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この幸福が終わる前に

◇ サカイ城下町 


馬車を降りた瞬間、ユウは潮の匂いを含んだ風を頬に受けた。


城の中とはまるで違う、少し湿り気を帯びた空気。


視線を上げると、ほどなくして人で賑わう町並みが広がり、

そのさらに奥――港には、大きな船の影が見えていた。


「やっぱり、乗馬で町に行きたかったわ」

ユウは唇をわずかに尖らせ、子どもじみた不満をこぼす。


その横顔は、城で見せる凛とした表情よりもずっと柔らかく、年相応に幼く見えた。


「それはなりません」

即座に返したのはイーライだった。


声音はいつも通り落ち着いているが、否定は迷いがなかった。


「乗馬服の女性は、かえって目立ちます。

馬車での送迎は、ミミ様からのご指示です」


淡々と説明しながらも、イーライの視線は自然とユウに向いていた。


飾り気のない黒いドレス。


質素で、町の人々に紛れるための装い。


それなのに――

その服は、ユウの本来の美しさを隠すどころか、かえって際立たせているように見えた。


ーー困るな。


イーライは、心の中で小さく息を吐く。


これでは、目立たないどころか逆だ。


馬車を離れ、人の流れへ足を踏み入れた途端――

周囲の空気が、わずかに変わった。


「・・・」


町の男たちが、通りすがりに視線を向ける。


女たちが、何気なく振り返る。


誰も声をかけるわけではない。


けれど、視線だけが、確かに集まっていた。


人混みに慣れていないユウは、それに気づかぬまま、きょろりと辺りを見回す。


「港は、あっちかしら?」


無防備な声。


男たちの視線がユウに集まる。


その瞬間、シュリの胸に、嫌な感覚が走った。


思わず一歩、ユウとの距離を詰める。


ーー守るためだ。


それだけだ、と自分に言い聞かせながら。


だが、胸の奥に湧き上がるのは、それだけではなかった。


ーー見せたくない。


理由を言葉にできない感情。


男たちの視線に晒されるユウの姿に、焦りと苛立ちが混じる。


剣を持たぬ今、なおさらだった。


シュリはさりげなく進路を変え、ユウの隣に立つ。


人の流れを遮るように。


「港へ向かいましょう。こちらです」

声は低く、静かだった。


その声に、ユウは何も疑わず頷く。


港へ向かう道は、思っていた以上に雑多だった。


石畳はところどころ欠け、潮で濡れた箇所もある。


人の流れは一定せず、荷を抱えた男たちが急ぎ足で行き交う。


ユウの歩みが、わずかに乱れた。


「あ」

短い声。


ほんの一瞬、ユウの身体が前へと傾く。


その直後、背後から誰かがぶつかり、ユウの身体が前のめりに傾ぐ。


前にいたイーライは反射的に、ユウの進行方向へ半歩踏み出した。


「――っ」


支えようと伸ばした腕が、

ユウの肩を越え、胸元に滑り込んでしまった。


柔らかな感触が、はっきりと掌に伝わる。


次の瞬間、彼女の身体がそのままイーライの胸元へと引き寄せられた。


思考が、止まる。


腕の中に収まる、黒いドレス越しに伝わる体温。


ユウの額が、イーライの胸に触れた。


呼吸が、重なった。


ーーまずい。


そう思った時には、もう遅かった。


胸の奥で、黒い火が、静かに揺れる。


それは、理性で押し殺してきたもの。


長い時間をかけて、見ないふりをしてきた感情。


ーー守るだけだ。


仕えるだけだ。


そう言い聞かせてきたはずなのに。


腕の中のユウは、驚いたように瞬きをし、すぐに顔を上げた。


「・・・ごめんなさい」

小さく、少し照れたような声。


その瞬間、イーライの胸が強く脈打つ。


ーー謝る必要など、ない。


むしろーーこちらが、離すべきなのに。


だが、手が離れない。


ほんの一拍。


たったそれだけの時間。


それでも、イーライには永遠のように長く感じられた。


「・・・足元、お気をつけください」


ようやく出た声は、いつもより少し低かった。


自分でも分かるほど、平静を装っている。


ユウは小さく頷き、身体を離そうとする。


その動きに合わせて、イーライも腕を解いた。


離れた途端、冷たい空気が胸に流れ込む。


ーー離れがたい、などと。


そんなことを思った自分に、イーライは愕然とする。


これは、もう。


気の迷いではない。


一時の錯覚でもない。


ーー認めている。


とっくに。


視線を逸らした先で、シュリがこちらを見ていた。


何も言わない。


だが、その目は、すべてを察しているようだった。


イーライは、ゆっくりと息を吐く。


胸の奥の火は、消えない。


消すつもりも、もうなかった。


ーーあの方の望みを。


自然と、言葉が胸に浮かぶ。


ーーあの方の望みを、全て叶えたい。


それが、忠誠なのか。


それとも。


答えは、もう分かっていた。


イーライは何も言わず、再びユウの半歩前に立つ。


人混みから守るように。


そして、心の奥で静かに誓う。


ーーこの想いだけは、誰にも見せない。


だが、失う気もない。


潮風が吹き、港の喧騒が、再び三人を包み込んだ。



やがて三人は船着き場へ辿り着いた。


潮の匂いと木の香りが混じる中、

大小さまざまな船が並び、帆柱の影が水面に揺れている。


