


けれど――

今、目の前にあるそれは、あまりにも衝撃が強すぎた。


それは、

日頃から自分が最もしたいと願い、必死に抑え込んできた行為だった。


それを、イーライが行っていた。


次の瞬間、シュリは静かに、そして素早く腰に下げていた剣へと手を伸ばした。


その一連の動きを視界の端で捉え、

ユウは弾かれたようにイーライの上から起き上がる。


「シュリ・・・」


声をかける間もなかった。


シュリは一歩踏み込み、

絨毯の上に倒れたままのイーライの首元へ、迷いなく剣先を突きつけた。


「離れてください」


低く抑えた声には、

はっきりとした怒りが込められていた。


「シュリ、違うの」

ユウは素早く立ち上がり、シュリの右手に触れた。


「――私が階段から落ちて・・・それを、イーライが受け止めただけ。事故なの!」


必死な声だった。


ユウは剣を握るシュリの腕を、そっと、けれど確かに抑える。


しかし、シュリは剣を納めなかった。


いつも穏やかな茶色の瞳が、鋭く細められる。


――許せなかった。


重ねられていた唇。

白い太ももに触れていたイーライの手。


そして――

同じ相手を想っているからこそ、分かってしまう。


あれは、事故の顔ではなかった。


ほんの一瞬でも、確かに、喜びがイーライの表情に宿っていた。


イーライは微動だにしない。

絨毯の上に身を投げ出したまま、

シュリの剣先を、ただ静かに受け止めている。


「シュリ、落ち着いて・・・」

ユウは震える声で、シュリの右腕を掴んだ。


――いつも、穏やかで優しいシュリ。

自分の感情が乱れたときには、誰よりも早く気づき、静かに落ち着かせてくれた。


長い間、いつも一緒にいた。


そのシュリが、今は怒りに我を忘れている。


私のせいだ。


胸が締めつけられ、ユウの声は自然と涙を含んだ。


「シュリ・・・」


そのときだった。


シュリがユウの顔を見た瞬間、はっと息を呑む。


「ユウ様・・・! お口が!」


怒りに燃えていた瞳が、一瞬で不安に塗り替えられる。


シュリは慌てて剣を納め、ユウのもとへ駆け寄った。


「どうしたの?」


ユウの左の唇から、真っ赤な血が伝っていた。


「口を開けてください」

シュリはそう言って、そっとユウの顔に触れる。


「え・・・? でも・・・」

ユウは小さく首を振った。


口の中を覗かれるのは、なぜだか気恥ずかしい。


「お見せください」


真剣な声だった。


その表情に逆らえず、ユウはためらいながらも、唇をわずかに開いた。


「もっとです」

シュリは焦ったように言い、ユウの口の中を必死に覗き込んだ。


間近に迫るその顔に、ユウは思わず頬を赤らめる。


近すぎる距離に、息がかかるのが分かる。


うまく確認できないのか、シュリは眉を寄せた。


「もっと、口を大きく」


有無を言わせない口調だった。


ユウは観念し、素直に従う。


「・・・口の中が、切れている?」


独り言のように呟く。


「舌を出してください」


その言葉に、ユウはさらに顔を赤くした。


「い、いやよ・・・そんな・・・はしたないこと・・・」


口の中を見られるだけでも、予想以上に恥ずかしい。


「お見せください!」


切迫した声だった。


その真剣さに押され、ユウはためらいながら、そっと舌を出す。


シュリは注意深く確認し、

舌に傷がないことを確かめると、わずかに安堵の息をついた。


――大丈夫。


けれど。


赤らんだ顔で、舌を差し出すユウの姿は、なぜかひどく艶めいて見えた。


その様子に、イーライも唇から血を流したまま、

思わず喉を鳴らしてしまう。


「・・・失礼します」


シュリは自分を戒するように短く言い、ユウの歯にそっと指を触れた。


ユウは居心地の悪さに身を強張らせながらも、

言われるがまま口を開けている。


「歯は、大丈夫ですね」


その瞬間。


頬を紅潮させたユウの表情に気づき、シュリははっとして咳払いをした。


添えていた手を、そっと離す。


「イーライ! 血が・・・!」

ユウが思わず声を上げた。


イーライの左の唇にも、細い血の筋が伝っている。


「口の中を切ったようです。歯は無事です」

イーライは淡々と答え、懐からハンカチを取り出して血を拭った。


「ユウ様も」

シュリが、同じようにハンカチを差し出す。


「私を受け止めるために・・・ごめんね、イーライ」

ユウは眉を下げ、申し訳なさそうに呟いた。


「とんでもございません」

イーライは視線を伏せる。


「その・・・唇に・・・」


ユウは躊躇いがちに言葉を続けた。

思いもよらず唇を重ねてしまったことを、気にしているのが伝わってくる。


「いえ・・・私の方こそ、失礼しました」

イーライはわずかに顔を赤らめた。


二人のやりとりを見つめながら、シュリは状況を冷静に整理していた。


添えられた手も、触れ合った唇も――事故だ。


そう判断できる。


――けれど。


イーライの表情には、

抑えきれない喜びと、胸の高鳴りが、確かに宿っていた。


シュリは唇を噛みしめ、イーライに向き直って頭を下げる。


「・・・剣を向けてしまい、申し訳ありませんでした」



「いえ・・・大丈夫だ」

イーライは後ろめたさがあるようで、目を伏せながら答えた。


その場に、ほんの少しだけ穏やかな空気が戻る。


「・・・イーライ」

ユウが、ぽつりと口を開いた。


「好いた人がいるのに・・・ごめんね」


その言い方は、唇が触れたことを、遠回しに詫びているようだった。


その一言に、イーライとシュリの動きが止まる。


シュリは素早く、イーライを見た。


――そんな話を、したのか。


そして、イーライが想っている相手が誰なのか。


それも、シュリにははっきりと分かっていた。


気づいていないのは、ユウ様だけだ。


イーライはその視線を感じ取り、わずかに肩を揺らす。


「・・・いえ。事故です。お気になさらないでください」


淡々と、そう告げた。


シュリは、何も言わなかった。


言葉にすれば、この場を壊してしまうと分かっていたからだ。


「そろそろ、棟に戻りましょう。・・・お茶を淹れます」


イーライは立ち上がり、扉を開けた。


――初めての口づけは、好いた女性とのものだった。


それは、血の味がした。




次回ーー明日の20時20分


笑っている。

けれど、それは――昨日までの笑顔ではなかった。


見てしまったから、わかる。

何かが、確かに動いたことを。


気づいていないのは、

中心にいる、ただ一人だけ。

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