この男に負けない
「キヨ様がお着きになりました」
部屋にイーライの声が響き、ユウの肩がわずかに震えた。
空気が、ぴん、と凍りつく。
逃げられない現実が、足音もなく部屋の前まで来ている。
ヨシノは振り返り、静かに言う。
「・・・ユウ様。キヨ様が、お祝いのためお越しです」
ユウは唇を噛み、けれど、ゆっくりと立ち上がった。
「・・・ええ。わかったわ」
見つめるシュリの胸が、どうしようもなく痛んだ。
扉が静かに開き、キヨが部屋へ足を踏み入れた。
その瞬間、
彼は“年頃の娘の部屋”に漂う清らかな気配に、ほんの一拍だけ動きを止めた。
そして窓際に立つユウの姿を目にし、わずかに息を呑む。
淡い赤の布地。
結い上げられた髪。
朝の光に浮かぶ細い首筋。
昨夜まで幼さを宿していた少女が、今はまるで別人のように立っている。
「・・・ユウ様」
呼びかける声は、
まもなく国王になる男のものでも、老いた父のものでもなかった。
ただの“ひとりの男”の声だった。
ユウは少しだけ顎を上げ、まっすぐキヨを見つめ返す。
――負けない。この男に、私は決して負けない。
覚悟の宿る瞳だった。
キヨは無意識のまま一歩近づき、低く息を呑む。
「なんと・・・綺麗な」
ユウの眉が、わずかに動いた。
「その色・・・よう似合うておる」
ユウは何も返さない。
沈黙が、かえって美しさを際立たせていた。
キヨは見惚れたまま、言葉をつなぐ。
「ユウ様は、雪の光によく映える。
肌が若木の白さのようじゃ。光を浴びて・・・まるで花のようだ」
言葉が止まらない。
子どものように顔をほころばせる。
「こんな歳になっても、わしにもまだ・・・こんな気持ちが残っておるとはのう」
しばしの沈黙。
ユウはわずかに唇を開いた。
「・・・過分なるお言葉。
私は、キヨ様の御心に添わぬことのほうが多いです」
ユウが冷ややかに告げたにもかかわらず――
キヨは、その冷たさを“恥じらい”だと本気で解釈した。
まるで疑いもしない。
キヨは膝を叩き、満面の笑みを見せた。
「よう言うた!ユウ様は、ユウ様のままで良い!
その気高さが・・・たまらぬほど良い」
ユウは怪訝な顔をした。
嫌っているのに、距離を置いているのに――この男には届かない。
「イーライ、茶を頼む」
キヨは上機嫌のまま椅子に腰を下ろした。
その場に控えていたイーライは、
ふたりのやり取りを静かに見つめていた。
ユウの張りつめた表情。
怯えと憎しみの混じるその瞳。
そして、あまりに美しい立ち姿。
胸の奥のどこかが、ゆっくりと締めつけられる。
――綺麗だ。似合っておられる。
そう思うことすら、声にすればあふれ出しそうで、
イーライはただまぶたの裏で押しとどめた。
無言のまま、静かに茶器の準備に取りかかる。
けれど、手元に落ちる影は、誰より深く揺れていた。
イーライが静かに一歩進み出て、
低く丁寧な仕草でティーカップを差し出した。
「・・・どうぞ」
その声音は平静を装っているのに、
差し出す先――ユウへの視線だけは、かすかに揺れていた。
ユウは諦めたように椅子に腰を下ろし、カップを手にして唇を寄せる。
温い液体が喉を通る感覚だけが、今の自分をかろうじて支えていた。
その時、キヨが満足げに呟く。
「・・・しかし、血というものは嘘をつかぬな」
ユウは静かにカップを置いた。
「・・・なんでしょうか」
問いながらも声は冷ややかで、近寄るなと刺すような鋭さがあった。
キヨは照れるように、しかし嬉しそうに笑う。
「よう似ておる」
「・・・誰に、でございますか」
ほんの少し、ユウの声が震えた。
それは警戒と嫌悪の混じる、低く鋭い響きだった。
キヨの返答は、迷いも遠慮もなかった。
「シリ様に、じゃ」
瞬間、部屋の空気が、一気に冷えた。
空気が一気に冷えたのに、キヨだけはまるで気づかない。
むしろ、
ユウが黙ったことを“感激している”のだと勝手に解釈していた。
イーライの手がかすかに止まり、持っていたポットがわずかに揺れる。
ユウのまぶたが、ゆっくりと伏せられた。
その瞬間、背後に控えるイーライの表情がほんのわずかに揺れた。
いつも通りの無表情。
だが、その目だけがかすかに震えていた。
怒りでも、哀しみでもない。
“忠臣の仮面”の下に押し込めた何かが、わずかに滲み出ていた。
「それですか」
その声は、雪を踏みつけたように冷たかった。
ユウは、置いたティーカップが微かに音を立てた。
抑え込んだ怒りが、そこに滲んでいた。
キヨはその冷気に気づき、慌てて首を振る。
「ち、違うぞ。軽々しい気持ちでは、断じてない。
わしは・・・シリ様に憧れていたのだ」
ユウの胸に、ざらりとした痛みが走った。
母の名は――誇りであり、痛みであり、封じた記憶でもあった。
