脱がせるためのドレス
◇ 一夜明けて、キヨの執務室
いよいよ、明日は南領への出陣。
城全体が張り詰めた空気に包まれる中でも、
ひときわ密度の濃い部屋があった。
――キヨの執務室である。
大机いっぱいに広げられた地図と、兵糧配分の図面。
その端で、イーライは袖をまくり、黙々と手を動かしていた。
各地への書簡の手配。
同時に進められる、国王就任に向けた準備。
戦と政治。
二つの歯車を同時に回す忙しさに、思考を止める暇はなかった。
――目が回る、とはまさにこのことだ。
その時だった。
「イーライ、ちょっといいか」
声をかけたキヨの表情は、珍しく真剣だった。
いつもの軽さも、冗談めいた色もない。
イーライは手を止め、静かに顔を上げた。
部屋の隅へと呼ばれ、キヨは声を落とした。
「・・・近くに」
神妙な顔で囁かれ、イーライは息を詰める。
――大切な話だ。
直感的にそう悟り、緊張が背筋を走った。
イーライは身を屈める。
背の低いキヨに合わせ、膝を曲げ、顔を近づけた。
「国王就任の儀式でな」
キヨは、低く言った。
「ユウ様が着るドレスを選ぶのじゃ」
一瞬、室内の空気が止まった。
議論の声も、紙をめくる音も、
すべてが遠のいたように感じられる。
「・・・まだ」
イーライは慎重に口を開く。
「御縁は、結ばれておりませぬが」
返事は、いまだない。
キヨの求めに、ユウは明確に応じてはいない。
その事実を、イーライは言葉の端に込めた。
だが――
キヨは笑った。
それは、冗談めいた笑みではなかった。
「だからこそ、よ」
声音は静かで、揺らぎがない。
「国王となる男の隣に立つ女――その“姿”を、先に世に示すのじゃ」
イーライは、はっきりと理解した。
これは、贈り物ではない。
懐柔でも、誘惑でもない。
――宣言だ。
拒む余地を、削り取るための。
「こんなこと」
キヨは続ける。
「ミミには、相談できぬ」
視線が、鋭くなる。
「相談できるのは、イーライだけよ」
「・・・はぁ」
イーライは、言葉を選ぶ。
「私は、女性のドレスには疎く・・・」
「構わぬ」
即答だった。
「良い商人がおる。もう、部屋で待たせてある」
「・・・え」
思わず、声が漏れる。
「すぐに行くのじゃ」
有無を言わせぬ調子だった。
イーライは、返事をする前に一度、息を飲み込んだ。
――これは、戻れぬ一歩だ。
そう理解しながら、彼は静かに頷いた。
◇
キヨが指定した部屋に足を踏み入れると、
商人はすでに椅子に腰掛けて待っていた。
落ち着いた物腰の、中年の男だ。
「ソウと申します」
穏やかな笑みを浮かべ、名乗る。
イーライは軽く一礼し、向かいの椅子に座った。
――政ではなく、女の装い、か。
胸の奥で、言葉にならない違和感が広がる。
差し出されたのは、幾重にも重ねられた生地の山だった。
イーライはそれを前に、わずかに眉を寄せる。
――こんなことより、やるべきことはいくらでもある。
だが、命じたのは他の誰でもない。
キヨなのだ。
「キヨ様から、事前に伺っております」
ソウが淡々と切り出す。
「胸元を出したドレス、と」
イーライの眉が、はっきりと上がった。
「・・・胸元?」
「はい」
即答だった。
イーライは、言葉を失う。
――そのような装いを、果たしてユウ様が身につけるだろうか。
想像しただけで、胸の奥が軋んだ。
黙り込むイーライを見て、ソウは話題を変えるように続けた。
「ユウ様は、ワスト領の元妃、シリ様のお子と伺いました」
「・・・いかにも」
短く答える。
「実は私、かつてシリ様のもとで仕事をしておりまして」
イーライは、はっと顔を上げた。
「・・・本当か?」
「はい。シリ様が作られた軟膏を、各地へ卸していたのは私です。
もう、十年以上も前の話になりますが」
ソウは、懐かしむように目を細めた。
イーライは、思わず黙り込む。
「ユウ様の体型は、シリ様に似ておられますか」
「・・・似ている」
イーライは、慎重に答えた。
「ユウ様の方が、背は高いと聞いているが」
「そうでしたね。以前、キヨ様からドレスを依頼された時に驚いたものです。お顔立ちは?」
「・・・似ている」
イーライが最後にシリと対面したのは、彼女が亡くなる直前だった。
あのときの眼差し。
揺るぎない意志。
人を射抜くような強さ。
そして、その後に、同じ瞳を持つ娘が、目の前にいたことに息を呑んだ。
――今、思えば。
あの頃から、すでに。
イーライは、無意識のうちに目を伏せていた。
自分が想いを寄せる女性。
その彼女が、主の妾となるための衣を選ぶ。
これほど皮肉な役目が、他にあるだろうか。
イーライは、胸の奥に滲む痛みを押し殺し、静かに、生地へと視線を戻した。
「シリ様に似ておられるのでしたら、この色合いはいかがでしょう」
