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想われ人になる条件

それから夏が過ぎ、秋になった。


風が涼しくなってきた。


数年をかけて造られていた大船が、ついに完成し――

二日後、キヨは南領へ出陣する。


城は戦の準備で慌ただしく、人の声と足音が絶えなかった。


だが、西棟にあるユウの部屋も、

別の意味で張り詰めた空気に包まれていた。


夕食を終えたあと、イーライが静かに部屋を訪れた。


「・・・まもなく、キヨ様がこちらへ来られます」


唐突な知らせだった。


――出陣を控えたこの時期に、面会。


胸の奥に、黒い雨雲のような不吉な予感が広がる。


だとしても、拒む理由はなかった。


妹と共に庇護されている自分の立場を、ユウは知っていた。


「・・・わかったわ」

ユウは俯き、低く答えた。


ほどなくして、珍しく落ち着いた装いのキヨが姿を現した。


「お忙しい中、ありがとうございます」

ユウは感情を一切乗せず、形式だけの挨拶をする。


キヨは当然のように正面へ腰を下ろした。


部屋の片隅で、イーライが黙って茶の支度を始める。


「イーライ、私はペパーミントを」


ユウが告げると、

イーライは予測していたかのように静かに頷き、缶を取り出した。


「ユウ様は、茶を飲まぬのか?」

キヨが不思議そうに尋ねる。


「ええ。茶は、心が穏やかな時に楽しみたいものですから」


――この男の前で、心を許す気はない。


ペパーミントは、ユウにとって“戦うための飲み物”だった。


「そうか、そうか」


キヨは深く考えもせず、イーライの淹れた茶に砂糖を落とす。


ユウの前には、清涼な香りのカップが置かれた。


「間もなく、出陣じゃ」

キヨが呟く。


ユウは何も言わず、背筋を伸ばしたまま一口含んだ。


――そんなことは、分かっている。


だからこそ、言葉を交わしたくなかった。


沈黙の中、キヨは一方的に話し続ける。


「今度の戦は、厳しい」


「・・・そうですね」


視線を伏せ、カップを見つめる。


「生きて帰れぬかもしれん」


――それなら、それでいい。


ユウの胸には、冷たい本音があった。


キヨが死に、弟のエルがこの地を治めればいい。


だが、それは決して口にしてはならない。


沈黙を守るユウに、キヨは唐突に言葉を切り出した。


「ユウ様」


「なんでしょう」


「無事にこのサカイへ戻ったら――わしの、想い人になってくれ」


その言葉に、ユウは完全に動きを止めた。


イーライも、

背後にいたシュリも、ヨシノも、

誰一人として息をすることができなかった。


「・・・正気ですか」


思わず零れた言葉だった。


「悪い話ではなかろう?」

キヨは当然のように言い、呆然と立ち尽くすイーライへ視線を向ける。


「なあ、イーライ」


イーライは、すぐに答えられなかった。


それは、この男にとって致命的な沈黙だった。


「イーライ?」

キヨは訝しげに眉を寄せる。


「・・・はっ」


ようやく声を絞り出す。


「キヨ様は、間もなく国王になられるお方。

その想われ人となることは・・・良いお話かと存じます」


言葉は整っているのに、どこか崩れ落ちそうだった。


――ついに、口にした。


ユウは、手元の淡い黄色の液体を見つめる。


これまで、仄めかすだけだった男が、初めて、はっきりと言葉にした。


奥で聞いていたシュリは、

奈落へ落ちていくような感覚で、ユウの背中を見つめていた。


「・・・私は、忘れていません」

ユウの声は、かすかに震えていた。


「あなたは、母上だけではなく――父上も殺した」


その言葉を口にした瞬間、

ユウの青い瞳に、はっきりとした闇が宿った。


「祖父母も、兄も、義父も・・・私の大切な人は、皆、あなたが奪った」


――ずっと、言えなかった。


喉の奥で、何度も膨れ上がっては飲み込んできた言葉。


「まだ、幼い兄・・・シンを串刺しにしたのは・・・お前だ」

その声は低かった。


どれだけ、恨み言を言っても、この憎しみが落ち着くことなどない。


