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抱きしめても良いですか

「それでは、ここで」


頃合いを見計らい、キヨはユウの部屋を後にした。


廊下へ出て数歩進んだところで、彼は大きく息を吐く。


「・・・緊張した」


隣で銀のカートを押すイーライに、気軽に話しかける。


「女を口説くのに、あんなに緊張したのは初めてだ」


キヨは、呼吸をするように女を口説き、甘い言葉を囁く。


口が達者で、人の機微にも敏い。


今のように財産がなくても、その才覚で――女が途切れたことなど、かつて一度もない。


イーライは、わずかに喉を鳴らし、低く答えた。


「・・・左様でございますか」


「とにかく」

キヨは気にも留めず続ける。


「戦が終わったら、これでユウ様を抱ける」


その一言に、イーライの足が、ほんの一瞬、止まりかけた。


「今夜はな」

キヨは軽い調子で言う。


妾の部屋の前で立ちどまる。


「この部屋で過ごす。緊張したからの」


女を口説いて生じた疲れは、別の女を抱くことで解消する。


それが、この男の理だった。


「もう、帰ってよいぞ」


そう言い残し、キヨは妾の部屋の扉を叩く。


「まあ!」

扉が開いた瞬間、歓声が上がった。


「リリー、お前が一番美しい」


甘い声とともに、扉は閉じられる。


イーライは、その背に深く頭を下げた。


完璧な角度の礼。


一分の隙もない所作。


だが――

太ももの脇に添えられたその手だけは、強く、強く握りしめられていた。


廊下に残された沈黙の中で、

イーライは、しばらく頭を上げなかった。



◇ ユウの部屋


キヨが立ち去っても、ユウの部屋から張り詰めた空気は消えなかった。



ユウは背筋を伸ばしたまま、木像を見つめている。


その身体は、微かに、しかし確かに震えていた。


ヨシノは何か声をかけようとして――やめた。


感情が大きく乱れている時に、言葉は刃になる。


視線を向けると、息子であるシュリと目が合う。


シュリは何も言わず、静かに頷いた。


――とんでもないことが起きた。


この場を収められるのは、もうシュリしかいない。


「少し・・・部屋を出ますね」

ヨシノはそれだけ告げ、そっと扉を閉めた。


部屋には、ユウとシュリだけが残された。


張り詰めた空気は、なおも解けない。


「・・・ユウ様」

シュリは、控えめに声をかける。


ユウは答えなかった。


泣きもせず、声を荒げることもなく、

ただ、必死に感情を押さえ込むように座っている。


それが、かえって恐ろしかった。


シュリは躊躇いながら、そっとユウの背中に触れた。


「落ち着いて・・・」

静かな声で言う。


「息を、吸って・・・吐いて・・・」


その瞬間、ユウが立ち上がった。


「私は、落ち着いているわ」


振り返りもせず、小さな声で呟く。


蝋燭の光に揺れる木像を見つめながら、

ユウはさらに背筋を伸ばした。


「ウイとレイを守るためなら・・・なんでもする」


声は震えていた。


だが、その奥には、揺るぎない覚悟があった。


「・・・はい」

シュリは、それ以上何も言えなかった。


それが母との約束だと、分かっていたからだ。


「今日はシュリの誕生日なのに」

ユウが、ぽつりと呟く。


「ごめんね。今年も、祝えない」


「そんなこと、気にしないでください」

シュリは慌てて言った。


――いつも、自分の誕生日には何かが起きる。


過去に母シリが嫁ぎ、妹レイが嫁いだ。


そして今年は――

ユウにとって、死刑宣告にも等しい求愛。


それでも。


この状況でなお、自分の誕生日を覚えてくれていることが、シュリにとって嬉しくもあり、切なくもあった。


ユウ様が笑ってくれれば、それだけで自分は幸せなのだ。


他に何もいらない。


「祝ってくれなくても・・・」

シュリは言いかけて、言葉を止めた。


――この状況で、ユウが笑えるはずがない。


ユウの背中は、先ほどよりもはっきりと震えていた。


――泣いている。


声を殺し、感情を爆発させることなく、涙を流している。


それを前に、何もできない自分が、もどかしかった。


「・・・今日は、誕生日なので」

気づけば、シュリの口から言葉がこぼれていた。


知らぬ間に溜まっていた唾を、静かに飲み込む。


「・・・私の願いを、叶えてもらえますか」


その声は、いつものシュリのものとは違っていた。


「何?」

ユウは問い返したが、振り向かない。


シュリは、ありったけの勇気をかき集める。


「ユウ様を、抱きしめてもよろしいですか」


その言葉が落ちた瞬間、

ユウの震えが、ぴたりと止まった。


乳母子である使用人が、姫に乞う。


それは、明らかに異例だった。


しん、と静まり返る部屋で、ユウは呟いた。


「・・・良いわ」


その瞬間。


シュリは、息を止めたまま一歩踏み出し、

ためらいを振り切るように腕を伸ばした。


ユウの背中に触れた瞬間、

伝わってきたのは――冷えきった覚悟と、

必死に保たれている体温だった。


シュリは、ユウを後ろから強く抱きしめた。


逃がさぬように。


それでいて、傷つけぬように。


額が、そっとユウの背に触れる。


呼吸が重なり、震えが、腕越しに伝わってきた。


「ユウ様・・・!」


それは、名を呼ぶというより、

確かめるような声だった。


ーーここにいる。

離れない。


言えない想いだけが、

抱きしめた腕から、静かに伝わるように。


ユウは、すぐには動かなかった。


抱きしめられた腕の中で、ただ、息をする。


逃げようとも、

振りほどこうともせず、

背中に伝わる体温を、拒まなかった。


ユウの肩が、小さく上下する。


指先が、無意識に、シュリの腕の布を掴んでいた。


押し殺していた感情が、

呼吸の乱れとなって、ようやく外へ滲み出ていた。


シュリは、腕に力を込め直すことはしなかった。


代わりに、

ほんのわずか、距離を詰める。


逃げ場を塞ぐためではない。

支えるためだった。


抱きしめたシュリの腕に水滴が落ちた。


それが涙だと気づいても、シュリは何も言わなかった。


ただ、

その背中がこれ以上崩れ落ちないように、

黙って、抱きしめ続けた。


それが、今のユウに許された、唯一の崩れ方だった。


次回ーー明日の9時20分


求められたのは、愛ではなく、血。


守るための抱擁。

越えてはいけない距離。


そして、

二人は同じ願いを胸に刻む。


――あの男が、戦で死ぬことを。



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