それでも、姉が好きだった
ウイは、自分の部屋に辿り着くまで、必死に涙を堪え続けた。
ーー誰にも見せない。
誰にも気づかせない。
自室の扉を閉めた、その瞬間だった。
乳母のモナカが声をかけるより早く、
ウイは短く言った。
「一人にして」
その声は、思っていたよりも落ち着いて聞こえた。
モナカは何も言わず、静かに頷き部屋を出た。
次の瞬間、
ウイは耐えていたすべてを手放すように、寝台へと飛び込んだ。
胸の奥で張り詰めていたものが、ようやく、音を立てて崩れ落ちる。
レイがそっと、ウイの寝室に辿り着くと、
ウイは寝台に突っ伏して、激しく泣いていた。
豊かではあるけれど、金髪になりきれなかった褐色の髪が、小刻みに震えている。
整えられた寝台の上に、靴を履いたまま上がっていることにも、気づいていないようだった。
レイは何も言わず、ウイの足元に屈む。
静かに靴を脱がせ、音を立てぬよう端へ寄せた。
それから、同じ寝台の縁に腰を下ろす。
声は、かけなかった。
ただ、そこにいる。
静まり返った部屋に、ウイの泣き声だけが落ちていく。
嗚咽が、少しずつ、少しずつ、間隔をあけていった。
やがてウイが、ゆっくりと顔を上げる。
振り向いた先には、黒い瞳のレイが、変わらぬ表情でこちらを見ていた。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、逃げ場を塞がない距離で。
「・・・こんなに取り乱すなんて」
ウイが、かすれた声でつぶやく。
「恥ずかしいわ」
その視線は、頑なに床に落とされたままだった。
三つも年下の妹に、泣いている姿を見られるなんて。
それだけで、胸の奥が、また痛む。
レイは、すぐには口を開かなかった。
しばらくして、ほんの小さく、首を振る。
「恥ずかしくない」
それだけを言った。
ウイは、驚いたように顔を上げた後つぶやいた。
「姉上に・・・敵うわけないのに・・・」
ずっと心の奥に押し込めていた想いが、ふっと口をついて出てしまう。
「姉上は他に、想う人がいるわ」
レイは静かに答えた。
その脳裏に、シュリの顔が浮かぶ。
「わかっている!!」
ウイが叫んだ。
「姉上が、リオウ様のことを好いていないのは、とっくに知っている!」
群青色の瞳は、涙に濡れていた。
レイは表情を変えず、静かに頷く。
お互い、姉が想っている相手は語らなくても知っていた。
言葉にしなくても、視線や声のわずかな揺れで、気づいてしまう。
けれど――
それを口にしないのが、姉妹として、
そして姫としての、暗黙の了解だった。
それは、決して口にしてはいけないことなのだ。
レイは、それを口にした瞬間、
姉妹の均衡そのものが崩れると知っていた。
「私のことなんて、気づきもしなかった。
あの人の視界にすら入らない・・・それが、辛いの」
ウイの瞳から、また一筋、涙が落ちる。
「姉上が――どうしようもないくらい性格が悪ければ、思う存分、恨めたのに・・・。
姉上が、優しいから辛いの」
リオウが見ていたのは、いつもユウだった。
一度も、自分を見たことはない。
見られないことより、最初から存在しなかったように扱われる方が、ずっと痛かった。
その事実が、
剣よりも、言葉よりも、深く胸を抉っていた。
レイは、ほんの少しだけ、ウイの方へ身を寄せる。
触れない。
けれど、確かに、距離は縮める。
触れずに寄り添う距離を、姉妹は昔から知っていた。
「・・・泣いていい」
それだけを、言った。
ウイは、もう堪えなかった。
顔を覆い、再び声を殺して泣く。
レイは、何も言わず、何もせず、
ただその時間が過ぎるのを待った。
それが、妹にできる、唯一のことだと知っていたから。
泣き声が小さくなるまで、レイは一度も、目を逸らさなかった。
泣き声がようやく落ち着いたあと、
ウイは赤くなった鼻を啜りながら、ぽつりと呟いた。
「どうせ、好いた人がいたとしても・・・結ばれないわ」
その声には、どうしようもない悲しみと虚しさが滲んでいた。
レイも、静かに頷く。
「家のため、領のために・・・顔も知らない領主の元へ嫁ぐのよ」
言い終えた途端、ウイは唇を強く噛み締めた。
「・・・それなら、あの人を好きにならない方が、きっと幸せなのに」
震える息を吐き、続ける。
「嫌うことも、できないの」
最後は、再び涙声になった。
「・・・結婚してから、相手の方を好きになる場合も、あるわ」
レイは、ぽつりと呟いた。
黒い瞳が、かすかに滲む。
――それは、まだ「良い思い出」と呼べるほど遠い記憶ではなかった。
レイの心の傷は、今もなお、生々しいままだ。
ウイはしばらくレイの顔を見つめてから、小さく頷いた。
「・・・そう、ね」
そして、静かに言葉を継ぐ。
「嫁ぐなら・・・母上と父上のようになりたい」
泣き腫らした群青色の瞳が、わずかに揺れた。
◇ 昼食の時間
ユウの部屋の扉を、ウイがそっと開いた。
「ウイ、体調は大丈夫?」
顔を上げたユウが、すぐに立ち上がり、心配そうに近づく。
「少し頭が痛くて、部屋で休んでいただけ。もう大丈夫よ」
そう言って、ウイはにこりと笑ってみせた。
「それなら、よかった」
ユウは安堵したように微笑み、ウイの髪にそっと手を伸ばす。
その仕草と眼差しは、亡くなった母を思わせるほど、やさしかった。
ウイは一瞬、目を閉じる。
――姉上を、嫌いになれない。
遅れて、レイが静かに部屋へ入ってきた。
「昼食の準備が整いました」
ヨシノの声に促され、三人はテーブルを囲む。
一日の中で、もっとも心が緩む時間だった。
「いよいよ、明日は出陣ね」
サンドイッチを手にしたユウが、ぽつりと呟く。
「・・・そう、ね」
ウイの手から、ふいにフォークが落ちた。
――リオウ様が、出陣する。
不安と心配が、胸の奥を突く。
「争いがある間は、婚儀は進まないわ」
ユウは淡々と、事実を告げる。
「そうなの?」
レイが顔を上げる。
「ええ。あの男が南西領で争っている間は、婚儀の話は浮上しない」
感情を交えない声音だった。
「それなら、嬉しいわ」
レイが、小さく呟いた。
「こうして、姉上と姉様と・・・三人で一緒にいたい」
その黒い瞳は真剣だった。
「そうね」
ユウはカップを置き、静かに微笑む。
「三人で、ずっと一緒にいられたら幸せでしょうね」
それが叶わない願いだと、誰よりも分かっているからこそ、その言葉はひどく切実だった。
いずれ、三人はそれぞれの場所へ嫁いでいく。
――せめて、一日でも長く。
淡い昼の光が部屋を包み込む。
ユウの部屋に置かれた、母の遺品である小さな木像が、まるで静かに見守るように、三人を見つめていた。
次回ーー本日の20時20分
いよいよ、出陣の朝。
城を覆っていた緊張は、ひとまず遠ざかったはずだった。
――けれど、残された者たちの胸には、
別の不穏が、静かに根を張り始めている。
守られること。
与えられる居場所。
そして、戻ると告げた男の存在。




