表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
124/157

軋む境界線

◇ サカイ城 馬場


春の朝焼けの中、潮風に髪を靡かせながら、シュリは木剣を黙々と振っていた。


馬場に人影は少ない。

有力な兵の多くはすでに戦場へ向かい、この城に残されたのは、

護衛のための兵、怪我人、そして主の留守を預かる頭脳派の家臣たち。


それから――使用人である、シュリ。


群青色だった空が、ゆっくりと橙に染まり始める頃、

シュリは額の汗を拭い、城の回廊へ戻ろうと歩き出した。


「シュリよ」


聞き覚えのある声に、足が止まる。


振り向くと、そこに立っていたのはリチャードだった。


「おはようございます」

シュリは反射的に深く頭を下げる。


「寝坊した」

リチャードは気だるげに頭を掻いた。


「お前に渡すものがある」


低く落とされた声に、シュリの胸に嫌な予感が走る。


「なんですか」


半ば身構えながら問うと、

リチャードは懐から小さな、古びた本を取り出した。


随分と使い込まれている。


「これは――俺の大事なものだ。魂の一部と言ってもいい」

そう言って、にやりと笑う。


「だが、お前に貸す」


訝しみながらページを開いたシュリは、言葉を失った。


そこには、詳細な挿絵とともに、男女が睦み合う姿が描かれていた。


「・・・これは!」


本を持つ手が、わずかに震える。


「言っただろ。イラスト付きで便利なものだ」

リチャードは大きく頷く。


「これがあれば迷わない。絵を見れば間違えようがない」


「い、いや・・・」

シュリは慌てて本を押し返す。


「おっと――高潔な乳母子殿には、刺激が強すぎたか?」


リチャードが、愉快そうに口角を吊り上げる。


「え・・・あ・・・いや・・・」


シュリの視線は定まらず、地面を行き場なくさまよった。


耳の奥が、じわりと熱い。


「安心しろ。ちゃんと“衣服を着た版”もある」

リチャードは、指で空を叩くような仕草をする。


「まずは、そこから試せばいい」


「・・・私には、必要ありません」

シュリはきっぱりと答えたつもりだったが、声はわずかに裏返っていた。


頑なに視線を落とす。


その様子を見て、リチャードはますます楽しそうに鼻で笑う。


「ほう?」


一歩、距離を詰める。


「尻と胸、どちらがいい」


「・・・は?」


思わず顔を上げてしまった。


「尻か?」


「・・・っ、朝から揶揄わないでください!」


「そうか」

リチャードは、意味ありげに頷く。


「――胸、なのか」


その一言で、シュリの思考が、唐突に跳ねた。


ーー胸。


脳裏に、ありありと浮かぶ光景。


人混みの中。

足を取られ、身体が傾いたユウ。

咄嗟に伸ばされたイーライの腕。

支えるつもりが、行き場を失った手が――


ーー胸元に。


あの一瞬。


柔らかさを確かめるように、ほんの一拍、止まった手。



「――あの姫は、胸はないぞ?」


その言葉に、シュリは一瞬、呼吸を忘れた。


唐突な声に、シュリはびくりと肩を跳ねさせた。


いつの間にか、リチャードが顔を覗き込んでいる。


「これから任務です。こんなものをユウ様に見つかったら――」

声を潜めるシュリの耳元で、リチャードが囁いた。


「まず、あの男は、この手のことを知らんはずだ」

リチャードの目線は、木剣を携えたまま、城の本館に向かうイーライを見つめていた。


「賢い男ほど、こういうものを先に覚えたら厄介だぞ。会得するなら今だ」


リチャードは、するりとシュリの背後へ回った。


「こうしてだ」


低い声が、耳元に落ちる。


「後ろから抱けば――胸も、ちゃんと堪能できる」


「離してください!」


シュリは反射的に肘を張り、勢いよく身体を捻った。


突き放されたリチャードが、一歩よろける。


「・・・っ」


顔が、熱い。


耳まで赤くなっているのが、自分でも分かった。


「相変わらずだな」

リチャードは肩をすくめ、くつくつと笑う。


「そんな顔をするくせに、何も知らないままでいるつもりか?」


「知る必要はありません」

震えを抑え、シュリはきっぱりと言った。



そのときだった。


「シュリさん、お水はいかがですか」

女中が盆を手に、穏やかな声で話しかけてきた。


「え? あ・・・はい」


シュリは慌てて本を押し戻し、差し出された水を一気に飲む。


勢い余って、むせた。


「だ、大丈夫ですか」

女中はすぐに近寄り、背中に手を添える。


「だ・・・」

大丈夫だと言おうとしても、咽せて声が出ない。


その間、女中は何度も背中を撫でていた。


「相変わらずモテるな」

リチャードが呆れたように言う。


その瞬間――強い視線を感じた。


リチャードがそちらへ目を向けると、回廊の暗がりに、目の覚めるような金色の髪が揺れていた。


ユウだった。


ユウは、シュリと女中の姿を、じっと見つめていた。


その視線は冷たくも、鋭くもない。


ただ――動かなかった。


それが、かえって怖かった。


その瞳の奥で、何かが静かに揺れている。


――嫉妬。


そう見えてしまうほどに。


リチャードと視線が合う。


リチャードは深々と頭を下げ、例の見透かすような笑みを、口元に浮かべた。


それに気づいたユウは、ほんの少し顎を上げる。


何も言わない。


そして、そのまま踵を返し、自室へと戻っていった。


リチャードは、ユウの背が回廊の奥に消えるのを見届けてから、

ゆっくりと息を吐いた。


――やれやれ。


女中が去り、馬場には再び朝の静けさが戻る。


シュリは何も気づいていない。


いつも通り、律儀で、まっすぐで、少し不器用な背中をしている。


ーーああ、これは。


リチャードは、口元だけで笑った。


守る側と、守られる側。


使用人と、姫。


その境が、今、ほんのわずかに軋んだ。


ーー面白くなるな。


声には出さない。


出す必要もない。


戦よりも、人の心の方が、ずっと厄介だ。


リチャードは、朝焼けの空を一度だけ仰ぎ、何事もなかったように踵を返した。


――あとは、時間が勝手に動く。


次回ーー明日の9時20分


朝のユウは、いつもと違っていた。

理由の分からない苛立ちが、静かに部屋を満たしていく。


些細な嫉妬が言葉になり、

抑えてきた想いが、ついに互いの口から零れ落ちたとき――

主従という線は、確かに揺らいだ。


そして、その光景を、見てしまった者がいる。

もう誰も、この春を無かったことにはできない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