あの男が私の部屋にいる
扉が閉まると、部屋には静寂が落ちた。
ユウとヨシノ、シュリが去り、残されたのはウイとレイ。
慌てて二人の乳母がお茶を淹れはじめ、カチャリとカップの音がやけに響く。
「・・・姉上、大丈夫かな」
レイが小さくつぶやく。
「シュリがいるから・・・大丈夫よ。きっと」
ウイは妹に向けた言葉というより、自分に言い聞かせるように答えた。
差し出されたカップを震える指で包み込みながら、胸の奥に重い影を抱く。
――姉上と私は一歳しか違わないのに。
けれど、姉上はもう大人の女性のように強く、美しい。
誰もが目を奪われる輝き。
それに比べて私は平凡だ。
金褐色の髪に群青の瞳――悪くはないはずなのに、姉上のように吸い込まれる美しさはない。
ずっと劣等感を抱いてきた。
輝く姉の隣にいることに。
好いているリオウ様でさえ、結局は姉上を夢中で見つめていた。
けれど・・・今、私は思う。
あまりにも強い光は、その分だけ濃い影を背負うのだと。
姉上の美しさが、あの辛い運命を呼んでしまったのだろうか。
ウイは湯気の立つお茶に口をつけることなく、ただ黙って見つめていた。
◇
「ユウ様をお連れしました」
イーライの声が廊下に響く。
「おお、入れ」
扉をくぐった瞬間、鼻をつく香の匂いが押し寄せた。
キヨが焚かせたのだろう。
甘ったるく濃い香りは、部屋の空気を重く淀ませていた。
彼は、ユウの部屋の中央で、ゆったりと一人がけの椅子に腰をかけていた。
まるで自分の部屋の主であるかのように。
その椅子は、ユウが座れば膝が不格好に持ち上がってしまうほど低すぎる。
ーーあの椅子に座らずに済んで良かった。
心の底からそう思った。
彼が触れたものに、これ以上触れたくはない。
そのとき、ヨシノが慌てて開け放たれていた寝室の扉を閉めた。
守るように、隠すように。
滞在してわずか二日の部屋。
それでも、ここは自分の空間のはずだった。
その場所に、あの男がいる。
耐え難い屈辱。
けれど、ここはキヨの城――ユウに文句を言う権利など、どこにもなかった。
「ユウ様、まぁ、座ってくだされ」
キヨの口元に浮かんだ笑みは、蛇の舌のように冷たく粘ついていた。
ユウはこわばった顔のまま、ゆっくりとソファーに腰を下ろす。
膝の上で重ねた手は白く強張り、指先が小さく震えていた。
「イーライ、とびっきりの茶を頼む」
楽しげに命じる声が、部屋の空気をさらに異質なものにする。
「はっ」
イーライは盆を手に取り、茶器を整え始めた。
しかし、その動きはぎこちなく、湯の注ぎ口から一滴がこぼれた。
シュリは、そっとユウの背に影のように佇み、腰の剣に手を添えた。
柄を握る指は白くなり、今にも一歩前へ出そうに震えている。
「ユウ様、この部屋は気に入ったか?」
キヨは、にたりと笑いながら真っ直ぐに見つめてきた。
「・・・はい。とても。広々としています」
ユウは視線を逸らし、遠くを見たまま答える。
「そうか、そうか」
粘つく声が、耳の奥にまとわりつく。
「この部屋はな・・・シリ様が来ることを考えて作られたのじゃ」
キヨは満足そうに部屋を見渡した。
「・・・母上の、ため?」
ユウの瞳が大きく揺れる。
「そうじゃ。シリ様は背が高いからな。この部屋は、他の部屋より家具をすべて高くしておる」
すっとユウの顔から血の気が引いた。
その瞬間、イーライの手元で茶が溢れ、カップの縁から滴がこぼれる。
白い皿に落ちた一滴が、まるで赤い血のように広がった。
「母上は・・・」
『お前の』と言いそうになり、ユウは唾を飲み込んだ。
「母上は・・・あなたの元には・・・」
「そこじゃ」
キヨは大袈裟にため息をつき、椅子にもたれた。
「シリ様は、わしの元には来なかった。
・・・だが、いつの日かお迎えできると夢見て、この部屋を造ったのじゃ」
じっとユウを射抜くように見つめる眼差し。
その視線に晒され、シュリの背を冷たい汗が伝った。
「けれど・・・母上は・・・あなたが殺した」
ユウの声は低く抉るようで、その青い瞳に再び烈しい光が戻る。
「・・・誠に、残念じゃ」
キヨの瞳からふっと光が失せた。
「生きていて欲しかった・・・この手で迎えたかった」
潤む目に涙が溜まり、次の瞬間、彼は子供のように泣き出した。
突然の嗚咽に、ユウは呆気に取られる。
ーー叔父上が言っていた。
『キヨは面白い奴だ』と。
だが私は面白くなどない!
