春は、静かに壊れていく
「おはようございます」
身支度を整え、いつもの時刻に、シュリはユウの部屋へ入った。
――入った瞬間、違和感を覚える。
空気が、重い。
部屋そのものは変わっていない。
朝の光も、香も、いつも通りだ。
それなのに。
張り詰めた気配が、肌に触れる。
ヨシノが、少し戸惑った様子でユウの髪を梳いていた。
その手つきが、どこか慎重すぎる。
原因は、すぐに分かった。
寝室の鏡台の前に座るユウだった。
背筋を伸ばし、視線を鏡に向けたまま。
その周囲には、触れれば火傷しそうなほど、鋭い空気が漂っている。
「おはよう」
返事は返ってきた。
だが、その声音は、冷たかった。
硬く、余分な感情を削ぎ落としたような声。
――何かあった。
シュリは、表情を変えぬまま、静かにヨシノへ視線を送る。
ヨシノは一瞬だけ目を伏せ、困惑したように、ほんのわずか首を振った。
――分からない。
原因は不明。
けれど、確かに「何か」があった。
それも、シュリが知らない間に。
シュリは、それ以上何も聞かなかった。
聞けなかった。
ただ一つ分かるのは――
この空気は、偶然ではない、ということだけだった。
ヨシノは、シュリを見て、何も言わずに頷いた。
シュリも、同じように小さく頷き返す。
「少し用事がありますので・・・部屋を出ますね」
そう言い残し、ヨシノはブラシを置いた。
ユウの感情の揺れを扱えるのは、シュリしかいない。
このまま放置すれば、いずれ感情が爆発する――
ヨシノは、そう判断したのだった。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
部屋は、しんと静まり返った。
「・・・ユウ様、どうなさいましたか?」
シュリは、慎重に言葉を選んで問いかける。
――キヨ様から文が来たのかもしれない。
胸の奥に、そんな予感がよぎる。
「別に。何もないわ」
ユウは、少し顎を上げて答えた。
――いつもの癖だ。
顎を上げる時は、強がっている時。
「そうですか」
シュリは、それ以上踏み込まなかった。
「今日は春らしい天気ですね。朝食のあと、庭を散策なさいますか」
その言葉に、ユウは俯く。
金色の髪に隠れて、表情は見えない。
――おかしい。
シュリの胸が、ざわりと不安に揺れた。
「庭の端に、ニワトコの木を見つけました。今頃、花が咲く頃です」
一拍の沈黙。
「・・・庭」
声は平坦だった。
「今朝は、随分と忙しそうだったわね」
シュリは一瞬、言葉に詰まった。
「・・・何か、ありましたか?」
「いいえ」
ユウは、きっぱりと言った。
「ただ・・・朝から・・・」
鏡越しに、ユウの視線が揺れる。
「 そんなに近くにいる必要があったの?」
シュリの脳裏に、今朝の光景がよみがえる。
水を差し出され、咽せ、背中を撫でられた女中。
「あぁ・・・今朝のことでしたらーー」
言い終わる前に、ユウが顔を上げた。
「朝から、あんなに近づくなんて!」
声が、鋭く部屋を切る。
「・・・私の前では違うのね」
言葉を重ねながら、ユウの胸は痛んでいた。
――シュリが誰と話そうと、問題はない。
分かっている。
けれど、面白くなかった。
それは、あの女中とシュリが、似合って見えたから。
自分でも抑えられない苛立ちが、胸を焦がす。
「それは・・・偶然でして・・・」
シュリは思わず弁護をする。
ユウは顔を上げ、鋭い眼差しをシュリに向ける。
「ニワトコの花は、あの女中と行けばいいじゃない!」
苛立ちを隠そうともしない声音だった。
こういうやり取りは、これまでにも何度かあった。
シュリが弁解し、ユウが機嫌を直す。
いつもは、それで終わっていた。
けれど――
「・・・ユウ様だって」
思わず、シュリの口から言葉が零れた。
「リオウ様や、イーライ様と抱き合っていたではありませんか」
「・・・え?」
ユウが、驚いたように目を見開く。
シュリは、止まらなかった。
「何度も・・・何度も。
リオウ様やイーライ様と、そういう場面が・・・」
今まで押し殺してきた、醜い嫉妬が、声になって溢れ出る。
目の前で、他の男に抱きしめられ、
額に口づけをされ、
手を取られる姿を、何度も見てきた。
