海を見た姫、姫を見た青年
石畳の坂道を下りきると、
潮風に混じって鉄と木の匂いが強くなっていった。
「音がする」
ユウが馬上で耳を澄ます。
ガン、ガン、と鉄を打つ音。
太い縄が水面を叩く音。
男たちの怒鳴り声と、海鳥の鳴き声。
城の中では決して聞こえない、生きた世界の音だった。
次の瞬間――視界が、ぱっと開けた。
ユウは思わず息を呑み、馬の脚が自然と止まった。
目の前の港には、見たこともない巨大な船が、
海を割るようにずらりと並んでいた。
黒々とした船体は城壁のように高く、
帆柱は天を突く塔のようにそびえ立つ。
「大きい!」
ユウの声は驚きで震えていた。
港中が影に入るほど巨大なその船影は、
海を征するために作られた “動く砦” そのものだった。
シュリもまた、馬の横で言葉を失っていた。
「・・・なんて、大きさだ・・・これは・・・」
生まれてから一度も港に来たことのないシュリにとっても、
これは想像をはるかに超えた“異世界”だった。
船と船のあいだの波が、ゆっくりとうねるたび、
巨体が軋み、低く唸った。
その音が、胸の奥まで震わせる。
「これが・・・船」
ユウは呟き、手を胸に当てた。
イーライがそっと馬を寄せる。
「ユウ様。あれらが、キヨ様のために建造された軍船です」
「全部?」
「はい。四隻。いずれも、百人規模で動かす大型のものです」
イーライは淡々と説明するが、
彼の声にもわずかな誇りが滲んでいた。
ユウは船を見上げたまま眉を寄せる。
「城が動いているみたい」
「はい、ユウ様。この船は“海を渡る城”と呼ばれております」
海風がユウの金の髪を揺らし、真紅のコートが翻った。
巨大な船体が影を落とし、その影に包まれた瞬間、
ユウの青い瞳はさらに深く輝いた。
「キヨは、これで南西領へ攻めるつもりなのね」
言葉は冷静だったが、胸の奥で何かがわずかに震えた。
シュリが港に並ぶ船を見つめながら、小さく息を呑んだ。
「・・・あの船が動くとき、どれほどの人が」
ユウは目を閉じ、潮風をひとつ吸い込んだ。
イーライはそんなユウの横顔をまっすぐに見つめた。
「あの男は・・・ものすごい力を持っているのね」
ユウが呟く。
「はっ」
イーライが答えた。
海に行き、船を見せるとキヨに申請をした時に、キヨに言われた。
『わしの力の凄さを、ユウ様に見せつけろ』と。
普段、城の中では見えない権力を、ユウに見せつけたい思惑があった。
「これ以上、港に近づくには許可が必要です」
巨大な船を、まるで飲み込むように見つめていたユウに、イーライはそっと釘を刺した。
「そうなの?」
ゆるく眉を寄せ、不満そうに振り返るユウ。
その顔に、イーライは思わず苦笑した。
「ユウ様。船周辺は気が荒い男もおりますし、荷を運ぶ者も多い。危険でございます」
今度はサムが優しく補足する。
「ーーそうね」
ユウは名残惜しそうに巨大な船を見つめたまま、唇を結んだ。
「もっと見たいわ」
そのつぶやきに、イーライは胸が熱くなる。
ーーそんな顔をされたら、どこへでも連れていきたくなる。
「それでは、ここでお茶にしましょう」
イーライは革の鞄を開き、慣れた手つきで茶の支度を始めた。
敷物が敷かれ、海風が頬を撫でる中ーー、
ユウは真紅のコートを揺らしながら優雅に座る。
「皆も座って、一緒にお茶を」
ユウが微笑み、サムもイーライも、シュリも同じ敷物に座った。
本来であれば、姫と同じ目線で座ることは許されない。
けれど、ユウはそれを許し、心を開く才と態度があった。
しばらくして、ユウが口を開いた。
「イーライ、攻めではどのような準備をしたの?」
突然の問いに、イーライは少しだけ目を見開いた。
戦況や兵の話ではなく、
自分の働きについて尋ねられるとは思わなかったからだ。
サムが「話してやれ」と促すように頷く。
イーライは、静かに口を開いた。
「まず、兵の人数に合わせて乾パンの量を決めます。
何日分を持たせるかで、船の重さが変わりますので」
「乾パンの量まで計算するの?」
ユウは本気で驚いていた。
女性が、いや、多くの者が気にも留めない裏方の数字。
そこへまっすぐ興味を向けるユウの姿に、
イーライの胸はじんわりと温かくなる。
「はい。倉を用いて兵糧を分け、どの軍がどれだけ使うか割り振りました。
船へ積む順も、兵糧・武具・水・・・重さを見て決めています」
隣でサムが満足げに頷いた。
「天候が崩れると船が重くなり、沈む危険があるため、予備の兵糧は別の倉に置きました」
「そんな事まで・・・」
シュリが口を挟む。
ユウは聞き逃すまいと、わずかに身を乗り出した。
「この港だけでなく、三つの港から軍が出ます。
それぞれが遅れが出ぬよう、出航時刻も細かく決めました」
淡々と説明するイーライにサムが少し苦笑した。
「イーライ、少し専門的だ。もう少し噛み砕け」
だが、ユウは首を横に振る。
「困ってないわ。もっと聞かせて。
イーライがこの軍勢を支えているんでしょう?」
真っ直ぐな青い瞳がイーライを射抜いた。
ーー自分の働きをこんな風にまっすぐ見てくれる人など、
今まで一度もいなかった。
「・・・ユウ様」
