去年の続きがほしいの
キヨたちが去り、扉が静かに閉まった。
残されたのは、微かに漂う紅の香りと、
壁に新しくかけられた大きな地図だけだった。
ユウはゆっくりと顔を上げ、
まるで引き寄せられるように地図を見つめてしまう。
「・・・いやだ」
息の混じった声が、ひどく弱い。
ユウは両の手を握りしめ、指先が白くなるほど力を込めた。
ーーあの男の贈り物で、心が動くなんて。
怒りにも似た感情が胸を刺す。
母の名を好き勝手に語り、家族を壊した男の贈り物だというのに――
それでも、目が離れない。
「・・・私は、弱いわね」
その小さな呟きは、淡く震えていた。
ヨシノが心配そうに近づきかけたが、ユウはそっと首を振った。
視線をテーブルへ向ける。
豪奢な紅入れが六つ並んでいた。
「ヨシノ、これをウイとレイの部屋へ持って行って」
「え・・・?」
驚きに目を瞬かせるヨシノ。
「ヨシノも、乳母たちと好きなものを選んでいいわ」
ヨシノの顔がぱっと明るくなる。
だが、ひと呼吸置いて問い返した。
「ユウ様は、お選びにならなくてよろしいのですか?」
「私はいいの。残ったもので」
「承知しました。ありがとうございます」
嬉しそうに微笑んで、ヨシノは部屋を出ていった。
扉が閉じると、空気が張りつめたように静まり返る。
残されたのは、ユウとシュリだけだった。
「今日は朝から・・・頑張りましたね」
乱れたユウの気持ちをそっと撫でるように、
シュリは静かに声をかけた。
ユウは答えず、すっと立ち上がる。
テラス越しに見える庭へ視線を向けると、
白い雪が、音もなく舞い落ちていた。
「今日は私の誕生日なの」
ぽつりと落とされた言葉に、シュリは瞬きをする。
「おめでとうございます」
そう告げると、返ってきたのは沈黙だった。
ユウは雪の向こうを見つめたまま、小さな声で続けた。
「・・・誕生日だから」
ーー言うのなら、今しかない。
その躊躇いを孕んだ気配に、シュリの胸がゆっくりと高鳴る。
やがて、ユウは決意を振り絞るように言った。
「去年と・・・同じものが欲しいの」
「・・・え?」
思わず声が上ずった。
昨年の誕生日。
ユウはシュリに、ひとつだけ願った。
ーー口づけをしてほしい、と。
あれは、特別な一度きりの出来事だと思っていた。
まさか、今年も。
いや、してもいいのだろうか。
望んでいいのだろうか。
胸の奥で、わずかな戸惑いと熱が入り混じる。
言葉を口にした瞬間、ユウの肩が、微かに震えた。
ユウは、息を詰めるように視線を落とす。
「本当は・・・言うつもりなんてなかったのに」
言葉にすると、自分の弱さまで露わになる気がして怖かった。
ユウは唇を噛みしめ、指先をぎゅっと握りしめた。
「・・・あの男に会った後だから・・・なおさら」
頼るような声音だったが、誇り高い彼女が許したのは、ほんの一瞬だけ。
その一瞬こそが、
彼女がどれほど勇気を振り絞ったかを物語っていた。
シュリは震えるユウの後ろ姿をじっと見つめていた。
雪明かりが差し込み、ユウの首筋から耳へとかけて、
恥じらいの赤が淡く灯っている。
シュリは息を整え、
ゆっくりと近づき、背中へ触れる寸前で指先を止めた。
ーー拒まれるかもしれない。
それでも、それを恐れてはいけない気がした。
そっと、腕を回して背後からユウを抱きしめた。
「・・・ユウ様」
抱き寄せた瞬間、ユウの身体がぴくりと強張る。
けれど離れようとはしなかった。
シュリの吐息が、白い首筋にそっと触れる。
そのたびにユウの肩がかすかに震え、
結い上げた髪の下で、肌がひどく繊細に見えた。
「去年と・・・同じものが欲しいのですね」
ユウは答えられず、喉だけが小さく動いた。
シュリは、震える声でつづける。
「・・・では、失礼いたします」
首筋に軽く、触れる。
それなのにユウは、思いもよらないほど柔らかい声を漏らした。
「あ・・・っ」
自分の声に驚いたのか、ユウは肩をすくめた。
シュリは腕の力を少しだけ強め、
今度は迷わず、首筋へもう一度触れる。
たとえば雪が、静かに花びらへ触れるように。
ユウの身体が微細に震え、指先が胸元でぎゅっと布をつかむ。