その中央で――

ひときわ大きな船が、急ピッチで組み上げられていた。


木槌が振り下ろされるたび、乾いた音が海へと反響する。


「・・・大きいわ」

ユウが、思わず目を見開く。


「これが、南領へ向かう船なのね」


建設途中の船体を、静かに見据える横顔。


その瞳には、恐れよりも好奇心が宿っていた。


「はい」

イーライは一歩横に並び、指先で港を示す。


「船は主に三種ございます」


まず、少し先に停泊している船へと視線を向ける。


「最初に出るのが兵糧船。

乾パン、塩、干肉――戦より先に、腹を満たすための船です」


「・・・これも大きいわ」


「兵は、空腹では動きませぬ」


即答だった。


「こちらは明日、南西領へ向かいます」


次に、建設中の巨大な船へ。


「こちらが兵船。

鉄砲組、弓組、槍持ちを分けて乗せます。

混ぜぬように。上陸した瞬間、陣が組めるように」


「降りた時点で、もう戦は始まっているのね」

ユウが小さく呟く。


「その通りにございます」

イーライは一礼した。


「最後が、キヨ様専用の御座船。

帆も舵も、最上のものを。荒れた海でも、揺れは最小限に抑えます」


淡々とした説明。


けれど――


その視線だけは、いつの間にかユウに向けられていた。


熱を帯びた、隠しきれない眼差し。


それを、シュリは見逃さない。


何も言わず、ただ静かに、イーライの横顔を見つめていた。


「随分と、船に頼るのね」

ユウは首を傾げる。


「陸路より、速く、安全に兵を運べます。

南西領沿いに進み、潮の流れを読み、一気に南領へ」

イーライは一瞬、言葉を区切った。


「――戦は、速さがすべてです」


ユウが、ゆっくりと彼を見る。


「速く終わらせるための戦・・・ということ?」


「はい」


迷いはなかった。


「長引けば、兵も、民も疲弊します」


潮風が、三人のあいだを吹き抜ける。


ユウは再び、船へと視線を戻した。


「ずっと見ていても、飽きないわ」


その横顔を、

二人の男は、それぞれ違う想いで見つめていた。



港の通りには、揚げた魚の脂の匂いに混じって、

蜂蜜と焼き菓子の甘い香りが漂っていた。


ユウは、ふと足を止める。


粗い木箱の上に並べられた、小さな褐色の焼き菓子。


表面には、かすかに刻まれた模様があり、

湯気はないのに、温もりだけが伝わってくるようだった。


「あれは?」

ユウが指差す。


「ハニーブレッドです」

イーライは、すぐに答えた。


「蜂蜜と香辛料を練り込んだものです。港では、よく売られています」


「甘いの?」


「ええ。保存が利きます」

そう言ってから、イーライは一瞬、言葉を切った。


「食べ歩き用です」


ユウは、少しだけ目を見開く。


「歩きながら食べるの?」


ーーそんなこと、今まで経験したことなかった。


「そうです」


「面白いわね。戦の船のそばで、こんな甘いものを売るなんて」

ユウの声には、純粋な驚きが混じっていた。


イーライは、その横顔から目を離せずにいた。


城の中では決して見せない、柔らかな表情。


「港では、よくある光景です」

そう答えながら、イーライは屋台に歩み寄る。


「一つ、いかがですか」


問いというより、確認だった。


ユウは一瞬だけ躊躇い、けれど小さく頷く。


「三つ欲しいの」


イーライが代金を払い、焼き菓子を受け取る。


ユウは、差し出されたハニーブレッドを受け取る。


その指先が、かすかに触れ合った。


一瞬――イーライの指が、わずかに強ばる。


だが今度は、手を引かなかった。


やがて、目を伏せ気持ちを切り替えるように伝えた。


「・・・ここでは落ち着きません。あちらはいかがでしょう」

イーライは、少し先の芝生を指差す。


「そうね」


芝生へ向かうと、シュリがすぐにハンカチを取り出した。


「こちらへ」


地面に敷かれたそれを示し、静かに促す。


「イーライ、シュリも、隣へ」


ユウの言葉に、三人は並んで腰を下ろした。


潮風が吹き抜ける中、ユウは手の中のハニーブレッドを見つめる。


「これは、どうやって食べるの?」


「こうして」

イーライは答え、ためらいなくかぶりついた。


「・・・かぶりつくの?」


それは、ユウが教えられてきた作法とは違っていた。


「はい」

イーライは、いつもより柔らかな表情で、ほんの少し微笑む。


「・・・やってみるわ」


ユウはそう言って、大きく口を開けた。


「美味しい!」


食べた瞬間、目を見開く。


その様子に、三人の間で、ふっと笑みがこぼれた。


このひとときだけは、身分も、役目もなく、

ただ同じ風に吹かれる、人として並んでいた。


穏やかな春の日。


シュリは、微笑むユウのその笑顔を胸に刻みながら、静かに悟った。


——こんな幸せな時間は、長くは続かない、と。


次回ーー明日の20時20分

戦へ向かう者が去り、

城に残された朝は、静かすぎるほどだった。


からかわれ、揺さぶられ、

シュリの中で抑えてきた感情が、思わぬ形で露わになる。


そして――

それを、ユウは見てしまった。


守る側と、守られる側。

その境界が、ほんのわずかに軋み始める。

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