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あの男がいない城


いよいよ、明日は出陣となった。


城内は朝から慌ただしく、兵の足音と金属の擦れる音が絶えない。

その緊張は、妾棟で静かに暮らす三姉妹――ユウ、ウイ、レイのもとにも、否応なく伝わってきていた。


夕刻。


ユウの部屋には、戦の気配とは別の、張り詰めた緊張が重く溜まっていた。


ーーキヨが来る。


それだけで、空気が変わる。


「・・・夕方に来るなんて」

ユウは、吐き捨てるように呟いた。


偶然かもしれない。


けれど、キヨが部屋を訪れる時間帯は、少しずつ、確実に遅くなっている気がする。


以前は朝だった。


それが昼になり、今は夕方。


ーーそのうち、夜になるのかしら。


ふと浮かんだ考えに、ユウの背筋を冷たいものが走った。


ぞくりとした感覚が、肩甲骨のあたりを撫でていく。


シュリは何も言わず、ユウの横顔を見つめていた。


剣を抱える腕に、無意識に力が籠もる。


革越しに伝わる硬さが、今はやけに現実的だった。


ーー守る。


それだけを、胸の奥で繰り返す。


カチッ。


扉の小窓が開き、控えめな音が部屋に響く。


「失礼いたします」

イーライが深々と頭を下げて入ってきた。


その動きはいつも通り正確で、感情の影は見えない。


そして、その背後からーー


金色のシャツを身にまとったキヨが、ゆっくりと姿を現した。


「邪魔をする」

キヨは、ゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。


ユウは黙って頭を下げ、冷ややかな瞳でキヨを見つめる。


まだ年若く、身体の線も控えめ。


けれど、その背筋の伸び方は、確かに母・シリに似ていた。


キヨは、すぐに本題へ入らなかった。


イーライが淹れた紅茶を手に取り、一口含む。


湯気の向こうで、しばし黙考する。


「このたび、南西へ向かう」


分かりきったことを、あえて口にする。


「はい・・・存じております」


「長くなるやもしれん」


「・・・ご武運を、お祈りしております」

丁寧だが、感情のこもらない声だった。


「留守のあいだ、ユウ様はここにおればよい」


命令でも、頼みでもない。


ただの事実を告げるような声音。


「何も心配はいらぬ。衣も、食も、人も、すでに手配してある」


一拍置いて、続ける。


「ウイとレイにも、快適な暮らしをさせよう」


その言葉に、ユウは思わず瞬きをした。


「・・・ありがとうございます」


今の暮らしは――

妹たちが穏やかに日々を過ごせているのは――

悔しいことに、この男のおかげでもある。


キヨは、そこで初めて笑った。


軽く。


だが、目だけは真剣だった。


「ユウ様は、何も案じずともよい」

言い切る。


「ユウ様は、ゼンシ様の姪であり、シリ様の娘だ。

粗末に扱われる理由が、どこにもない」


その言葉に、ユウの胸がわずかに詰まる。


キヨは立ち上がり、バルコニーの前で足を止め、

外を見たまま、ぽつりと続けた。


「戦は嫌いでな。だが、避けられぬ」


そして、ゆっくりと振り返る。


「だからこそ、戻る場所は整えておく」


その視線が、まっすぐユウを捉えた。


「帰ってきた時、この城に、ユウ様がおる。それで、よい」


ユウは、何も答えられなかった。


胸の奥に、熱とも冷えともつかぬものが、じわりと広がる。


キヨは、それ以上踏み込まなかった。


引き際だけは、昔から巧みな男だった。


「今日はそれだけだ。疲れさせたな」


一礼を促すように、軽く手を振る。


そして去り際、ユウをじっと見つめ、ほとんど独り言のように、小さく呟いた。


「・・・帰る場所は、失うものではない」


イーライが扉を閉める。


部屋は、音を失ったように静まり返った。



廊下を進みながら、キヨはふと足を止め、後ろを振り返った。


ユウの部屋の扉は、すでにきっちりと閉まっている。


それを確認してから、隣で銀のワゴンを押すイーライへ、低い声で話しかけた。


「イーライ。・・・これで、よかったのか」


「はっ。上手なご対応でした」

即答だった。


「もっと、踏み込めばよかったのではないか」

キヨは顎に手を当てる。


「言葉を重ねれば、ユウ様の心も開いたかもしれん」


「それでは、逆効果です」

イーライは歩調を乱さず、淡々と答えた。


「ユウ様は、“与えられている現状”を自覚させる方が効きます。

今の暮らしが、誰のおかげで成り立っているのか――そこを示すのが、最も確実です」


「・・・なるほどな」

キヨは、先ほどのユウの表情を思い出す。


一瞬だけ、戸惑いと感謝が交じったあの目。


「妹たちの名を出したのは、とりわけ効果があった」


満足そうに、顎を撫でる。


「ユウ様は、あの二人のためなら、自分を抑える」


「はっ」

イーライはそれ以上、何も言わずに頭を下げた。


だが、銀のワゴンを押すその手には、

自分でも気づかぬほどの力が込められていた。


金属の取手が、きしりと小さな音を立てる。


キヨはそれに気づかない。


「さて――わしは、そろそろ他の部屋へ行くとするか」


キヨはそう言った途端、先ほどまでの落ち着きが嘘のように、どこかそわそわとし始めた。


足取りも、心なしか軽い。


「はっ」

イーライは静かに応じ、立ち止まる。


キヨは鼻歌でも歌い出しそうな様子で廊下を曲がり、

やがて、別の妾の部屋の前で足を止めた。


扉が開き、金色の衣が、その向こうへと吸い込まれていく。


扉が閉まる音が、微かに響いた。


それでもイーライは、頭を上げなかった。


キヨの姿が完全に見えなくなっても、

しばらくのあいだ、深く頭を垂れたまま、動かなかった。


背筋は真っ直ぐで、指先は揃えられている。


やがて、ゆっくりと顔を上げる。


廊下には、誰もいなかった。


翌朝、キヨが率いるトミ軍は出陣した。


痩せて貧弱な身体に似つかわしくない金色のマントを翻し、

キヨは誇らしげに馬上から城門を振り返る。


その姿を、ユウは城の高みから淡々と見下ろしていた。


歓声も、祈りの言葉も、口にはしない。


ただ、静かに見送る。


――どうか、そのまま。


心の奥で、冷えた声が囁く。


――ずっと、南西領で戦っていればいい。


風が吹き、金のマントが遠ざかる。


やがて、軍勢は城外の道に溶けていった。


リオウの背が見えなくなるまで、ウイは城壁から目を離さなかった。


一方でユウは、すでに踵を返し、何事もなかったかのように、城内へと戻った。


城門が閉まる音が、遠くで響いた。


ユウはその音を背に、ゆっくりと息を吐く。


あの男がいない城は――不思議なほど、居心地がよかった。


次回ーー明日の20時20分

あの男がいない城で、

ユウは初めて「自由」を口にした。


視察と称して城下へ向かう支度は、

思いがけず、母・シリの記憶を呼び覚ます。


質素な黒の衣に宿るのは、

強さと、覚悟と、失われた時間。


――似ている、と誰かが呟いたとき、

シュリは、決して伸ばせない手の重さを知る。

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