手を伸ばさずにいる方が、私には辛いのです
リオウに抱き寄せられたユウは、思考が完全に停止した。
男の腕に抱き寄せられるのは――シュリ以外、初めてだった。
見た目よりも逞しいリオウの腕に引き寄せられ、思わず息を呑む。
それを知ってか知らずか、リオウの腕はさらに力を強めた。
次の瞬間、
リオウの首元に、ひやりと冷たいものが触れた。
「リオウ様、おやめください」
背後から、落ち着いた声が響く。
振り向く間もなく、シュリが間合いに入り、剣を当てていた。
いつもは柔らかな茶色の瞳が、今は鋭く、深く、感情を殺している。
我に返ったウイが、思わず声を漏らした。
「あ・・・」
「なるべく事を大きくしたくありません」
シュリの声は、あくまで静かだった。
「ユウ様から、すぐに離れてください」
その言葉に、リオウははっとして腕を緩める。
ユウの身体が解放された、その一瞬の隙間に、シュリがすかさず割って入った。
剣を構えたまま、一歩前へ。
「ユウ様に近づくのは、おやめください」
――お前だって。
思わず、そう言い返しそうになる。
だが、リオウは口を噤んだ。
ーー違う。
シュリがユウのそばにいるのは、嫉妬でも、選択でもない。
生まれながらに与えられた“任務”だ。
領主が、使用人を羨ましがる。
それを言葉にするほど、己は愚かではない。
シュリの背後には、
まるで守られる場所を本能で知っているかのように、ユウは寄り添って立っていた。
その瞳には、まだ動揺の色が残っている。
「・・・すみません」
リオウは、静かに頭を下げた。
「争い前で、気が昂っていました」
シュリは一瞬だけ、背後のユウを振り返る。
ユウが小さく、だが確かに頷くのを見て、剣を納めた。
「リオウ、ご武運を」
ユウの声は、すでに平静を取り戻していた。
「はい」
リオウは一歩近づき、ユウの手を取る。
そして、その甲にそっと口づけを落とした。
――ぎりぎりのやり方。
従兄弟として振る舞いながら、一線を越えるか、越えないか。
その曖昧な境界を、彼はよく知っている。
シュリは再び剣を握った。
だが、抜くことはなかった。
「それでは、失礼します」
リオウは深く頭を下げ、踵を返す。
その背中は、まっすぐ城へと向かっていった。
リオウの背が遠ざかると、ユウの肩から、ふっと力が抜けた。
その様子を背後で見つめながら、ウイは静かに視線を落とす。
――リオウ様は、私のことを一度も見ていなかった。
胸の奥で、その事実がゆっくりと言葉になる。
一度も。
ただの一度も。
三年前、初めて顔を合わせたあの日から――
リオウ様の視線は、いつも姉上だけを追っていた。
あの時から、ずっと。
頭では分かっている。
分かっているのに。
胸の奥が、じくじくと痛む。
先ほどの抱擁は、目を背けたくなるほど、はっきりとした光景だった。
これ以上ここにいたら、きっと、声より先に涙が零れてしまう。
「・・・私、忘れ物をしちゃった」
ウイは、必要以上に明るい声を作り、ユウに背を向ける。
「部屋に戻るね」
言い放つように告げて、歩き出した。
その背中を、レイは何も言わずに追いかけた。
◇
足早に去っていくウイの背中を見つめながら、ユウはその場に立ち尽くした。
回廊に残されたのは、自分とシュリだけ。
「ウイ・・・どうしたのかしら?」
不安そうに、開いた扉の向こうを見つめるユウに、
シュリは一瞬、視線を彷徨わせた。
「・・・体調が、優れないのでは」
咄嗟に思いついた言葉を、口にする。
「それなら、見舞いに行かないと」
ユウが一歩踏み出しかけた、その瞬間――シュリの胸がひやりとした。
「ユウ様こそ・・・大丈夫ですか?」
振り向いたユウの声は、わずかに硬かった。
「私は、大丈夫よ」
その違和感に、シュリは庭の方を指し示す。
「少し、休みましょう。こちらへ」
「でも・・・ウイが・・・」
ユウが小さく呟き、再び歩き出そうとしたとき、シュリは思わず、その腕を掴んでいた。
それ以上先へ行かせてはいけない――
理由を言葉にできないまま、身体が先に動いていた。
「・・・乱れたお気持ちのまま、ウイ様にお会いになるのは控えましょう」
ユウは驚いたようにシュリを見つめた。
「私の気持ちは乱れてないわ」
そう言い切ったものの、指先は、まだわずかに冷えていた。
「こちらのベンチへ」
