姫の影
◇サカイ城 馬場
翌朝。夜明けの薄い光が馬場に差し込むころ、
シュリはすでに鍛錬に励んでいた。
重臣オリバーと火花を散らしながら剣を交える。
弓の名手でありながら、オリバーの剣技は重臣の中でも上の方だ。
その相手に、一歩も引かずに木剣を振るうシュリの姿に、
これから戦場へ向かう騎士たちも手を止め、黙って視線を向けていた。
その様子を、少し離れた場所から見つめる影があった。
「・・・相変わらずうまいな」
ノアが呟く。
隣でマントを翻したエルが、小さく頷いた。
「エル、シュリは昔から剣が上手かった。
・・・なんとか兵に取り立てることはできないのか?」
ノアは懇願するように続ける。
「私も何度か、それを兄者に伝えた」
エルは視線を逸らさず、淡々と答える。
「ダメなのか?」
ノアが眉を寄せると、エルは短く息を吐いた。
「ダメだ。兄者自身、あの子の腕を認めている。
・・・けれど、シュリは一生“使用人”のままだ」
「・・・そんな。シュリは気立ても良くて、腕も立つのに。
騎士になれば・・・重臣クラスになれる」
震える声で訴えるノア。
その気持ちを受け止めるように、エルは静かに頷いた。
ーー少なくとも、城から追い出さないこと。
それがキヨの“恩義”だった。
シュリを城から追い出さないのは、ユウ様の機嫌を損ねないため。
その一点に尽きる。
シュリの報酬は、使用人としてわずかなもの。
腕前や働きに見合うものではない。
「私も・・・何とかしたいと思っている。
才能ある若者の芽を潰すのは、惜しい」
エルは、剣を握るシュリの背を見つめたまま、かすかに拳を握った。
◇
「乳母子殿、今日も頑張っているな」
鍛錬を終え、額の汗を拭っていたシュリに声がかかった。
振り返ると、赤い髪を朝風に揺らしながら、不敵な笑みを浮かべるリチャードが立っていた。
「リチャード殿」
シュリは静かに頭を下げる。
「リチャードで良いと前に話しただろう?」
手をひらひらしながら、リチャードは話す。
「それでは・・・リチャードは戦場には?」
問いに、リチャードは草の葉をくわえたまま、肩をすくめた。
「行かないさ。俺はまだ、兵から信用されていない」
淡々とした口調だった。
「こちらに寝返ったばかりの“領主の息子”――
そんな男を、いきなり前線に立たせるほど、世の中は甘くない」
くわえた草を指先で転がしながら、リチャードはわずかに笑った。
だがその笑みには、どこか自嘲の色が混じっていた。
「昨日も、あの姫様と乗馬をしたのか」
突然の言葉に、シュリの肩がビクリと震えた。
――見られていたのか。
どうしてリチャードは、いつも“要所”に現れるのだろう。
そんな疑念が頭をかすめる。
「ユウ様に付き添うのは、私の任務です」
答えながら、シュリの脳裏には昨日のユウの言葉がよみがえった。
『十二人の女子より、シュリが良い』
胸の奥がじんわり熱くなる。
あの瞬間だけは、自分が“乳母子”でも“使用人”でもなく、
ただの“ひとりの男”として見られた気がした。
その時――
「シュリさん、お水をどうぞ」
透きとおる声が割り込んだ。
振り向くと、
小さな水差しを抱えた侍女の少女が、頬をわずかに赤くして立っていた。
「ありがとうございます」
シュリが礼を言って水を受け取ると、リチャードがじっと二人を見比べた。
その視線に気づいたのか、
少女は恥ずかしそうに軽く頭を下げて去っていった。
赤い髪を揺らし、リチャードは口の端をゆるめる。
「姫様だけじゃなく・・・ずいぶん“人気”なんだな、乳母子殿」
挑発とも観察ともつかない声音。
シュリは思わず息をのむ。
「ち、違います。偶然です」
「偶然? 前も水を渡されていたじゃないか。しかも別の女だったはずだ」
「・・・そうでしたか?」
正直、女中や侍女は服装がほぼ同じで、顔を覚えていなかった。
リチャードは呆れたように笑う。
「鈍い乳母子殿だ。・・・まあ仕方ない。身近にいるのが“あの姫”ならな」
わざとらしく思わせぶりな笑みを浮かべる。
「いや・・・それは・・・その・・・」
