秘めた心は、気づかぬうちに
◇ サカイ城 ユウの部屋
カチッ。
部屋の扉についた小窓が、ふたたびわずかに開いた。
「姉上!」
弾む声とともに、ウイが嬉しそうな顔で部屋へ飛び込んでくる。
だが、ユウのそばに控えるイーライの姿を目にした瞬間、
その足がぴたりと止まった。
レイが静かに続き、控えめに問いかける。
「・・・お邪魔でしたか?」
ユウ・シュリ・イーライ。
この三人の間には、ウイたちが踏み込めない温度があった。
「そんなことはないわ。入って、ふたりとも」
ユウが柔らかく微笑む。
だがウイは、その微笑みの奥にある距離を悟った。
姉が“領主の娘”として扱われるたびに増えた影。
自分とは違う世界へ、少しずつ歩いていく気配。
帰ろうと体を引いた瞬間、
「本日のお菓子は、アップルパイでございます」
イーライの声が、ふたりの間を静かに通った。
「えっ!」
ウイは一瞬で顔を輝かせる。
レイは横目でその様子を見てから、淡々とバルコニー脇の椅子を指した。
「あそこで、私たちはいただくわ」
「かしこまりました」
イーライは深々と頭を下げた。
◆
しばらくして、イーライは整えたティーセットを載せて戻ってきた。
ウイとレイの前にそっと置かれたカップは、同じ紅茶のはずなのに色合いが違う。
レイが眉をひそめる。
「・・・これは?」
「ウイ様はクリームと砂糖を多めに。
レイ様は砂糖なし、クリーム多め。それから少しだけ冷ましております」
淡々と告げる声に、ウイは目を丸くし、レイは舌を巻いた。
レイは流れるような美しい所作のイーライを見つめた。
客として数度しか顔を合わせていないのに、
ふたりの嗜好を正確に把握し、忘れない。
この青年にキヨが深い信頼を寄せる理由が、
わずかな会話だけでも理解できるようだった。
だが。
レイの冷静な視線は、
ユウ・シュリ・イーライの三角を静かになぞった。
表情は変わらない。
けれどイーライの黒い瞳の奥が、ほんの一瞬だけ揺れた。
ーーあの人は。姉上のことを、ますます・・・。
そしてレイは、湯気の立つカップを静かに持ち上げながら、
ひとり心の中で続けた。
ーーあれはもう・・・ただの忠誠ではない。
そう直感するほどの“間”が、確かにあった。
イーライが小皿に載せたアップルパイを二人の前へそっと置いた。
「えっ・・・いいの?」
ウイの顔がぱっと明るくなり、
一口かじった瞬間、目をまん丸にして頬をほころばせた。
「おいしい・・・! すごい・・・!」
ほわっとした甘い香りがバルコニーの空気に広がり、
ウイは幸せそうに足をぱたぱた揺らしている。
その横でレイは、イーライの視線だけを追っていた。
ユウのそばに立つシュリ。
その横顔は、いつもと変わらず静かで、
感情を表へ出さないはずだった。
けれどーー
ほんの少しだけ、
ユウの背中を追うように揺れたまなざしがあった。
羨望とも、痛みともつかない光。
そして、ユウの瞳はイーライには信頼を。
シュリには甘えが滲んでいた。
気づかぬ者にはただの陰影。
しかし、レイには分かった。
姉のそばに誰が立つのか。
姉が誰を見て、誰が姉を見ているのか。
レイの黒い瞳は、静かに三人の間をなぞった。
イーライの深い想い。
シュリの押し殺した願い。
そして、ユウの揺れる心。
ーー姉上をめぐる想いは、もう一つではなくなっているのね。
レイは、誰にも悟られぬように、そっとカップに口をつけた。
甘いアップルパイの香りの中で、
たった一人だけ、レイは静かに気づいていた。
姉上をめぐる想いは、すでに誰にもほどくことのできない形を取りつつあるーーと。
◇
「イーライ、あの男は、これから、どこを攻めるつもりなの?」
ユウは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで問いかけた。
「キヨ様は、まず南西領、続けて南領の攻略をお考えです」
「そんなところを・・・?」
「国王となるには、八割以上の領土支配が必要にございます」
ユウは壁の地図へ視線を移した。
指先が山脈の境界をなぞる。
「今、あの男が手に入れていない土地は――南、南西、そしてジュン様の西領だけ」
「さすがでございます、ユウ様」
イーライは静かに頭を下げた。
その横で、シュリが控えめに口を開いた。