声が震えそうになる。
サムも穏やかに言葉を添える。
「船に乗って敵を攻める、それが勇ましく見えるが・・・
この大軍が動けるのは、イーライが全部整えてくれたからだ」
ユウは静かに頷く。
「ありがとうございます」
イーライは胸いっぱいの思いを隠しきれなかった。
ーーこの方は、どうしてこんなにも優しいのだろう。
ユウ様に認められると、
胸の奥の熱がもう抑えきれなくなってしまう。
サムはさらに言う。
「兵糧も船も、時刻も・・・全部イーライの働きだ。
キヨ様も『イーライのおかげで南西領は勝ったも同然だ』と仰っていた」
イーライは海を見つめたまま、
潮風に揺れる黒髪の前髪をそっと押さえ、ゆるく首を振った。
「私は・・・なすべき務めをしているだけです。
戦の勝敗は、武を持つ騎士の働き。
私はその背を押すだけの・・・影の役にすぎませぬ」
静かな口調だったが、
その言葉の奥には、誰にも見せたことのない劣等感が滲んでいた。
武で立てないという痛み。
それでも役に立ちたいという焦燥。
それを知ってか知らずかーー
ユウはひとつ、海に向けて歩み寄った。
白い指先が風を切り、
真紅のコートがやわらかく翻る。
「影というのはね・・・ときに、光よりも強いのよ」
イーライは目を瞬いた。
海風が一瞬止んだように感じた。
「人は光ばかり見るわ。
でも、影が動かなければ、光は形にならない」
ユウの視線は、遠く船団の上へ向けられていた。
「サムやイーライのような人がいるから、あの男の軍は動くのよ」
その声音は、優しさでも慰めでもない。
“事実を見抜いた者の言葉” だった。
イーライは胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。
誰もが、気にもとめないと思っていた自分の働き。
地味で、日陰で、名も残らない仕事。
そのすべてを、この姫は見抜いている。
ーーユウ様は・・・どうして・・・
潮風がひときわ強く吹き、
真紅のコートの裾がふわりと舞い上がった。
ユウは海に向けていた視線をゆっくりと戻しーー
イーライの方へ振り返った。
その瞬間、
海の蒼さと、ユウの金の髪の光が重なり、
まるで“海そのもの”が彼女の輪郭を照らしているかのようだった。
「イーライ」
名前を呼ぶ声音は、
波が寄せたあとに残る静けさのように優しい。
その優しさが、イーライの胸を射抜いた。
普段は冷静なはずの鼓動が、
自分の意思とは関係なく早まる。
ーーユウ様
ただ名を呼ばれただけなのに。
ただ振り返られただけなのに。
影として生きてきた自分へ向けられた光が、
あまりにも強く、あまりにも眩しくてーー胸の奥が焼けるように熱くなる。
イーライは気持ちを抑えるのに、必死になった。
“立場”が、恋の衝動を押しとどめた。
それでも視線だけは、どうしても離せなかった。
潮風に髪を揺らし、海を背にしたユウは、
もはや
姫でも、旗印でもなく、
ただ一人の女性としてイーライの胸に宿ってしまった。
ユウはそっと微笑む。
「・・・あなたの働きは、目立たなくても素晴らしいわ。だから、出世する。必ずね」
確信を帯びたその声は、
祝福にも、予言にも、祈りにも聞こえた。
潮風が三人の間を吹き抜け、イーライの黒髪を揺らした。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
影でいることを選んできた彼にとって、
その言葉は光よりも眩しかった。
シュリは、その瞬間、胸の奥をかすかに刺されたように息を呑んだ。
ーーイーライの目が。
ユウを見る眼差しが、
もはや“家臣のそれ”ではないことを、
彼は、もっと早く、誰よりも早く気づいた。
けれど、今はもっと深く重く実感してしまう。
羨望か、痛みか、それとも焦りか。
自分でも判別できないほど複雑な感情が、
胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
ユウの金髪が海風に揺れるたび、
その美しさに、二人の男の視線が重なる。
それが、苦しかった。
一方でサムは、年長者ゆえの静かな目で三人を見ていた。
ーー気づいていないのは、ユウ様だけか。
真紅のコートを揺らして振り返るユウ。
その光景に息を呑み、動きを忘れてしまうイーライ。
そして、わずかに視線をそらし、
胸の奥を押さえるように瞬きをするシュリ。
三人の想いが、海風の中でそっと絡まりはじめている。
それは、仲間でも乳母子でも家臣でもない、
別の“熱”を帯びたものだった。
サムは潮風に目を細めながら、静かに思う。
ーー放っておいても転がり出す。
若い心ってのは、止められん。
ユウは、二人の視線に気づくことなく、再び青い水平線へ目を向けた。
その横顔は、
誰かの心を揺らさずにはいられないほど美しく、そして強かった。
次回ーー明日の20時20分
真紅のコートを脱ぎ捨てたあと、
“姫”ではなく“ユウ”に戻った部屋で、
ついに重なってしまった二人の想い。
守りたいと願う心と、
守られたいと願う心が、
もう後戻りできない場所へ踏み出していく。




