背中越しの涙
シュリの腕の中で、ユウは大きく息を吸い、そして震えた。
だが、彼女の顔は見えない。
シュリの視界にあるのは、
まっすぐに伸びた背中と、張りつめたままの首筋。
そして、必死に崩れまいとする細い肩だけだった。
どんな表情をしているのか、分からない。
確かめる術はない。
それでも、背中はすべてを語っていた。
小さく上下する呼吸。
腕の中で伝わる、止まらない震え。
布越しに感じる体温の揺らぎ。
顔は見えなくても、
ユウが今、どれほど必死に立っているかは、痛いほど分かる。
長い付き合いだ。
それくらい、分かる。
泣いた顔を見られるのを、ユウが一番嫌がることだった。
だから、シュリは顔を覗こうとしなかった。
この人が向こうを向いたまま、
誰にも見せずに崩れようとしているのなら――
それを、背中から受け止めるしかない。
ユウの背骨に沿って、呼吸が伝わる。
ひとつ、吸って。
ひとつ、吐いて。
そのたびに、震えが腕の中で波打った。
シュリの腕に、水滴がいくつも落ちた。
――泣いている。
背中越しに伝わる震えと、滲む体温だけで、それは十分すぎるほど分かった。
どうして、この人ばかりが、こんなにも辛い思いを重ねるのだろう。
軽々しく慰めの言葉など、口にできない。
だからシュリは、何も言わず、ただ腕に力を込めた。
その瞬間、ユウの身体が、ぴくりと小さく跳ねる。
呼吸が、止まった。
――?
異変を感じながらも、抱きしめたまま様子をうかがうと、ふと視界の端に、耳が映った。
赤い。
はっきりと分かるほどに、赤く染まっている。
――どうされたのだろう。
疑問を抱いたまま、シュリは腕をほどかなかった。
すると、
「・・・シュリ」
ユウの唇から、かすれるような声が落ちた。
聞き取れないほど、小さくて、頼りない声。
――珍しい。
こんな呼び方をされるのは。
「・・・なんでしょう」
シュリは、声を低くして答えた。
「・・あのね・・・」
言い淀む間に、ユウの耳はさらに赤くなる。
「・・・?」
「・・・腕が・・・」
それだけだった。
「・・・腕?」
思わず、自分の腕に意識を向ける。
その瞬間だった。
「・・・っ!」
気づいてしまった。
自分の腕が、ユウの胸元に――はっきりと、触れている。
「え?」
反射的に指が、わずかに動いた。
確かに、そこに“ある”。
脳裏に、かつてリチャードに言われた言葉がよぎる。
『あの姫は、胸はないぞ』
――いや、そんなことはない。
・・・って、何を考えている!
次の瞬間、シュリはものすごい勢いでユウから離れた。
「・・・申し訳ありません!」
深々と頭を下げる。
「・・・大丈夫よ」
振り向いたユウの顔は、泣き顔ではなかった。
涙の跡はあるのに、頬まで赤く染まっている。
「すみません、その・・・気づかなくて・・・」
言い訳を探すほど、言葉が絡まる。
「私の胸が、ささやかだから気づかないのね」
ユウは、ほんの少し顎を上げた。
――気にしている。
間違いなく。
「い、いえ!! そんなことは!」
シュリは即座に否定する。
「ちゃんと、ありました」
「・・・え?」
「い、いや! そういう意味ではなくて!!」
自分で言っておきながら、何を言っているのか分からなくなり、冷や汗が流れる。
必死に言い訳を重ねるシュリの姿を見て、ユウはふっと、小さく笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけ、ほどける。
その笑みは、弱々しくも、確かにそこにあった。
「・・・びっくりはしたけれど」
ユウは、力の抜けた笑みを浮かべた。
「気分は、少し変わったわ」
「・・・申し訳ありません」
シュリは、視線を落とした。
――興味がない、と言い切れるほど無自覚でもなかった。
けれど、あんなつもりではなかった。
「嫌じゃなかったわ」
ぽつりと零した直後、ユウは自分の言葉に気づき、息を呑んだ。
「・・・え?」
シュリは、思わず間の抜けた声を出してしまう。
「なんでもない」
ユウは誤魔化すように、わずかに顎を上げた。
その仕草に、シュリは喉を鳴らす。
唾を飲み込む音が、やけに大きく室内に響き、二人の間に気まずさが落ちた。
「・・・はい」
それだけ答え、シュリは促されるままソファに腰を下ろす。
ユウも黙って、少し距離を取って座った。
「今日は・・・本当に驚いたわ」
ユウは、キヨとのやり取りを思い出したのか、小さく身を震わせた。
「あの男が、あんなことを言うなんて」
両腕を抱く仕草は、寒さを紛らわせるというより、自分を守るためのものだった。
「・・・そうですね」
シュリは、静かに相槌を打つ。
「悔しいけれど・・・今の私の立場では、断れない」
ユウは諦めたように室内を見渡した。
豪奢な調度品、衣装、靴、下着。
ここにあるすべてに、キヨの影が落ちている。
妹たちが不自由なく暮らせているのも、その庇護の上だった。
「今の私に、望めることは――」
一度言葉を切り、ユウは静かに背筋を伸ばした。
「あの男が、死ぬことよ」
本棚に並ぶ書物の背表紙が視界に入る。
《人を殺める方法》と記された一冊。
「・・・さっさと、戦で死ねばいい」
吐き出すように言ったあと、ユウは唇を噛んだ。
――言ってはいけない。
分かっている。
それでも、言わずにはいられなかった。
だからこそ、次の言葉に、ユウは目を見開いた。
「・・・そうですね」
シュリは、真っ直ぐにユウを見つめていた。
「私も、同じことを望んでいます」
それだけを、静かに。
二人はしばらく見つめ合い、やがて、ほんの小さく笑った。
「それと・・・」
シュリは、慎重に言葉を選ぶ。
「ユウ様を妾にするには、正妃の承認が必要です。
・・・ミミ様が、許すとは思えません」
「・・・そうね」
ユウの声に、確かな力が宿る。
ただ呪うよりも、道が見えた気がした。
「ミミ様なら・・・」
瞳に、微かな光が灯る。
「そうです」
シュリは、はっきりと頷いた。
――もがいてみせる。
妾として消費される人生など、選ばない。
自分の足で、自分の道を歩く。
その決意を胸に、ユウは静かに、誓った。
次回ーー本日の20時20分
剣ではなく、血でもなく、
一着のドレスが選ばれた。
それは、彼女の同意を待たない未来。
そして、
想ってはならない男が、その布に手を伸ばした。