ソウはそう言って、深みのある青の生地を差し出した。
「シリ様は、瞳の色が、ひときわ印象的な方でした」
「・・・こういう色は、よく身につけておられる」
イーライは、生地を一目見てそう呟いた。
「――それなら、こちらはいかがでしょう」
ソウが淡い色合いの布を重ねる。
「それは違う」
即座に、イーライは首を振った。
「こういう淡い色は、ユウ様には似合わない」
きっぱりとした口調だった。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「ドレスの形は、こちらを想定しておりますが」
ソウが図面を差し出す。
イーライはそれに目を落とすと、静かに首を横に振った。
「ユウ様は細身だ。この形では、かえって貧相に見えてしまう」
そう言って、無意識のままペンを取り、
「もっと線を落とした――こういう、身体の線を拾いすぎないデザインの方がいい」
紙の上に、さっと線を走らせた。
ソウは顎に手を当て、しばし図面とイーライの手元を見比べる。
「・・・なるほど」
その声には、感心と同時に、わずかな確信が混じっていた。
数十枚の布地の中で、イーライの指が止まった。
月光を溶かしたような、淡い色。
白でもなく、銀でもない。
光を含むたび、わずかに表情を変える布だった。
思わず窓際へ寄り、陽の光にかざす。
布は、光の角度に応じて、
冷たくも、温かくも見えた。
「・・・これがいい」
熱を帯びた声が、静かな部屋に落ちる。
その布を選んだ理由を、イーライ自身が理解するのが、少し遅れた。
その瞬間――
脳裏に、その布を纏ったユウの姿が浮かんだ。
肩から落ちる線。
腰へと流れる布の重み。
そして――
イーライは、生地を手に取った刹那、
無意識に、その布が置かれる「位置」を思い描いてしまった。
はっとして、視線を伏せる。
――考えるな。
これは役目だ。
感情ではなく、職務。
その言葉を、胸の奥で繰り返す。
ソウは、イーライの様子を静かに見つめてから、淡々と話をまとめた。
「承知いたしました。
頂いた図面をもとに、改めてデザイン画をお出しいたします」
「・・・よろしく頼む」
仕事ができる商人だ。
イーライは率直にそう思った。
思考の速度。
判断の柔軟さ。
自分と同じ速さで踏み込んでくる者は、そう多くない。
ソウは布を丁寧に畳みながら、ぽつりと呟いた。
「シリ様と同じく・・・ユウ様も、さぞ魅力的な方なのでしょうね」
「なぜ、そう思う」
イーライは顔を上げた。
ソウは、はっきりと言い切る。
「この商いを、長くしておりますので」
そして、イーライの目をじっと見据えた。
「ドレスを贈るのは、脱がせたいから――そんな言葉も、世にはございます」
「・・・は?」
思わず声が荒くなる。
見透かされた。
そう感じた瞬間だった。
「それでは、失礼いたします」
ソウは、何も説明せず、ただ微笑み、静かに部屋を後にした。
残されたイーライは、拳を握りしめる。
――あのドレスは、政の布石。
刀でもなく、
城でもなく、
血でもない。
一着のドレスが、
彼女の未来を包み込み、
時代を、静かに縫い変えていった。
今回登場した商人ソウは、
本シリーズでは初登場ではありません。
シリーズ1作目
『秘密を抱えた政略結婚
〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
シリーズ2作目(完結)
『秘密を抱えた政略結婚2
〜娘を守るために、仕方なく妾持ちの領主に嫁ぎました〜』
https://ncode.syosetu.com/n0514kj/
この二作品では、
まだ幼い頃のユウとシュリが描かれています。
第一部では、
エピソード118「雪の城で、未来を練る」にて
シリの窮地を救う商人として。
第二部では、
エピソード14「生き抜くために」にて
亡きグユウからの手紙を託され、届ける役目を担う人物として。
剣も、血筋も持たない。
けれど、時代が動く節目には、
いつも物語の裏側に立ち会っている存在です。
今回は、成長したユウの未来に関わる形で、
再びその姿を現しました。
過去を知っている方には、
「あの商人だ」と気づいていただけたら嬉しく、
今作から読まれている方には、
物語が一本の時間でつながっていることを
感じていただけたら幸いです。
次回ーー明日の20時20分
「戦に勝てば、迎える」
明日、出陣する男はそう言った。
力と勝利を疑わない支配者。
その背後で、姫は“選ぶことを許されない現実”を突きつけられる。
一方で差し出された、ひと通の手紙。
そこにあったのは、未来を奪わない愛だった。
――そしてユウは、
女の意思など存在しない城の現実を、目の前で見ることになる。