その名を、この男の口に乗せられるのが我慢ならなかった。
けれどキヨは、そんな感情など知らぬまま続ける。
「気高く、強く・・・そして、あれほどの美しさを持つ姫君など他にはおらぬ。
ユウ様の立ち姿、目の光、時折の静けさ・・・どれも、シリ様を思い出させるのだ」
ユウは返事をしない。
否定することさえ、したくなかった。
ただそのまま、じっとキヨを見つめ返す。
キヨは、遠い昔を語るように続ける。
「わしがゼンシ様に仕えていたころ・・・シリ様を、ただ遠くから眺めておった。
心の内で想うだけで、それ以上は望まなんだ。それほど・・・眩しいお方であった」
ユウの指先が微かに震える。
ーー何を言っている。
心の底で怒りが、静かに膨れた。
自分の父を奪い、母を追いつめ、その末に破滅させた男が、
今、その娘に向かって「憧れていた」などと言っている。
吐き気がするほどの矛盾。
しかしユウは、唇を噛みしめて押し殺した。
「・・・私は、母とは違います」
キヨは、ゆっくりと頷いた。
「あぁ。違う。だが・・・似ておるのだ。わしには、それが何より嬉しい」
ユウは視線を落とした。
胸の奥で、冷たいものがざらりと逆立つ。
ユウは、それを悟らせまいと静かにまぶたを伏せた。
何か言えば、怒りが形になる気がした。
その時――
キヨが前屈みに身体を傾けた。
ーー近い。
反射的にユウは、背をわずかに反らせる。
「ユウ様・・・」
低く、甘い声。
「確かに似ておるが、その眼差しは・・・シリ様より鋭い」
ユウの肩がびくりと揺れた。
キヨは続ける。
「・・・わしは、その強さも・・・好きじゃ」
その言葉を聞いた瞬間、
ユウの背中で見守っていたイーライの拳が、音もなく強く握りしめられた。
胸の奥で、焼けつくような痛みが走る。
――言うな。
言うな。
ユウ様に向かって、その言葉を。
だがイーライは、表情ひとつ変えない。
忠臣の仮面をかぶったまま、ただ静かにワゴンの影に溶けていた。
「今日はユウ様に、祝いの品を持ってきた」
満足げに頷くキヨの合図で、
イーライがワゴンの下へ静かに手を伸ばした。
慎重に包みを取り出し、布をめくると――
掌に収まるほどの、深紅の紅入れが姿を現した。
蓋には繊細な花の刺繍。
留め具には、小さな宝石のような赤い石が煌めき、
朝の光を跳ね返してひっそりと輝いた。
「まぁ・・・!」
ヨシノが思わず声を上げた。
それはミヤビの名工が手がけた品。
「この国で一番良い紅」と呼び声高い逸品だった。
「十六になられた祝いに・・・これ以上のものは無いじゃろうて。
ユウ様の唇には、きっとよう映える」
キヨは得意げに胸を張った。
ーーこの男の手の温度が移ったものを、触れたくない。
そう思いながらも、ユウは静かに受け取り、無表情のまま蓋を開けた。
内側には磨かれた銀鏡、
その下には熟れた果実のように濃い紅をたたえた紅皿。
誰が見ても豪華で、美しい。
けれどユウは、深々と頭を下げただけで、その紅入れをテーブルにそっと置いた。
ほんのわずか、置く指の力が強くなる。
抑えきれない拒絶が、そこに沈んでいた。
まるで、興味など微塵もないというように。
キヨの顔に、心底驚いた色が浮かぶ。
「・・・気に入らなかったか?まだ、他にもいっぱいあるぞ!」
慌てたように、もう一つの包みを豪快に開く。
そこには――
趣の異なる五つの紅入れがずらりと並んでいた。
あまりの数に、ヨシノが目を丸くする。
しかしユウは涼しい顔で言った。
「・・・私の唇はひとつですので」
淡々とした声音。
その言葉に、キヨは一瞬きょとんとしたが、すぐに機嫌を持ち直して笑った。
「それならば・・・妹御や、乳母たちに下げればよい」
その瞬間――ユウの表情が、わずかに緩んだ。
ヨシノが目を輝かせているのが見えたのだろう。
ユウは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
キヨは、なぜそこだけ反応があるのか分からず、
困惑したようにイーライへ視線を送った。
イーライは小さくうなずく。
その表情には、安堵と苦味が入り混じっていた。
「キヨ様は、もう一つ贈り物を用意しております」
そう告げて、ワゴンの下に隠していた大きな包みをゆっくりと差し出した。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
次回ーー本日の20時20分
紅には心を動かさなかったユウが、
差し出された贈り物にほんの一瞬だけ表情を揺らした。
それを見抜いたのは、ただ一人――イーライ。
望んではならない想いと、叶えてしまった贈り物。
静かな部屋で、三つの心がすれ違い始める。




