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水を渡されたのは、誰だったか

◇ サカイ城 早朝の西棟の廊下


夜明け前の城は、まだ眠っていた。


廊下の石床に落ちる足音がやけに大きく響く。


ユウは外套を羽織り、誰にも気づかれぬよう、そっと歩いていた。


――早起きなど、得意ではない。


それでも、この時間だけは別だった。


ーー少しだけ・・・見たい。


自分にそう言い聞かせながら、ユウは馬場へ続く回廊へ向かう。


目的は、はっきりしている。


シュリだ。


木剣を振る姿。

息を整え、黙々と稽古を続ける、その背中。


ただ、それを見るためだけに、ユウは部屋を抜け出した。


ーーその時。


「・・・姉上?」


小さな声に、ユウは足を止めた。


振り返ると、外套を羽織ったウイが立っていた。

まだ朝の冷えが残る時間帯だというのに、どこか落ち着かない様子だ。


「どうしたのですか。こんな時間に」


「ウイこそ」


問い返され、ウイは一瞬だけ言葉に詰まる。


「えーと・・・私は、朝の散歩を・・・ね」


必要以上に明るい声だった。


その後ろで、乳母のモナカが大きく頷く。


「はい。朝の散歩は健康に良いですから」


――嘘だった。


ウイの本当の目的は、馬場で稽古をするリオウの姿を見ること。


だが、それはユウにも、誰にも言わない。


ウイとモナカだけの、小さな秘密だった。


その時だった。


隣の扉が、静かに開く。


「・・・二人で、何をしようとしているの?」


現れたレイの表情には、

仲間外れにされた不満が、はっきりと滲んでいた。


三人の視線が、自然と重なる。


一瞬の沈黙。


そして――


「・・・じゃあ」

ウイが、にこりと笑った。


「皆で、朝の散歩をしましょうか」


それは提案というより、宣言に近かった。


ユウも、レイも、否定はしなかった。


こうして三姉妹は、

それぞれに違う思惑を胸に秘めたまま、同じ方向へ歩き出した。


◇ サカイ城 馬場


朝霧の向こうで、馬場はすでに動き始めていた。


乾いた木剣の音。

踏みしめられる土の音。

短く吐かれる息。


シュリは、黙々と木剣を振っている。


無駄のない動き。

乱れない呼吸。


ユウは、思わず足を止めた。


見慣れているはずなのに、

この時間のシュリは、少し違って見える。


恵まれた体格に、鋭い剣捌き。


汗に濡れた髪が額に貼りつき、

一振りごとに、全身がよくしなっている。


――女中や侍女に人気があるのも、分かる。


そんなことを考えてしまい、ユウは小さく眉を寄せた。


ーーかっこいい。


素直に、そう思ってしまった自分に、わずかに戸惑う。


その少し離れた場所では、リオウが稽古をしている。


荒々しく、けれど迷いのない剣筋。

力任せではない、勢いのある動き。


ウイは、その姿に目を輝かせた。


「すごい・・・」

思わず漏れた声は、ほとんど囁きだった。


レイは何も言わず、馬場全体を静かに眺めている。


誰が目立ち、

誰が注目を集め、

誰が見過ごされているのか――そのすべてを、黙って見ていた。


馬場の端では、イーライも木剣を振っている。


剣筋は鋭くはない。


だが、動きは整い、無駄がなかった。


淡々と、淡々と。


まるで、結果を求めていないかのように。


そのときだった。


若い女中が、水桶を抱えて馬場へ入ってくる。


最初に足を止めたのは、シュリの前だった。


「お水をどうぞ」


差し出された椀を、シュリは一瞬ためらってから受け取る。


「ありがとうございます」


喉を鳴らし、水を飲む。


女中は、シュリだけは特別なのだろうか。


汗を拭く白い布まで差し出している。


戸惑うシュリに、女中は額の汗を拭いている。


その光景を見た瞬間、ユウの心の奥に黒い嫉妬が渦巻く。


この醜い感情を、妹たちの前で見せないように呼吸を整える。


そんな姉の様子を、レイは静かに見つめていた。


次に、女中はリオウの方を見るが、

一瞬、視線を泳がせ――そのまま歩みを止めなかった。


イーライの前も、同じだった。


女中は声をかけない。


水桶を抱えたまま、

何事もなかったように、その場を離れていく。


「・・・あれ?」

ウイが、小さく首を傾げる。


「シュリには水を渡したのに・・・」


ユウも、無意識にその様子を追っていた。


「どうして・・・?」


その疑問に答えたのは、

後ろに控えていた乳母のモナカだった。


「ああ、それはね」

声を潜め、どこか楽しげに囁く。


「女中たちは、“釣り合いが取れる相手”に声をかけるのですよ」


ユウが、わずかに振り向く。


「釣り合い・・・?」


「ええ。家来や使用人には、気軽に声をかけられます。でも――」


モナカは、馬場の端で木剣を振るイーライを見る。


「重臣には、声をかけません。

むしろ、かけられるのを“待つ側”ですから」


ウイは、目を丸くした。


「そういうものなの?」


「そういうものです」

モナカは、肩をすくめる。


「それに・・・」

少し声を落とし、噂話をする時の表情になる。


「イーライ様は、頭で出世した方ですからね」


レイが、静かに言った。


「武力がないから?」


「そうです」

モナカは即答した。


「そんな重臣、聞いたこともございません」


ユウは、再び馬場を見つめた。


水を飲み終えたシュリが、もう一度、木剣を構える。


その少し先で、

イーライは変わらぬ動きで剣を振っている。


――同じ馬場に立っていても、立場も、見られ方も、まるで違う。


そのことが、ユウの胸に静かに沈んだ。


朝霧は、少しずつ晴れ始めていた。


だが、人の心の境界、身分だけは、くっきりと残ったままだった。


朝霧は晴れていく。


だが、この城で越えてはならない線だけは、

誰の目にも見えぬまま、確かにそこにあった。


ブックマークを入れてくださり、ありがとうございます。

読んでくださっている方がいると思うと、続きを書く力になります。


また、以前から読んでくださっている方々にも感謝を。

ここまで一緒に来てくださり、本当にありがとうございます。



次回ーー明日の9時20分


西棟の扉の前で、

リオウは知ってしまう。


戦っても、想っても、

届かない場所があることを。


何も言わず、当然のように、

彼女のもとへ入っていく男がいる。


その静かな背中が、

剣よりも深く、心を傷つけていた。


それぞれの「届かぬ気持ち」が、静かに動き出す。


――想いは、戦場では量れない。


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