前よりも深く、もう引き返せないほどに
イーライは、西棟の廊下を静かに歩いていた。
――リオウが自分を見た、あの眼差し。
重臣になってから、多くの者に何度も向けられてきた視線だ。
『出陣しない者が、なぜ重臣に?』
言葉にされずとも、妬みの混じった感情は、はっきりと伝わってくる。
陰口で、
「城で遊んでいるだけだ」
と言われているのを、耳にしたこともあった。
イーライは、小さく息を吐く。
否定も、反論もしない。
それが自分の役目だと、分かっているからだ。
給仕場で茶の支度を整え、銀の盆にカップを載せる。
そして、ユウの部屋の扉の前で、足を止めた。
――落ち着け。
私情を、この部屋に持ち込むな。
何度も自分に言い聞かせ、静かに扉を開ける。
部屋には、ユウがソファに腰掛けていた。
「イーライ、今日もありがとう」
そう言って微笑む、その姿を見た瞬間――
先ほどまでの決意は、あっけなく崩れ去った。
――美しい。
ただ、その一言が胸に浮かぶ。
この一瞬があるから、
自分は、どれほど重い仕事にも向き合える。
そう言っても、決して過言ではなかった。
イーライは、いつもと同じように静かに茶の支度を整えていた。
マッチを擦り、火を灯す。
茶器を温めるため、ボウルに沈める。
一つひとつは、体に染みついた動作だ。
考えずとも、手が勝手に動く。
淡々とした作業――
だが、ユウはその表情を見逃していなかった。
イーライもまた、
自分がユウの眼差しを浴びていることを、はっきりと自覚している。
ユウに見つめられると、
心の裡を、静かに、しかし確実に剥がされていくような気がした。
普段なら、その視線に耐える強さを持っている。
けれど、今日は――その強さが、わずかに揺らいでいた。
「どうぞ」
やがて、ユウの前に、温かなミルクティーを差し出す。
今日は気温が高い。
口に含んだ瞬間、ほっと息が抜けるよう、
いつもより少しだけ温度を下げてある。
――それが、彼なりの気遣いだった。
「シュリ、イーライ、こちらへ」
ユウはソファを示し、
静かに座ったイーライを一度だけ見つめてから、言った。
「立場が変わるとね」
「必ず、そういう声が出るものよ」
一拍、置く。
「・・・陰口は、想像以上に人を削るわ」
ユウの言葉に、イーライの表情が、ほんのわずかに揺れた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
――優しい言葉だ。
だからこそ、涙が出そうになる。
けれど、それを許すほど、立場は甘くない。
顔を伏せ、イーライは静かに息を整えた。
次に顔を上げたとき、その表情はすでに仮面を被っている。
感情を削ぎ落とした、冷静な重臣の顔だった。
「過分な役目を頂いておりますので」
声は、よく通る。
「当然のことでございます」
「あなたの仕事は、できて当たり前と思われる仕事だわ」
ユウは静かに言った。
「きちんとできていなければ、責められる。
でも、できていても――誰も褒めない」
隣に座っていたシュリが、小さく頷く。
イーライのしていることは、派手ではない。
剣を振ることも、勝鬨を上げることもない。
目に見えない準備。
地味な確認。
終わったあとの後始末。
けれど、それが一つでも滞れば、兵は動けない。
戦は始まらず、勝利も存在しない。
あまりにも緻密で、あまりにも静かな仕事。
だからこそ――
「気づかないのよ」
ユウは、視線を逸らさずに言い切った。
「底が浅い人には」
「ご理解いただき・・・」
イーライの声は、わずかに震えていた。
ユウはその震えを見逃さず、けれど視線を上げることなく、静かに茶を口に運ぶ。
「そしてね」
カップを置き、淡々と続けた。
「何事も、新しいことを始める人間は、必ず色々と言われるものよ」
異色だとか。
理解できないとか。
そういう言葉は、いつの時代も、最初に踏み出した者へ向けられる。
その言葉に、イーライははっとして顔を上げた。
「でもね」
ユウは、初めてイーライを見る。
「これからは、あなたのような頭脳派の若い家臣が、重臣になっていく時代になる」
声に迷いはない。
「争いが減り、平和な時代になれば――