――姫に、使用人が嫉妬するなど、許されない。
そう教えられてきた。
持ってはいけない感情だと。
けれど。
この部屋で、二人きりになると――
シュリは、使用人ではなくなってしまう。
ただの、一人の男になってしまう。
「・・・あれは、私が望んだわけじゃないわ」
ユウが、反論する。
「私もです」
シュリは、思わず言い返していた。
そして、はっと我に返る。
「・・・申し訳ありません」
深く、頭を下げる。
立場を忘れ、嫉妬を口にし、反論までした。
それは、使用人として致命的だった。
「――私も・・・ごめんね」
ユウが、小さな声で言った。
二人の間に、また沈黙が落ちる。
さきほどよりも、ずっと重く、
けれど、どこか柔らかい沈黙だった。
ユウは、静かに息を整えた。
――自分が感じていることを、シュリも同じように感じてきたのだ。
今まで、何度も。
そう思うと、胸の奥がじん、と痛んだ。
「・・・あなたの任務は、酷なものね」
思わず、そんな言葉がこぼれる。
いずれ、自分は他の男に嫁ぐ身だ。
シュリは、それを傍で見届けなければならない。
「私の任務は・・・酷ではありません」
穏やかな茶色の瞳が、静かな真剣さを帯びる。
「ユウ様に仕えることは、この上なく幸せなことですから」
そこに、迷いはなかった。
「・・・本当に?」
ユウの声が、かすかに震える。
不思議そうに見返すシュリに、ユウは続けた。
「私は、わがままで、気が強いと言われているわ・・・
あなたの人生を賭けるような姫ではないの」
その言葉に、シュリはふっと笑った。
「わがままとか、気が強いとか・・・
そういうふうに思ったことは、一度もありません」
ユウは、ゆっくりと顔を上げる。
「ユウ様は、ユウ様です」
それだけだった。
けれど、その言葉は、何よりも深く胸に届いた。
ユウは思わず、シュリに抱きつき、その胸に顔を埋める。
――こんな人、世界中を探しても、どこにもいない。
「シュリ・・・私のそばに、いてくれる?」
腕に、自然と力がこもる。
「ユウ様が望む限り、いつまでも」
シュリは、抱きしめ返すことはできなかった。
それをする立場ではないことを、よく分かっている。
それでも――
腕は、ユウを抱きしめたくて仕方がなかった。
――このくらいは、許してほしい。
そう思いながら、ユウの金色の髪に、そっと口づけを落とす。
◇
心配で様子を見にきたヨシノは、ユウの部屋の前で足を止めた。
扉に設えられた小さな覗き窓から、灯りが漏れているのが目に入った。
――まだ、話しているのかしら。
ほんの確認のつもりだった。
それ以上の意味など、なかった。
けれど。
覗き窓の向こうに映った光景に、ヨシノの呼吸が止まる。
シュリの胸に顔を埋めるユウ。
その胸に、そっと伏せられた金色の髪。
そして――その髪に、唇を落とすシュリ。
普段、抑えているけれど、
確かにそこにある、シュリの想い。
声は聞こえない。
言葉も、届かない。
それなのに。
――ああ。
ヨシノは、ゆっくりと理解してしまった。
これは、慰めでも、主従の情でもない。
一時の気の迷いでもない。
互いに口に出さず、
触れてはいけないと知りながら、
それでも、もう戻れないところまで来てしまった二人の姿だった。
ヨシノは、そっと視線を外した。
扉に背を預けると、膝から力が抜け、
そのまま廊下の床に座り込んでしまう。
「・・・どうすれば、いいのだろう」
誰に向けるでもなく、
答えのない問いが、震える声となってこぼれ落ちた。
シュリの母として。
ユウの乳母として。
姫を預かる者として。
どれを選んでも、誰かが傷つく。
――もう、止められない。
その確信だけが、胸に重く沈んだ。
互いの想いを秘めたまま、
その年の春は、ゆっくりと過ぎていった。
次回ーー本日の20時20分
穏やかだった午後の茶の時間は、
一つの報せで終わりを告げた。
――キヨの勝利。
――そして、帰還。
城に戻った男は、祝宴の裏で静かに決断する。
「ユウ様を、想い人に迎える」と。
それは相談ではなく、宣言だった。
誰の意志も挟ませない、力による“定め”。
その命を受け、整える役を担うのは――
他でもない、イーライ。
――穏やかな時間は、終わった。




