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あの男が私の部屋にいる

扉が閉まると、部屋には静寂が落ちた。


ユウとヨシノ、シュリが去り、残されたのはウイとレイ。


慌てて二人の乳母がお茶を淹れはじめ、カチャリとカップの音がやけに響く。


「・・・姉上、大丈夫かな」

レイが小さくつぶやく。


「シュリがいるから・・・大丈夫よ。きっと」


ウイは妹に向けた言葉というより、自分に言い聞かせるように答えた。


差し出されたカップを震える指で包み込みながら、胸の奥に重い影を抱く。


――姉上と私は一歳しか違わないのに。


けれど、姉上はもう大人の女性のように強く、美しい。


誰もが目を奪われる輝き。


それに比べて私は平凡だ。


金褐色の髪に群青の瞳――悪くはないはずなのに、姉上のように吸い込まれる美しさはない。


ずっと劣等感を抱いてきた。


輝く姉の隣にいることに。


好いているリオウ様でさえ、結局は姉上を夢中で見つめていた。


けれど・・・今、私は思う。


あまりにも強い光は、その分だけ濃い影を背負うのだと。


姉上の美しさが、あの辛い運命を呼んでしまったのだろうか。


ウイは湯気の立つお茶に口をつけることなく、ただ黙って見つめていた。



「ユウ様をお連れしました」

イーライの声が廊下に響く。


「おお、入れ」


扉をくぐった瞬間、鼻をつく香の匂いが押し寄せた。


キヨが焚かせたのだろう。


甘ったるく濃い香りは、部屋の空気を重く淀ませていた。


彼は、ユウの部屋の中央で、ゆったりと一人がけの椅子に腰をかけていた。


まるで自分の部屋の主であるかのように。


その椅子は、ユウが座れば膝が不格好に持ち上がってしまうほど低すぎる。


ーーあの椅子に座らずに済んで良かった。


心の底からそう思った。


彼が触れたものに、これ以上触れたくはない。


そのとき、ヨシノが慌てて開け放たれていた寝室の扉を閉めた。


守るように、隠すように。


滞在してわずか二日の部屋。


それでも、ここは自分の空間のはずだった。


その場所に、あの男がいる。


耐え難い屈辱。


けれど、ここはキヨの城――ユウに文句を言う権利など、どこにもなかった。


「ユウ様、まぁ、座ってくだされ」

キヨの口元に浮かんだ笑みは、蛇の舌のように冷たく粘ついていた。


ユウはこわばった顔のまま、ゆっくりとソファーに腰を下ろす。


膝の上で重ねた手は白く強張り、指先が小さく震えていた。


「イーライ、とびっきりの茶を頼む」

楽しげに命じる声が、部屋の空気をさらに異質なものにする。


「はっ」

イーライは盆を手に取り、茶器を整え始めた。


しかし、その動きはぎこちなく、湯の注ぎ口から一滴がこぼれた。


シュリは、そっとユウの背に影のように佇み、腰の剣に手を添えた。


柄を握る指は白くなり、今にも一歩前へ出そうに震えている。


「ユウ様、この部屋は気に入ったか?」

キヨは、にたりと笑いながら真っ直ぐに見つめてきた。


「・・・はい。とても。広々としています」

ユウは視線を逸らし、遠くを見たまま答える。


「そうか、そうか」

粘つく声が、耳の奥にまとわりつく。


「この部屋はな・・・シリ様が来ることを考えて作られたのじゃ」

キヨは満足そうに部屋を見渡した。


「・・・母上の、ため?」

ユウの瞳が大きく揺れる。


「そうじゃ。シリ様は背が高いからな。この部屋は、他の部屋より家具をすべて高くしておる」


すっとユウの顔から血の気が引いた。


その瞬間、イーライの手元で茶が溢れ、カップの縁から滴がこぼれる。


白い皿に落ちた一滴が、まるで赤い血のように広がった。


「母上は・・・」


『お前の』と言いそうになり、ユウは唾を飲み込んだ。


「母上は・・・あなたの元には・・・」


「そこじゃ」

キヨは大袈裟にため息をつき、椅子にもたれた。


「シリ様は、わしの元には来なかった。

・・・だが、いつの日かお迎えできると夢見て、この部屋を造ったのじゃ」


じっとユウを射抜くように見つめる眼差し。


その視線に晒され、シュリの背を冷たい汗が伝った。


「けれど・・・母上は・・・あなたが殺した」

ユウの声は低く抉るようで、その青い瞳に再び烈しい光が戻る。


「・・・誠に、残念じゃ」

キヨの瞳からふっと光が失せた。


「生きていて欲しかった・・・この手で迎えたかった」

潤む目に涙が溜まり、次の瞬間、彼は子供のように泣き出した。


突然の嗚咽に、ユウは呆気に取られる。


ーー叔父上が言っていた。


『キヨは面白い奴だ』と。


だが私は面白くなどない!


