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私だけを想ってくれる人がいい

「あの男がいないと思うだけで、気分がいいわ」

ユウは部屋のバルコニーに立ち、ぽつりと本音をこぼした。


キヨと多くの兵が出陣した今、巨大な城は嘘のように静まり返っている。


秋の風が、冬の気配を連れて吹き抜け、

淡い光の中でユウの髪を静かに揺らした。


その言葉に、シュリは小さく微笑むだけで、肯定も否定も口にしなかった。


今のユウに必要なのは、正しさではなく、息をつく時間だと分かっていたからだ。


そこへ――


「失礼します」


硬質な声が、バルコニーの空気を割った。


振り向くと、そこに立っていたのはイーライだった。


「ユウ様。ミミ様がお呼びです」

淡々とした口調。


だが一瞬、風に揺れるユウの姿に視線が止まり、わずかに息を呑む。


「・・・ミミ様が?」

その名を口にした途端、胸の奥がわずかに冷えた。


ユウの表情にかすかな翳りが落ちた。


ミミーーキヨの正妃。


十六の自分に、夫が言葉を重ね、距離を詰めてきていることを――

彼女は、どこまで知っているのだろう。


ユウの沈黙を察し、イーライは軽く咳払いをした。


「――ミミ様は、ご存知ではないと推測します」


主語を置かない、慎重な言い回し。


それでも、十分だった。


ユウは小さく息を吐き、安堵したように頷いた。



◇ 城の本館 ミミの部屋


「ユウ様、こちらへどうぞ」

ミミの声には、心から歓迎している響きがあった。


形式ばったものではなく、親しい客を迎えるような柔らかさ。


「ありがとうございます」

ユウは促されるまま、豪奢な椅子に腰を下ろす。


「今日はね」

ミミはそう言ってから、ユウの背後に控えるシュリへと視線を向けた。


「シュリの衣服を、新調しようと思っているの」


微笑みながら、当たり前のように告げる。


「・・・ありがとうございます」

ユウは思わず、深く頭を下げた。


侍女や女中、乳母には制服がある。

だが、姫に仕える男の乳母子には、決まった衣はなかった。


以前、そのことに気づいたユウが進言し、

それ以来、ミミは定期的にシュリの衣服を整えてくれている。


「シュリ、また背丈が伸びたようね」


穏やかに声をかけられ、シュリも深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「戦がどう転ぶかは分からないけれど・・・」

ミミは静かに言葉を選んだ。


「キヨの国王就任の儀式は、きっと行われるわ。

それに合わせて、礼服も用意しなくてはね」


その口調には、期待も、不安も、どちらも含まれていた。


ミミの微笑みを見つめながら、ユウの胸に、鈍い痛みが広がる。


――こんなにも、良い人なのに。


その夫から、自分は妾にならないかと口説かれている。


ミミが良い人であればあるほど、ユウの胸は締めつけられた。


まるで――自分が、彼女を裏切っているかのように。


ユウはただ、微笑みを崩さないよう努めていた。


ユウは、そっと背筋を伸ばした。


「ミミ様・・・もう一つ、お願いがあります」


声には、はっきりと緊張が滲んでいた。


「何かしら?」

ミミは微笑む。


「新しいドレス?」


「いえ・・・衣類は、もう十分にいただいております」


喉が、ひくりと鳴る。


ユウは一度、息を整えた。


「それでは?」


「以前、私はミミ様にお願いしました」

ユウは視線を上げ、言葉を選ぶ。


「妹たちよりも、先に自分が嫁ぎたい、と」


「ええ・・・そうね」

ミミは、あの時と変わらぬ柔らかな笑みで頷いた。


妹たちが嫁いでいく姿を見届けるのが怖かった。


嫁ぐのなら、長女である自分が先に――そう願い、ユウはこの人に頼んだのだ。


「・・・考えが、変わりました」

ユウの声が、わずかに低くなる。


「妹たちを、先に嫁がせてほしいのです」


その言葉に、後ろで控えていたシュリが、思わず顔を上げた。


――どうして?


