想いを口にしてはいけない人間ほど、深く想う
◇ サカイ城 執務室
キヨの机の上には、書類が山のように積み上がっていた。
「・・・これを全部、署名するのか!」
キヨは泣き出しそうな声で叫ぶ。
「はっ」
イーライは一歩も引かず答えた。
「南領勝利後、各地の領へ出す国王就任式の書状でございます。すべて、キヨ様の署名が必要です」
「南領に勝ってからで良いではないか!」
キヨは甲高い声で反論する。
「それでは遅うございます」
イーライの声に、淀みはない。
「勝利後は、即座に就任準備に移らねばなりません。
勝ってから動くのではなく、勝利を前提に進めるのです」
そのやり取りを隣で聞きながら、エルは苦笑した。
――確実に、兄者を追い詰めている。
理を積み重ねたイーライの言葉には、逃げ道がなかった。
「・・・わしは疲れた」
キヨは子供のように拗ねた口調になる。
「何日も、こればかりではないか」
「キヨ」
隣の椅子に座るミミは、顔を上げずに言った。
「泣き言を言わず、署名を終わらせましょう」
ペンは止まらない。
「あなたも私も、名前を書くまでよ。文言はすべて家臣が整えてくれているの」
「疲れたのじゃ!」
キヨは言い張る。
「・・・それなら、お茶にいたしましょう」
イーライが白い手袋をはめる。
「わしが欲しいのは茶ではない!」
キヨが叫ぶと、
「――あら」
ミミが、冷ややかに視線を向けた。
「それなら、女性の肌ですか?」
「・・・そんなことはない」
思惑を見透かされたことに気づき、キヨの声が上ずる。
「準備でお忙しくて」
ミミはペンを置き、まっすぐに問う。
「もう何日も、西棟に行けていませんよね」
静かな声だった。
「どなたに会いたいのですか?」
一拍置き、
「メアリー? リリ? それとも・・・ユウ様?」
その名が落ちた瞬間、キヨは慌ててペンを握る。
「何を言う!」
早口になる。
「ユウ様は妾ではない。庇護している姫じゃ!」
「そうですね」
ミミは微笑みもしない。
「まさか、庇護している姫を妾にするなど、愚かな邪心はありませんよね」
「・・・も、もちろんじゃ」
汗を浮かべ、言葉が滑る。
「ユウ様のお気持ちを大切にして・・・望み通りの男に嫁がせるつもりじゃ」
だが、ペン先は一向に進まない。
「当然のことです」
ミミは、冷たいほど静かに言い切った。
「念のため。――本当に、念のためです」
署名を続けるミミの横で、
「お茶が入りました」
イーライの声が、執務室に静かに響いた。
その直後だった。
「失礼いたします」
低く落ち着いた声とともに、扉が開く。
書類を抱えたサムが、静かに入室した。
「おお、サムか」
キヨが顔を上げる。
「南領の件、追加の報告書です」
サムは淡々と答え、机の端に書類を積み上げた。
その視線が、一瞬だけ――イーライの横顔に留まる。
ほんの一瞬。
だが、そこには労わりにも、憐れみにも似た色があった。
「・・・相変わらず、よく整っておるな」
エルが書類に目を落としながら言う。
「イーライがまとめたものです」
サムは事実だけを述べた。
それ以上は、何も言わない。
だが――サムは知っている。
この若い重臣が、
どんな思いで西棟に通い、
どんな覚悟で、この執務室に立っているのかを。
「エルとサム一緒に」
ミミが声をかける。
テーブルには三つ――いや、四つのティーカップが並べられた。
イーライは、キヨの前に茶を置いた。
好みを知り尽くした砂糖とミルクも、忘れず添える。
キヨはすぐさま砂糖を大量に入れ、匙をぐるぐると回した。
「うまい! イーライの茶は見事じゃ!」
ミミは頷き、エルは感心したようにカップを見つめる。
サムは、一口飲んでイーライを見る。
――美味しいお茶だ。
その目は、そう語っていた。
「お褒めいただき、光栄でございます」
イーライは静かに頭を下げ、次の一杯に備えて火加減を調整していた。
「イーライ」
ミミが声をかける。
「なんでしょうか」
「重臣になって、城も持ったのだから」
微笑みながら続ける。
「そろそろ、妻を迎えないとね」
その言葉に、イーライの表情が一瞬で硬くなった。
ミミは見逃さない。
「どうしたの?」
「・・・いえ」
イーライは目を伏せる。
「私はまだ未熟です。妻を迎えるには、早すぎます」
サムは、知っているがゆえに、何も言わず目を伏せた。
「そんなことはあるまい」
エルがカップ越しに見る。
「イーライ、お前はいくつだ」
「十八でございます」
「年頃ではないか!」
キヨが呆れたように言い、さらに砂糖を山盛りにする。
「女を知れば、頭も少しは柔らかくなるぞ」
「・・・それは」
イーライの言葉は、珍しく途切れた。
――結婚など、考えたくもなかった。
妻に迎えたい女性は、ただ一人しかいない。
だが、その人は主の想われ人。
やがて妾となる姫。
自分の任務は、その願いを叶えること。
「・・・誰か、心に決めている人はいるの?」
ミミが、探るように尋ねる。
ちょうどその時、湯が沸騰し、
ポットの蓋が小さな金属音を立てた。
イーライは布越しに指で押さえ、音を鎮める。
そして、低く静かに答えた。
「・・・おりません」
その声は、
それ以上の言葉を、すべて拒む響きを帯びていた。
サムはそのまま黙って、お茶を飲んだ。
それ以上、問いを重ねることが、
この若い重臣を壊してしまうと、サムは知っていた。
次回ーー明日の20時20分
「無事に戻ったら――
わしの、想われ人になってくれ」
その言葉に、
ユウは何も答えられなかった。
拒絶も、否定も、できない。
守るべきものが、あったから。
それは約束ではない。
生き延びるための、猶予だった。