「イーライ様・・・ジュン様は東領とも同盟を組んだとか」
「はい。ジュン様は手強い相手。となれば、
まだ勝機のある南西・南を先に落とすのが、もっとも理にかなっております」
「・・・勝てば、あの男が国を治めるのね」
悔しさが滲む声。
ユウの唇がきゅっと噛みしめられた。
「はっ。すでに私とサム様を中心に、
“国王になるための準備”も着々と進められております」
イーライの淡々とした報告が、ユウの胸にさらに重く落ちた。
◇
テラス席。
窓越しに差しこむ冬の光の中で、
ウイがアップルパイを頬張りながらぽつりと呟いた。
「あの三人の話って、難しいでしょ?」
隣の椅子に座ったレイが、
スプーンを口に運びながら静かに答える。
「難しいというより・・・別の世界の話ね。
領地のこと、争いのこと、攻める先のこと。
普通の女性は、ああいう会話にはならないわ」
ウイは頬をぷくりと膨らませた。
「姉上は変わっているわ。まるで昔の母上のよう」
レイはパイの皿を見つめ、静かに息をついた。
「姉上は“立つ場所”が変わっただけ」
そして、視線をユウたちの方へ向ける。
イーライの報告に耳を傾けるユウ。
その表情には幼さが消え、しなやかな緊張が宿っていた。
その横顔は、亡き母の面影を宿していた。
隣には、
どこまでも落ち着いた眼差しでユウを見守るシュリ。
その二人を、少し距離を置きながら支えるように座るイーライ。
三人の間には、誰も割り込めない空気があった。
レイの黒い瞳がわずかに揺れる。
「・・・あの三人は、これからもっと遠くへ行くわ。
政治のことも、戦のことも、私たちよりずっと深い場所で話すようになる」
ウイはスプーンを止め、ぽつりと漏らした。
「・・・なんだか、姉上が遠くなった気がする」
レイは黙って頷いた。
◇
「・・・南西領には、兵たちは、どうやって向かうのですか?」
シュリが遠慮がちに尋ねると、イーライは迷わず答えた。
「船で参れば、南西領には六時間ほどで到着いたします」
「船・・・!」
ユウは思わず声を上げる。
「はっ。ゆえに私は、造船と船団の準備を一年前から進めておりました」
「船は・・・どのくらい?」
「四隻ほど」
その言葉に、ユウは息をひそめた。
地図の端に描かれた海路が、
まるで静かに彼女へ迫る未来の影のように見えた。
「四隻・・・」
ユウは地図を見つめたまま、小さく息を吸い込んだ。
青く塗られた海路の線が、
まるで未来へ伸びる一本の刃のように見えた。
しばらく沈黙が落ちたあと、ユウはふいに顔を上げた。
「その船を、見てみたいわ」
声は静かだったが、その奥にある熱は隠せていなかった。
イーライが瞬きをする。
「・・・船、でございますか?」
「ええ」
ユウは迷いなく続けた。
「私は“確かめたい”の。
あの男がどんな道を選び、この国に何を強いるつもりなのか。
自分の目で見なければ、きっと後悔する」
その一言に、先ほどまでの少女らしい揺れはなかった。
未来に責任を持とうとする者の横顔だった。
イーライは返答までに、一拍だけ間を置いた。
ーー危険だ。
ーーお連れしたくない。
ーーだが、止めることもできない。
その一拍に、胸の奥で揺れた迷いがすべて凝縮されていた。
静かに目を伏せる。
「承知いたしました。
ただ、船場は風も強く、足元も悪い場所。
ユウ様には・・・決して、危険のないように」
声音は側近としてのものだった。
だが滲んだのは、“ひとりの男としての心配”だった。
ユウはそんな彼の揺れに気づかぬまま、まっすぐに言った。
「海を見たことがないの。だから、一度、私の目で見ておきたい」
その言葉に、イーライの胸がわずかに疼いた。
ユウの望む未来を、
自分の手で叶えられるのなら――
そう思ってしまう自分に、ひどく戸惑いながら。
「・・・必ず、お見せできるように動きます」
その言葉は、職務だけのものではなかった。
次回ーー本日の20時20分
真紅の外套を纏い、
ユウは初めて城の外へ踏み出した。
母の面影を宿すその姿は、
もはや“姫”ではなく――
人の視線を集め、風を従える旗印。
海を前に立つユウを、
シュリは息を呑み、
イーライは胸の奥の熱を隠せずに見つめていた。
少女は、世界の広さを知り、
想いは、もう後戻りできない場所へ進み始める。