真っ直ぐに伸びたユウの背中を、目で追う。


茶の支度をしていたイーライも、ふと手を止めた。


「ユウ様、どうして?」

ミミが、穏やかに問いかける。


「妹たちの幸せを・・・」

ユウは、はっきりとした声で答えた。


「きちんと、見届けたいと願うようになったからです」


その眼差しは、揺らがない。


「ええと・・・」

ミミは考えるように言う。


「ウイ様と、レイ様は・・・」


「十五歳と、十二歳です」

即座に、ユウが答えた。


「私は十六です」

一拍置き、続ける。


「婚期が遅くなっても、構いません」


ミミは、探るようにユウを見つめた。


「そう、なのね」

静かに頷く。


「はい」

ユウの眼差しは、真っ直ぐだった。


「ユウ様」

ミミは、ふっと声を和らげた。


「あなたの希望は?」


その問いに、ユウの表情が、わずかに崩れそうになる。


「・・・私の、希望?」

掠れた声で、問い返す。


「そうよ」

ミミは大きく頷いた。


「ユウ様のお話は、妹姫たちのことばかり。ユウ様ご自身の願いを、教えてほしいの」


覗き込むような、温かな眼差し。


それがあまりにも優しくて、ユウは、涙がこみ上げるのを必死に堪えた。


「・・・私の、希望は・・・」


気づけば、本音が唇から零れていた。


「父上のような・・・」

声が、わずかに震える。


「妻だけを想ってくれる方が、いいです」


ミミは、何も言わずに頷いた。


「他には?」


静かに、促す。


「・・・豊かでなくても、いいです」

ユウは、言葉をつなぐ。


「私だけを想ってくれる方と・・・ご縁があれば・・・それで、幸せです」


その言葉は、ミミの部屋に、静かに響いた。


イーライは紅茶を注ぎ終えたまま、カップを持つ手を、わずかに下ろせずにいた。


――あまりにも、ささやかな願い。


任務そのものを、忘れていた。


放心したように、ユウの背中を見つめている。


ミミは、その熱を帯びた視線を、一瞬だけ、確かに捉えた。


「イーライ」

穏やかに声をかける。


「お茶をお願い」


その一言で、ユウははっと我に返った。


――ミミ様が、あまりにも優しいから。


「・・・失礼しました」

ユウは慌てて言い、長い髪を耳にかける。


「今の言葉は・・・忘れてください」


ーー姫なのに。


領や民の幸せを考えなくてはいけない立場なのに。


自分の希望を口にしてしまった。


苦い後悔が襲う。


「いいえ」

ミミは、やさしく微笑んだ。


「そんなことはないわ」


カップを手に取り、続ける。


「ユウ様は、いつも他人のことばかり考えて、

ご自分の願いを口にしないでしょう?」


視線を和らげる。


「今日は、それが聞けて嬉しかったわ」


「・・・ありがとうございます」


ミミは紅茶を一口含み、ぽつりと呟く。


「争いがある間は、婚礼は進まないわ」


ユウは、静かに頷いた。


「けれど・・・」

ミミは続ける。


「争いが終わったら、ユウ様を含めて、姫様方の未来を、定めなければね」


飲み終えたカップを、ミミは静かにテーブルへ戻した。


「ユウ様」

ふと、話題を変えるように言う。


「本館の最上階からの景色をご覧になったことはある?」


「・・・いいえ」

ユウは正直に答えた。


本館は、キヨとミミが暮らす場所だ。


ユウたちの生活の拠点は、西の棟にある。


意識して、足を踏み入れないようにしてきた場所でもあった。


「とても見事なのよ」

ミミは微笑む。


「海まで、きれいに見えるの」


そう言ってから、ふいに、思わせぶりな視線をイーライへ向けた。


その一瞬で――聡いイーライは、胸の奥がざわつくのを感じた。


ーー知られてしまった。


自分が胸の内に隠してきたものを、

まるで柔らかく掬い上げられたような、不思議な感覚。


わずかに肩が揺れたのを、ミミは見逃さなかった。


「イーライ」

穏やかな声で呼ぶ。


「案内してあげて」


その声音には、問いも、拒否も、含まれていなかった。


イーライは、ミミの視線を正面から受け止め、

一瞬だけ迷い――そして、悟ったように息を整える。


「・・・承知しました」


深く、静かに頭を下げる。


イーライはわかっていた。


ユウのささやかな願いは、

この国の行く末と、あまりにも噛み合わないことを。





次回ーー本日の20時20分


触れてはいけないと思った。

それでも、心は一歩、先へ進んでしまった。


高い場所から戻ったあと、

何も変わらないふりをした日常が、

少しずつ、歪み始める。


気づいていないのは、

――ただ一人だけ。

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