シュリが静かに促す。
庭の片隅、人目につかない場所に置かれた古いベンチ。
ここでは何度か、部屋では交わせない話をしてきた。
ユウが腰を下ろすと、シュリはその背後に立った。
「失礼します」
小さくそう告げ、そっと背に手を触れる。
「ユウ様。大きく息を吸って・・・吐いて・・・」
低く、落ち着いた声で導く。
何度か繰り返すうちに、ユウははっとした。
「私・・・呼吸が乱れていたのね」
「はい。あのようなことがありましたから・・・当然かと」
そう答えながら、シュリは無意識に眉を寄せていた。
リオウがユウを抱き寄せた、その瞬間。
胸の奥に、言葉にできない苦味と怒りが込み上げた。
姫を守るために剣を抜いた。
それは確かに任務だった。
だが――そこには、隠しきれない私情もあった。
その感情を、シュリは胸の奥に押し込める。
ユウが振り向いた。
「シュリ、隣に」
シュリは一瞬ためらい、軽く頭を下げてから、距離を保ったまま隣に腰を下ろした。
人目につく場所だ。
慎重にならざるを得ない。
「どうして・・・私の心が乱れているって、分かったの?」
ユウは静かに問いかける。
自分では気づいていなかった動揺を、シュリは最初から察していた。
その理由が、知りたかった。
「ずっと・・・ユウ様のお傍におりますので」
視線を落とし、シュリは答える。
ユウの瞳には、不思議な力がある。
じっと見つめられると、心の内をさらけ出してしまいそうで、怖くなる。
見透かされる気がして、息が詰まる。
「びっくりしたわ」
ユウは淡々と言った。
「シュリ以外の男性に・・・抱きしめられたのは、初めてだったから」
その声は、わずかに震えていた。
「・・・すみません」
シュリは思わず、そう口にしていた。
立場を忘れて、ユウを抱きしめたことは、何度もある。
震える背中を抱き寄せるたびに、
背徳感と、どうしようもない幸福が胸を満たした。
ーーそんな事は、決して口にしてはいけない。
「・・・謝らないで」
ユウは、まっすぐにシュリを見つめた。
抱きしめてほしいと願ったとき、いつも求めていたのは、彼だった。
その眼差しの奥に、任務以上の想いが見え隠れしていることにも、
とっくに気づいている。
けれど、それを言葉にすることは、決してなかった。
「シュリ・・・私を抱きしめるのは、任務なの?」
逃げ道を与えないほど、真っ直ぐな視線。
――この目だ。
この眼差しに向けられるたび、心が乱れる。
シュリは、乾いた唇をグッと噛み締めた。
ーー言ってはいけない。
本当の想いを口にする資格など、自分にはない。
そう分かっていても、
シュリは気持ちを押し留めることができなかった。
「・・・任務、ですが」
一度、言葉を止める。
「ですが?」
ユウが、静かに促す。
シュリは視線を落とした。
選んでいるのではない。
選んではいけない言葉を、必死に飲み込んでいるだけだった。
「ユウ様が・・・苦しそうにされている時」
低く、静かな声。
「手を伸ばさずにいる方が・・・私には、辛いのです」
それは答えであり、答えではなかった。
ユウの胸が、微かに震える。
「・・・さっきは、怖かったわ」
ぽつりと、ユウは言った。
「突然で・・・息が、詰まってしまった」
一拍、間を置いて。
「でも」
視線を逸らさず、続ける。
「あなたが触れたときは・・・落ち着いたの」
その言葉は、「好き」よりもずっと静かで、
「嫌だった」という比較よりも、ずっと正直だった。
シュリは、何も言えなかった。
呼吸が、わずかに乱れる。
「シュリに抱きしめられると・・・呼吸が、戻るのよ」
それ以上、言葉はなかった。
言わなくても、互いに分かってしまったことがある。
踏み込めば、壊れる。
踏み込まなくても、戻れない。
だから二人は、
何も言わないまま、同じ景色を見つめていた。
庭の奥で、
スノードロップが静かに揺れていた。
次回ーー明日の9時20分
ウイは、誰にも見せないように泣いた。
姉を恨めない想いも、届かない恋も、すべてを胸に押し込めて。
そばにいたのは、ただ静かに寄り添う妹・レイだけだった。
――好きにならなければ、楽だったのに。
それでも消えない感情を抱えたまま、
三姉妹は再び同じ食卓を囲む。
明日は、出陣。
そして、変わらない時間は、もう長くは続かない。