この男のせいで、私の大事なものは次々と奪われた!!


キヨは、直後に顔を拭って冷徹な目でつぶやく。


「・・・だからユウ様は、わしが守らねばならぬのだ」


その時、イーライが、お茶を差し出した。


その手がわずかに震えているのをユウは見逃さなかった。


「うむ!うまい!」

キヨは、紅茶を一口飲み、子供のように顔を綻ばせる。


「イーライの茶は誠にうまい!」

砂糖を匙で何度も掬い入れ、豪快にかき混ぜながら笑った。


ユウの胸に、憎悪が再び込み上げる。


ーーこの男は子供ではない。


気分に振り回される、狂気そのものだ。


青い瞳は燃えるように揺れ、今にも言葉が溢れ出しそうだった。



「この椅子はな・・・」

キヨはゆっくりと椅子の手すりを撫で、満足そうに目を細めた。


ユウはその動作を、憎しみで凝視する。


声を上げれば、怒鳴りたくなる。


それを必死に抑えて歯を噛み締めた。


「この椅子はな、シリ様とお茶を飲むために作らせたのじゃ。

わしにぴったりじゃろ。こうして二人でお茶を飲むのが、わしの長年の夢だった」


キヨの言葉がゆっくりと、部屋の空気をねっとりと覆う。


彼の目がユウを貫くように見つめると、ユウは内側から焼けるような怒りを感じた。


だが、表には何も出さない。


微動だにせず、ただ前を向く。


ふいに、キヨの手がユウの肩に置かれた。


冷たく、重たい感触が直に伝わる。


ユウはぎくりと身体を硬直させた。


胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。


「これから先は、このキヨがユウ様をしっかりとお守りします」

キヨは満面の笑みで近づき、ねっとりとした声で続けた。


「どうか、安心して・・・その身を預けてください」


その指がユウの頬に触れた瞬間、世界が一瞬、静止した。


ユウの視界は鋭くなり、相手の黄ばんだ歯までくっきりと見える。


「・・・ユウ様はわしがお守りする! 必ず」


粘ついた声が耳に絡みつく。


守るという言葉が、鉄鎖のように重くのしかかった。


体の奥から吐き出したくなる嫌悪と怒り。


それでも――ユウは動かない。


――耐えるのよ。ここで声を上げれば、すべてが壊れる。


妹たちがいる。


シュリがいる。


わたしは・・・耐えなければ。


歯を噛み締めすぎて顎が痛む。


握りしめた拳の爪が掌に食い込み、血がにじんでも構わなかった。


ただ、ひたすらに。


その手を振り払いたい衝動を、胸の奥に押し込めた。


「まことに・・・まことに良い眼差しだ」

キヨは満足そうに息を吐き、顔を赤らめるように笑った。


「今日は長年の夢が叶った。お茶を、こうして飲めたのじゃ」


イーライはポットを手に固まり、そっと手を止めた。


動揺で湯気が揺れる。


シュリの両手は、いつでも剣を抜けるように腰にかかっている。



剣を抜きたい衝動が、胸の奥で炎のように燃え上がった。


ーーこの手で叩き落としたい、この男の汚れた手を。


けれど、ユウ様は耐えている。


ならば、自分もまた耐えねばならない。


剣を抜けば、すべてが終わる。


彼女を守るどころか、すべてを奪ってしまう。


震える指に力を込め、必死に理性を繋ぎ止めた。


ゆっくりと、ねっとりした香の匂いとともにキヨの顔が近づいてきた。


その時だった。


ドンドンと扉を叩く音は、まるで重苦しい空気を裂く鐘のようだった。


「失礼します!」

サムの声が響いた瞬間、張り詰めた空気が一気に解けた。


部屋に入った彼は、一瞬で状況を察したように青ざめた。


「明後日の出陣について、キヨ様のご意見を伺いたく・・・皆が城中を探しておりました」


どうやら、キヨは誰にも告げずにユウの部屋に来ていたのだ。


「・・・サム、わかった」

キヨは名残惜しそうに吐息をつき、ユウに笑みを投げた。


「それでは・・・ユウ様。また今度」


『今度』という言葉をいやに強調して、キヨは立ち去った。


慌ててイーライも後を追う。


残された部屋には、香の匂いだけが濃く残った。


残り香が喉を塞ぎ、吐き気のようにユウの胸を締めつけた。


次回


月光の下、震える唇でユウはつぶやいた。

――あの男を、殺したい。


怒りと哀しみの果て、彼女は禁断の口づけを交わす。

それが、戻れぬ夜のはじまりだった。

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