この男のせいで、私の大事なものは次々と奪われた!!
キヨは、直後に顔を拭って冷徹な目でつぶやく。
「・・・だからユウ様は、わしが守らねばならぬのだ」
その時、イーライが、お茶を差し出した。
その手がわずかに震えているのをユウは見逃さなかった。
「うむ!うまい!」
キヨは、紅茶を一口飲み、子供のように顔を綻ばせる。
「イーライの茶は誠にうまい!」
砂糖を匙で何度も掬い入れ、豪快にかき混ぜながら笑った。
ユウの胸に、憎悪が再び込み上げる。
ーーこの男は子供ではない。
気分に振り回される、狂気そのものだ。
青い瞳は燃えるように揺れ、今にも言葉が溢れ出しそうだった。
「この椅子はな・・・」
キヨはゆっくりと椅子の手すりを撫で、満足そうに目を細めた。
ユウはその動作を、憎しみで凝視する。
声を上げれば、怒鳴りたくなる。
それを必死に抑えて歯を噛み締めた。
「この椅子はな、シリ様とお茶を飲むために作らせたのじゃ。
わしにぴったりじゃろ。こうして二人でお茶を飲むのが、わしの長年の夢だった」
キヨの言葉がゆっくりと、部屋の空気をねっとりと覆う。
彼の目がユウを貫くように見つめると、ユウは内側から焼けるような怒りを感じた。
だが、表には何も出さない。
微動だにせず、ただ前を向く。
ふいに、キヨの手がユウの肩に置かれた。
冷たく、重たい感触が直に伝わる。
ユウはぎくりと身体を硬直させた。
胸が締めつけられ、呼吸が浅くなる。
「これから先は、このキヨがユウ様をしっかりとお守りします」
キヨは満面の笑みで近づき、ねっとりとした声で続けた。
「どうか、安心して・・・その身を預けてください」
その指がユウの頬に触れた瞬間、世界が一瞬、静止した。
ユウの視界は鋭くなり、相手の黄ばんだ歯までくっきりと見える。
「・・・ユウ様はわしがお守りする! 必ず」
粘ついた声が耳に絡みつく。
守るという言葉が、鉄鎖のように重くのしかかった。
体の奥から吐き出したくなる嫌悪と怒り。
それでも――ユウは動かない。
――耐えるのよ。ここで声を上げれば、すべてが壊れる。
妹たちがいる。
シュリがいる。
わたしは・・・耐えなければ。
歯を噛み締めすぎて顎が痛む。
握りしめた拳の爪が掌に食い込み、血がにじんでも構わなかった。
ただ、ひたすらに。
その手を振り払いたい衝動を、胸の奥に押し込めた。
「まことに・・・まことに良い眼差しだ」
キヨは満足そうに息を吐き、顔を赤らめるように笑った。
「今日は長年の夢が叶った。お茶を、こうして飲めたのじゃ」
イーライはポットを手に固まり、そっと手を止めた。
動揺で湯気が揺れる。
シュリの両手は、いつでも剣を抜けるように腰にかかっている。
剣を抜きたい衝動が、胸の奥で炎のように燃え上がった。
ーーこの手で叩き落としたい、この男の汚れた手を。
けれど、ユウ様は耐えている。
ならば、自分もまた耐えねばならない。
剣を抜けば、すべてが終わる。
彼女を守るどころか、すべてを奪ってしまう。
震える指に力を込め、必死に理性を繋ぎ止めた。
ゆっくりと、ねっとりした香の匂いとともにキヨの顔が近づいてきた。
その時だった。
ドンドンと扉を叩く音は、まるで重苦しい空気を裂く鐘のようだった。
「失礼します!」
サムの声が響いた瞬間、張り詰めた空気が一気に解けた。
部屋に入った彼は、一瞬で状況を察したように青ざめた。
「明後日の出陣について、キヨ様のご意見を伺いたく・・・皆が城中を探しておりました」
どうやら、キヨは誰にも告げずにユウの部屋に来ていたのだ。
「・・・サム、わかった」
キヨは名残惜しそうに吐息をつき、ユウに笑みを投げた。
「それでは・・・ユウ様。また今度」
『今度』という言葉をいやに強調して、キヨは立ち去った。
慌ててイーライも後を追う。
残された部屋には、香の匂いだけが濃く残った。
残り香が喉を塞ぎ、吐き気のようにユウの胸を締めつけた。
次回
月光の下、震える唇でユウはつぶやいた。
――あの男を、殺したい。
怒りと哀しみの果て、彼女は禁断の口づけを交わす。
それが、戻れぬ夜のはじまりだった。