否定しながら顔を赤くするシュリを、リチャードは鼻で笑った。
そして、顎でそっと別の方向を示す。
「あそこにいる、あの口うるさい男」
視線の先にはイーライがいた。
木剣を握りしめてはいるが、振るう剣は弱く、覇気がなかった。
「・・・イーライ様ですか?」
「ああ。あいつも、姫様のことを好いているぞ」
リチャードはイーライを見つめるシュリの横顔を、興味深そうに眺めた。
「・・・ほう。“その顔”は初めて見るな」
「え?」
「気に入らないんだろう。
あの口うるさい男が、姫様を想っているのが」
シュリの心臓が跳ねる。
「ち、違っ――」
「否定しても無駄だ。お前も“同じ顔”をしているぞ。
他の男が姫様を見るときに、嫌そうに眉を寄せる顔だ」
リチャードは愉快そうに笑った。
「ところで乳母子殿、この前の進言は実行したのか?」
「・・・進言?」
「おいおい、忘れたふりをするなよ。言っただろう?」
リチャードは草の葉を噛みながら、わざとゆっくり続けた。
「口づけだけでは姫様は落ちん。首筋や耳元に唇を落とせ、と」
その瞬間、リチャードはニヤリと口元を歪めた。
シュリが、あからさまに呼吸を止めたからだ。
「乳母子殿・・・なかなか、やるじゃないか」
リチャードは面白がるように、シュリの肩に手を置いた。
「な、何も! 何も想像したことはありません!」
シュリは真っ赤になって慌てて否定する。
「へえ。俺は何も言っていないが?」
リチャードは喉の奥で笑いながら、
クスクスと楽しげに肩を揺らした。
ーーもう、この人の前では何も話さないようにしよう。
シュリは、心の底からそう決めた。
何か口にした瞬間、すべて見抜かれてしまう。
リチャードはさらにシュリの肩に腕を回し、距離を詰めてきた。
「ところで、シュリよ」
「・・・はい?」
「お前は、女慣れが必要だ。どうだ?次の休暇に、俺と花街へ行こう」
「またですか?」
「お前の顔だ。放っておいても女が寄ってくる。
まして“初めて”と知れたら、手取り足取り――」
「私には休暇などありません」
シュリの声は静かだった。
「・・・休暇が、ない?」
「騎士の方々は、戦の前後に休暇があると思います。けれど、私はありません」
「そうなのか!」
リチャードの表情に、はっきりと驚きが走った。
「使用人は、そうです。
イーライ様は使用人ではありませんが・・・いつも城に詰めておられます」
リチャードはしばし黙り、再び質問をした。
「親に面会したいとか、希望の休暇はないのか?」
「私の母はユウ様の乳母です。いつでも、近くにいます」
「父親は?」
「死んだと思います。母は、乳母の仕事のために父と別れましたから」
シュリは淡々と答えた。
リチャードは、黙ってシュリの顔を見つめた。
「・・・お前、本当に“姫の影”で生きてるんだな」
皮肉でも挑発でもない、珍しく素の声だった。
「それで良いのです。私はユウ様を支え、守り、影となる存在ですから」
シュリが淡々と語ると、リチャードは少しだけ目を伏せた。
「・・・あの姫様は、強い光を放っている。
ああいう人はな、放っておけば自分で燃え尽きる」
「・・・え?」
「だから――お前みたいな“影”が必要なんだよ」
その言葉は、からかいではなかった。
リチャードの声は低く、どこか遠くの景色を見ているようだった。
次に口を開いたとき、彼はいつものようにニヤリと笑い、
「まぁ、うまくやれ。そこから先の進め方も伝授してやる。良い本もあるぞ?」
と肩を叩いた。
ニヤリと笑い、リチャードは声を潜めて続けた。
「絵が多いやつだ。お前でも分かる」
「いりません!」
即答で返すシュリに、リチャードは腹を抱えて笑った。
リチャードは片手を軽く上げて背を向ける。
振り返りもせずに歩き出し、風に赤髪を揺らしながら馬場を去っていった。
シュリは顔を真っ赤にしたまま、しばらくその場から動けなかった。
次回ーー明日の20時20分
武功を求められ、焦る男。
静かに春を迎えようとする姫。
その想いが、回廊で不意に交わったとき――
眠っていた感情が、誰よりも先に動き出す。