あなたの立場は、特別でも異端でもなくなるわ」
一拍、間を置いて。
「それが、普通になるの」
イーライは、何も言えなくなった。
ささくれ、ひび割れた心に、
ユウの言葉が、ひたひたと染み込んでくる。
――また、この人に惹かれてしまう。
――前よりも、深く。
――もう、引き返せないほどに。
静かに積み重なってきた想いが、
確かな重さを持ってしまっただけだ。
イーライは、声を失ったまま、ユウの手元から目を離せずにいた。
「異色といえば・・・」
ユウは、ふっと小さく笑みをこぼした。
そして、ゆっくりとシュリの方へ顔を向ける。
「シュリは、ずっとその道を歩いてきたわね」
「・・・そうですね」
シュリも、わずかに苦みを含んだ笑みを返した。
「私の場合、時代が追いついてこないようです」
そう言って、ユウに向けられた笑顔は、穏やかで、どこか覚悟を帯びていた。
その横顔を見た瞬間、イーライは、思わず息を詰める。
――そうだった。
姫に男の乳母子が付くなど、前例のないことだった。
それは最初から、「異色」であり、「理解されない存在」だった。
イーライ自身も、かつては驚き、疑問を抱いた一人だ。
そして――
ユウへの想いを深めるほどに、
シュリの存在は、いつしか妬みに変わっていった。
けれど。
誰よりも剣に強く、
誰よりも早く、ユウの危険に気づき、
誰よりも静かに、彼女を守り続けてきたのも、シュリだった。
繊細なユウを支え、感情の揺れを受け止め、
決して前に出すぎることなく、常に一歩後ろに立つ。
その姿は、いつの間にか――
城の者たちが、認めざるを得ない立ち位置へと変わっていた。
それでも。
疑惑も、妬みも、疑問も。
向けられる視線は、決して消えない。
それらを一身に受けながら、
シュリは今日も、変わらぬ距離で、ユウのそばに立ち続けている。
「シュリは・・・どうして・・・」
イーライは、そこで言葉を失った。
いつもなら、疑問は整理できる。
感情を排して、言葉に変えることができる。
それが、できなかった。
問いの形を取ろうとするほど、
胸の奥に沈んだ何かが、重く、形を持たずに広がっていく。
――理解できないのではない。
理解してしまうのが、怖いのだと、気づいてしまったから。
「ユウ様のご両親と、約束をしたのです」
シュリは、イーライの言葉にならなかった疑問を、静かに引き取った。
「ユウ様を守る、と」
そう言って、まっすぐにユウを見つめる。
そこには、迷いも、誇りもなかった。
ただ、揺るがない事実だけがあった。
その視線を受け、ユウはわずかに頬を上気させる。
「・・・ありがとう」
声は小さかったが、確かだった。
「それが、私の任務です」
淡々とした一言。
だが、その言葉が持つ重みを、イーライは痛いほど理解してしまう。
思わず、目を閉じた。
――どれほど陰口を叩かれようとも。
――どれほど異色だと嘲られようとも。
この男は、約束を胸に、
誰にも譲らず、誰にも説明を求めず、ただ、そこに立ち続けている。
それは、逃げでも、妥協でもない。
――信じた道を、歩いているだけだ。
イーライの胸に、静かな覚悟が落ちた。
感情で抗うことはできない。
妬みで否定することもできない。
ならば、自分も――自分の信じる道を、粛々と歩くしかない。
仕事を重ね、
責を果たし、
結果で立場を築く。
それしかないのだ。
目を開けると、
そこには、金色の髪を柔らかく輝かせ、微笑むユウがいた。
「おかわりを、欲しいわ」
ティーカップを、軽く持ち上げる。
「はっ」
返事は短い。
けれど、その声には、先ほどまでになかった強さが宿っていた。
――迷いは、もうない。
イーライは、再び茶の支度に向かった。
投稿時間を間違えました。
楽しみにしていた方、お待たせしました。
次回ーー明日の20時20分
重臣となったイーライは、
称賛ではなく、妬みと沈黙の中に立っていた。
「そろそろ、妻を迎えないとね」
何気ない一言が、
彼の心に決定的な線を引く。
守りたい姫がいる。
叶えてはならない想いがある。
それでも――彼の役目は、揺るがない。
忠誠とは何か。
誠実とは、誰のためのものなのか。
静かな執務室で、
若き重臣は“選ぶ”。




