誰も気づかぬ恋、真紅に滲む火種
早朝訓練を終えたばかりのリチャードは、
馬の吐く白い息を眺めながら、牧草の上に仰向けになっていた。
「・・・暖かい地とはいえ、朝は冷えるな」
強張った肩をほぐすように腕を伸ばした、そのとき。
厩の小窓から ひらり と赤い布が揺れた。
「赤?」
この城で、あんな派手な真紅の外套を着る者などーー。
思わず身を起こして窓の外をのぞき込む。
真紅の乗馬コートを纏い、
束ねた金の髪を朝の光に揺らしながら歩いてくる。
その隣を歩くのは、見慣れた鳶色の髪──シュリ。
「・・・あぁ、例の姫様か」
リチャードは小さく笑ったが、
胸の奥に生じたざわりとした感覚をうまく言い表せなかった。
すでに馬場にはイーライとサムが待機していた。
だが、遠くから近づくユウの姿を見た瞬間、
サムが息を呑む音がはっきりと聞こえた。
戦場で兵の目印になるよう染め抜かれたような“強い赤”。
真紅の外套に包まれ、すっと伸びた背筋。
少女らしい柔らかさは影を潜め、代わりに研ぎ澄まされた気配が周囲を覆う。
「・・・姫様というより、もう“領主の顔”だな」
リチャードはぽつりと漏らした。
美しいーーという単語では到底足りない。
近寄りがたい威厳。
見る者の胸を自然と正させる気高さ。
真紅のコートを翻し、ユウが馬場へ一歩踏み出した瞬間、
空気がわずかに震えた。
サムが思わず声をかける。
「そのコートは・・・」
ユウは胸元の生地に触れ、少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「・・・母上のものよ。冬に乗馬するのは初めてだから・・・今日、初めて着たの」
真紅の布地に指が沈むたび、
母の残り香が胸の奥をざわつかせる。
けれど、今日はそのざわつきを“力”に変えると決めていた。
サムはゆっくりと頷き、言葉を添える。
「確かに。シリ様がお召しになっていたものです。そのコートは・・・」
ユウは先に続けた。
「叔父上から贈られたと聞いているわ」
叔父ゼンシーーその名が落ちた途端、場の空気が微かに張りつめる。
苛烈なカリスマ。
この国でその名を知らぬ者はいない。
サムも背すじを正し、静かに語る。
「はい。ゼンシ様も同じ型の真紅のコートを戦場でお召しでした。
遠くからでも一目で分かるその姿は・・・兵たちにとって畏敬の的でした」
言葉を終えても、サムは目を逸らさなかった。
今のユウには確かに、
その血が濃く、強く、脈打っている。
ただ立っているだけで周囲の空気が張りつめる。
風までもが彼女の意志に従うかのようだった。
リチャードは厩の影に身を寄せ、
真紅の外套のユウを、じっと目で追った。
そのすぐそばに立つのはイーライ。
いつも理性的で、
感情を表に出すことなどほとんどない青年。
だがーー。
「・・・ほう」
リチャードは、イーライの“目”に気づいて眉を上げた。
熱があった。
知らぬ間に芽吹いていた火が、小さく、しかし確かに燃えている。
本人は気づいていないのだろう。
だが、隠せてはいない。
「なるほど、ね・・・」
低く笑みをこぼし、リチャードは腕を組んだ。
サムが馬を引きながら声をかける。
「海までは、三十分ほど走れば到着いたします」
ユウはひらりと馬に跨がった。
鞍を握る指先は迷いなく、
身を低くして鞭を打つと、真紅のコートが朝の空気を裂いた。
「おお・・・」
リチャードは思わず口笛を鳴らす。
その背に、もはや“姫”の影はなかった。
風を従え、大地を駆ける旗印のようだった。
城門を抜けると、冬の海風が城下へ吹き込み、潮の香りがふわりと漂った。
「この匂いは?」
ユウが振り返る。
すぐ後ろを守るように寄り添うシュリ、そのさらに後ろで馬を操るイーライ。
「海の匂いです」
イーライの声は、不思議なほど柔らかかった。
「これが・・・海の匂い」
ユウの瞳が小さく揺れた。
初めて城の外に出て、
初めて世界の広さを知る少女のまなざし。
イーライはその横顔から目が離せなかった。
ほんの一瞬の光も、見逃したくなかった。
「ユウ様。潮が満ちれば船の出入りが増えます。
今なら、軍船と堺船が揃って見られましょう」
説明しながらも、
彼自身、自分の声がどこか熱を帯びていることに気づいていない。
ユウは満足そうに頷き、馬腹を軽く蹴った。
丘を下りきったその瞬間──視界が突然大きく開けた。
「・・・あ・・・」
ユウの馬が、自然と歩みを止める。
果てを知らない巨大な青。
湖とも川とも違う。
空を映し、空へ溶け込みながら続いていく、世界の端のような青。
波が光を砕き、寄せては返す。
「これが・・・海」
ユウの声は、風に溶けていった。
真紅の外套と金の髪が潮風に揺れ、
まるで海が彼女を歓迎しているかのようだった。
その姿を、
シュリは息を呑みながら、
イーライは胸を軋ませながら見つめていた。
サムは静かに馬の首を撫で、ぽつりとつぶやいた。
「・・・まるで、旗印だ」
そして思う。
二年前、この娘はただの少女だった。
だがいま、
真紅の外套をまとい、海風に立つ姿は──
母シリとも違う。
叔父ゼンシとも違う。
新しい時代の中心に立つ者の姿だった。
ユウは海を見つめたまま動かなかった。
ただその背に、ふたつの視線だけが静かに重なっていた。
潮騒の中、淡い冬日がひらけていった。
※ユウが纏う赤いコートは、母・シリのものです。
その象徴的な場面は、処女作 第115話
「争いができない理由」に描かれています。
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次回ーー明日の20時20分
真紅のコートを翻し、
ユウは初めて“海”の前に立つ。
胸に浮かぶのは、
帰らなかった者の約束と、
今も隣にいる者の温もり。
そして――
少し離れた場所で、
触れることも許されぬ想いを抱え、
イーライはただ見つめていた。
三つの視線が、静かに交差し始める。
もう誰にも止められない。




