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影の男が見た微かな光

ユウの部屋には、紅の香りがほのかに残っていた。


キヨが持参した豪華な紅入れが、テーブルの上で静かに光を吸っている。


ヨシノはまだ興奮が抜けない様子で紅入れを見つめ、

シュリはユウの横顔を気遣うように見ていた。


しかしユウ本人の表情に、喜びの色はまったくない。


ーーこの男の手から渡されたものなど、触れたくもない。


喉の奥に貼りつく苦味を押し殺しながらも、

ユウは礼だけは崩さない。


キヨは、そんなユウの反応にまだ戸惑いを残していた。


ーー「紅が喜ばれる」と確信したのに。


多くの女が喜ぶものを、目の前の少女は喜ばない。


イーライは、主とユウのふたりの表情を交互に見つめた。


長年仕えてきた経験が告げている。


ーー次の贈り物こそが、本命だ。


そして、ユウ様が本当に望んでいるものでもある。


静かに前へ進み出るイーライに、キヨもようやく気づいた。


「・・・イーライ。残りのものを」

促され、イーライはワゴンの下へと手を伸ばした。


包みを開いた瞬間――ユウの指がぴたりと止まった。


中から現れたのは、

丁寧に額装された一枚の大きな地図だった。


「地図!」

その声には、抑えきれぬ高まりが、ほんの僅かに混じった。


その“ほんの少しの震え”を、キヨはまるで恋情のように受け取った。


――自分に心を開き始めたのだ、と。


ユウの指先は、地図に触れた瞬間わずかに震えた。


ーーずっと、欲しかった。


けれどその熱は、すぐに刺すような痛みに変わった。


よりにもよって、この地図を与えたのは、両親の運命を歪めた男だ。


どうして、この男から渡されなければならないの。


嬉しさを覚えてしまった自分が、許せなかった。



そんなユウを見て、イーライは僅かに口角を上げた。


ーーやはり、喜ばれた。


イーライの胸に、静かに温かいものが広がる。


ユウが地図を見つめた横顔に、胸が不意に熱くなる。


ーーあぁ、まただ。


自分の心の在りかを、認めたくないほどはっきりと示される。


ユウは、彼の視線に気づいた途端、肩に力が入った。


そして、感情を読まれまいとするように、そっと顔を背けた。


イーライは、誰よりも静かに、誰よりも人の心を見抜く。


キヨの側近であるイーライに見られれば、

“弱さ”まで見透かされてしまう気がした。


ーー地図を欲しかったなんて、誰にも知られたくない。


キヨは、ユウの表情を見つめて惚けていた。


イーライは軽く咳払いをして、キヨの注意を引く。


そして、"話せ”とばかりにキヨを見やる。


促されたキヨは、しどろもどろになりながら言葉を紡いだ。


「ユウ様は・・・その・・・

この国の全体像を、知りたいと思うておるのでは、と・・・」


語尾が弱い。


戦と女事には強いキヨも、

ユウが喜ぶ贈り物となるとまったく自信が持てないのだ。


地図など女が喜ぶはずがない――そう思いながら選んだ贈り物だった。


ユウはしばらく息をひそめたまま地図を凝視していたが、

ハッとしたように顔を上げた。


複雑な光がその瞳に揺れている。


ーー嫌い抜いている男の贈り物で喜ぶのは悔しい。


それでも――地図は本当に欲しかった。


胸の奥にふたつの感情が衝突するのが、見て分かるほどだった。


そんなユウに、イーライが穏やかに声をかける。


「ユウ様。この地図は、あちらの壁にお掛けいたしましょうか」


ユウがいつも座って考えごとをするソファの向かい。


彼女にとって一番見やすい位置だ。


ユウはほんのわずか迷い――それから頷いた。


「・・・そうね」


イーライが手早く家臣を呼び、額は丁寧に壁へと取り付けられた。


まるで、最初から準備をしているような段取りの良さだった。


その光景を見ていたシュリが確信をした。


ーーこの贈り物をキヨに進言したのは、イーライだと。


ユウ様の好みや思考を知り尽くしてなければ、

女性に地図の贈り物という発想はないだろう。


部屋の隅にいたシュリと、

額の手配をしていたイーライは一瞬目があい、そして静かに目を逸らした。


取り付けられた地図を見て、ユウは瞳は少しだけ輝いた。


「ありがとうございます」


ユウはそっぽを向いて言ったが、

その声には抑えきれない喜びの色が微かに滲んでいた。


その表情を見て、キヨの顔は緩みきってしまう。


「そろそろお時間でございます」

イーライが静かに告げる。


「うむ。・・・いやはや、朝から愉快な時間であった」

キヨは満足そうに立ち上がり、改めてユウを見つめた。


ユウは俯き、礼だけを返す。


視線は合わせない。


けれど――


壁にかけられた地図を見つめるユウの瞳は、どこか嬉しげに揺れていた。


その揺らぎに気づいたのは、ただひとり、イーライだけだった。



廊下を歩きながら、キヨは機嫌の良い声で言った。


「イーライ。・・・お主の進言は見事だったぞ」


「はっ」


イーライは静かに頭を下げる。


足音が一定に響き、黒い衣がふわりと揺れた。


「紅よりも、まさか地図で喜ぶとはな・・・」

キヨは肩をすくめ、半ば呆れたように笑った。


「予想外じゃったわ。女というものは、もっと・・・飾り立てるものが好きなのかと思うておった」


「左様でございますか」

イーライの返答は淡々としていたが、胸の奥にかすかな痛みが走る。


――ユウ様が何を欲しているかくらい、本当は、誰より分かっている。


だが、その理解を手にするのは自分ではない。


「ユウ様の顔が綻ぶのを初めて見たわ」

キヨは嬉しそうに言った。


イーライは静かに目を伏せた。


ーーあれを“綻び”と呼ぶのか。


ユウの表情の変化は、ほんの心の震えほど微細だった。


それを喜びと捉えるキヨの鈍さが、痛ましくも、羨ましくもあった。


「これからも、ユウ様が望むものを教えてくれ」

キヨが満足げに言う。


「はっ」

イーライは深く頭を下げた。


キヨを送り出したあと、

イーライは廊下の片隅でそっと息をついた。


胸の奥のどこかが、

地図の額を見上げていたユウの横顔を思い出し、鈍く痛んだ。


ーー望んではいけないと分かっている。


それでも――胸があの方へ傾くのを、もう止められなかった。


自分は何を願っているのか。


その問いを認めた瞬間、心が崩れる気がした。


イーライは首を振った。


「・・・私は、あの方の望みを叶える影にすぎぬ」

誰に聞かせるわけでもなく、小さく呟く。


だが手は、まだ地図の重さを忘れていなかった。


影であるはずの男の指先が、ほんのわずかに震えた。


そのとき黒い礼服の胸元で、

隠れていた細い深紅の糸がふっと光を返した。


胸の奥に秘めているものだけが、

わずかに外へ滲んだような一瞬だった。


次回ーー明日の20時20分

紅には心を動かさなかった。

けれど、地図と――

たった一人に向けた願いだけは、抑えられなかった。


「去年の、続きがほしいの」


雪の夜、

少女でいられなくなる境界線を、

ユウは静かに越える。


それは慰めでも、逃げでもない。

選んだのは――“想ってしまった心”そのものだった。

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