「ユウ様・・・」
名前を呼ぶ声は、いつになく掠れていた。
胸の奥に隠し続けてきた想いが、
その一言にすべて滲んでしまいそうだった。
シュリの顔は、ゆっくりとユウの耳元まで上がってきた。
ユウから立ち昇る甘い香りに、
シュリの胸はきゅうと締め付けられた。
ただ、その温度に触れたくて、衝動のままに顔を寄せる。
触れた場所からユウが小さく息をのむたび、シュリの心も揺れた。
「・・・シュリ」
震える声で名を呼ばれ、ユウがほんのわずか振り返る。
近すぎる距離で目が合ってしまった。
赤く染まった頬。
潤んだまなざし。
まるで何かを求めるような、弱い呼吸。
「はい」
声が掠れ、喉が動く。
ユウは目を伏せ、か細い声で言った。
「・・・去年の、続きがほしいの」
雪明かりに照らされた横顔が、恥ずかしさに震えている。
その瞬間、もう抑えられなかった。
シュリはユウを抱き寄せ、迷うことなく唇を重ねた。
ユウが小さく息をのむ。
その震えが胸元に伝わる。
息が続かなくなり、ふたりはゆっくりと唇を離した。
額を、そっと触れ合わせる。
わずかな温度の交わりだけで、呼吸が混じり合った。
「・・・お誕生日、おめでとうございます」
掠れるほど低い声。
炎のように熱い眼差し。
ユウは泣きそうな顔で、小さくうなずいた。
その仕草に胸が締めつけられ、シュリの指先がわずかに震えた。
そして――
短い静寂のあと。
ふたりは、再び唇を重ねた。
今度は、ためらいのない、確かな温度で。
ふたりの影を、窓の外の雪が静かに縁取っていた。
幼いころから同じ庭で遊び、
同じ廊下を駆け、
同じ絶望を越えてきた二人は――いつの間にか背が伸び、恋を覚えた。
抱き合うその姿は、もう子どものそれではなかった。
ユウはそっとシュリの胸に顔を寄せた。
胸の奥で、なにかが静かに崩れ、
そして新しい形へと変わっていくのを、自分でも感じていた。
ユウの胸の奥でふと、ヨシノが言った言葉が蘇った。
ーー女が悦びを知れば、男の子が授かる。
迷信だと思っていたけれど、今はなぜか胸に刺さる。
ーーもし、シュリが夫なら。
シュリの顔が首筋に触れたとき、
言葉では説明できない感情が胸の奥で揺れた。
あの迷信が脳裏をかすめる。
“心から求め合えば、強い男児を授かる”ーーと。
ほんの一瞬、ありえない未来が浮かびかけた。
ユウは慌てるようにその想像を押し消す。
それだけは、いちばん強く否定しなければならなかった。
ユウは、揺らぐ心を押し戻すように、シュリの胸元でぎゅっと目を閉じた。
「・・・もう、子どものままでいられないのね」
吐き出された声は小さく、しかし、それだけで十分だった。
覚悟と、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。
雪明かりがユウの横顔を照らす。
そこには、ほんの数刻前まで確かにあった
“少女らしさ”の影はもう見えなかった。
シュリは言葉を返さず、ただその肩を強く抱きしめる。
ユウが口にした一言が、
どれほど重い意味を持つかを理解していたからだ。
ユウは小さく息を吸い、目を閉じた。
まるで――
少女として生きてきた時間に、静かに別れを告げるかのように。
雪は止むことなく舞い続け、
窓越しの二人の姿を、そっと世界から切り離していた。
◆第四章・了
少女としての時間に別れを告げ、
ユウは静かに「選ばれる側」へと歩み始めました。
次章・第五章
「選ばれる準備」
ユウはさらに大人へと近づき、
シュリ、そしてイーライとの距離が、否応なく縮まっていきます。
感情と立場が絡み合う、避けられない章です。
ここまで読んでくださった方へ、心からの感謝を。
もし少しでも物語に心が動いたなら、
ブックマークやフォローで続きを見守っていただけると励みになります。
次章も、どうぞお付き合いください。
次回ーー明日の20時20時
「あなたの“血”が欲しいの」
メアリーの言葉は、ユウを“姫”ではなく
“選ばれる存在”として突きつけた。
その傍らで、シュリは痛みを隠し、
イーライは静かな嫉妬を胸に沈める。
静かに、だが確実に、関係が軋み始める。