『お前が殺した』


そう叫びたくて、たまらなかった。


その瞬間だった。


ユウの肩に、そっと触れる温もり。


シュリの手だった。


――抑えて。


声はない。


けれど、その手から伝わる意志は、はっきりしていた。


怒りに燃える瞳で、ユウは振り返る。


「・・・ウイ様と、レイ様のことを」

シュリは低く、短く告げた。


妹たちの存在が、

ユウの自制心を引き戻す唯一の楔だと、彼は知っていた。


キヨが、軽く咳払いをする。


その気配に、シュリは一歩、静かに下がった。


「それを聞くと、胸が苦しいのぅ」

キヨは、あからさまに眉を下げる。


「ユウ様を、傷つけるつもりはなかったのじゃ」


――ふざけるな。


ユウは、ドレスの布をぎゅっと握りしめる。


指先が白くなるほど、力を込めて。


言葉は出なかった。


ただ、黙って――憎しみを隠そうともせず、キヨを睨みつける。


キヨは、その視線を正面から受け止めた。


そして、ゆっくりと口角を上げる。


「・・・わしはな」


低い声。


「その目が、好きなのじゃ」


思いもよらぬ言葉に、ユウの胸がわずかに揺れた。


「ユウ様の、強い眼差しに惚れておる」


――こんなにも、憎しみで満ちているのに。


この目が、好き?


そういえば、以前から何度か、同じことを言われていた気がする。


戯言だと切り捨ててきた。


聞く価値もないと、思っていた。


「その目は、ゼンシ様を思い出す」

キヨは、懐かしむように続ける。


「さすが、ゼンシ様の姪じゃ」


その瞬間、キヨの手が、ユウの手を取った。


ぞっとするほど、冷たい感覚が背筋を走る。


――似ているも、何も。


ゼンシは、母の兄。

そして――ユウの、実の父。


そんなこと、言えるはずがない。


ユウは、嫌悪を隠すこともせず、さらに強く睨みつけた。


「・・・そう、その目だ」


キヨは、ゆっくりとユウの前に跪いた。


「もし、ユウ様が男を産んだら・・・さぞかし、強い男になるじゃろう」


掠れた声。


茶色の瞳には、歪んだ熱が滲んでいる。


「わしは、ゼンシ様の意思を継ぎ、この国を治める」


そして、囁くように。


「どうか、わしの想われ人になってくれ。男の子を、産んでくれ」


――いやだ。


心の底から、ユウは叫んだ。


言葉にならない拒絶が、胸を満たす。


沈黙するユウに、キヨは一歩、距離を詰めた。


「戦に勝ち、国王になったら・・・必ず、ユウ様を迎える」


ユウは、何も言えなかった。


視線を落とし、唇を噛む。


握られた手を、振りほどきたかった。


けれど――その手を払いのけることさえ、できなかった。


ーー「はい」だなんて、言いたくない。


この男に抱かれるなど、考えるだけで吐き気がする。


その時、キヨの背後に置かれた木像が、ふと視界に入った。


それは、母が死の間際に、ユウの手に押し付けたものだった。


『ウイとレイのことを、お願い』


震える声とともに託された、最後の願い。


ユウは、じっと木像を見つめる。


その横顔を見て、シュリは言いようのない胸騒ぎを覚えた。


ーーああ、と。


この方は、もう答えを出してしまったのだ、と。


シュリは思わず目を閉じた。


ーー私の役目は、妹たちを守ること。


ユウの中で、その言葉が静かに形を持った。


「・・・このような立場ですから」

ユウの声が、部屋に落ちる。


「無事に戻ってから、その話をしてください」


それしか、言えなかった。


「誠か!」

キヨは、握った手に力を込める。


――これは、約束ではない。


生き延びるための、猶予だ。


ユウは、その瞳を見なかった。


ただ、静かに頷き、


「・・・はい」


そう、告げた。


次回ーー明日の20時20分


「戦が終わったら、これでユウ様を抱ける」


その言葉を、

彼は冗談のように言った。


その夜、

姫は初めて、声を殺して泣いた。


――それが許されたのは、

たった一人の腕の中だけだった。


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