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大人になる瞬間、君は他の男に奪われる

翌朝、ユウが目を覚ますと――

部屋は、いつもよりも深い静けさに包まれていた。


胸がざわめき、ユウは寝台を降りてテラスの窓へと歩み寄った。


「・・・雪」


呟いた声は、白い朝に吸い込まれていく。


庭一面が薄く雪に覆われ、まだ踏み跡ひとつない。


「やはり、ユウ様のお誕生日は雪ですね」

後ろからヨシノの柔らかな声がした。


ユウが振り返ると、ヨシノはいつものように微笑みながら、

梳き櫛を手にユウの方へと歩み寄ってくる。


ユウが椅子に腰を下ろすと、

ヨシノの手つきは静かに、丁寧に髪を梳き始めた。


白い外の世界と、梳かれる髪の音。


二つが重なって、どこか遠い日の記憶のように感じられた。


「今日は・・・お誕生日ですから」

ヨシノの声が少しだけ優しくなる。


「髪を上げましょう。十六になられた記念に。きっと、とてもお似合いになります」


その言葉に、ユウの胸が小さく跳ねた。


十六になるということ。

髪を上げるということ。


それはただの支度ではなく、“少女ではなくなる”日を意味する。


雪は静かに降り続け、

ユウの背に触れるヨシノの指先もまた、いつもより慎重だった。


「いかがでしょうか」

ヨシノが満足げに問いかけた。


鏡に映るのは、

少し高めの位置で束ねられた、若い娘らしい結い上げ。


上げすぎれば大人びてしまうし、

下げすぎれば幼く見える――その中間を、見事に射抜いた絶妙な高さだった。


束ねた根元には、

髪をふわりとひねりながらまとめた柔らかな“結い”があり、

その曲線が、後頭部にそっと影を落としている。


そして、髪を上げたことであらわになった首筋。


白くて、細くて、

普段は決して外気に触れさせないその場所が、あらわになっていた。


髪を上げた自分を鏡で見つめると、

そこには“もう子どもではいられない姿”があった。


その事実に、胸の奥がひどく冷たくなる。


「今日はこちらの赤いドレスにしましょう」


ヨシノは、迷いなく淡い赤のドレスを取り出した。


それは二年前――

まだユウが幼さを残していた頃、

義父ゴロクが「この色が一番似合う」と言って選んだ布地から仕立てたものだった。


淡い赤は、派手ではない。


けれど、光に触れればほんのりと薔薇色がにじむ。


少女の頬が自然に染まるような、優しい赤。


「十六歳を迎えられる日に、ぴったりでございますね」


そう呟く声は、どこか母のような、誇らしさを秘めていた。


その時――


部屋の扉の小窓が、カチッと音を立てた。


「失礼します」


稽古を終えたばかりのシュリが、ひやりとした外気を纏わせながら部屋へ入ってきた。


一歩足を踏み入れた瞬間、シュリは固まった。


結い上げられたユウの首筋が、

朝の光を受けてほの白く浮かび上がっていたのだ。


白く、細く、柔らかい。


普段は髪に隠れて決して見えない“素肌の線”。


触れれば折れてしまいそうなほど儚いその曲線に、胸の奥がきゅっと痛む。


ほんの瞬きほどの一瞬。


なのに、視線が離れなかった。


ーー綺麗だ。


自分でも驚くほど素直な感情が浮かび、シュリは喉奥でそれを必死に押し込んだ。


その視線の揺らぎに気づいたのか、


気づかないふりなのか――


ユウは鏡越しに、ふい、と目をそらす。


頬が、わずかに赤い。


その変化を見逃さなかったヨシノは、ふっと柔らかく目を細めた。


あえて何も言わず、微笑む。


そして、胸の奥にじんわりと昔の記憶が滲む。


――レーク城にいた頃のユウ。

まだ、たった四歳の小さな姫。


ヨシノの袖を引き、

二階の窓から見えた両親の口づけを指差しながら無邪気に囁いた。


『大きくなったら、父上のような人と結ばれたいわ』


その瞳は、驚くほどまっすぐで、未来を信じきった子どもの輝きだった。


ヨシノは膝を折り、強く、確かに言った。


『ユウ様なら、きっと叶います』


あれから十二年。


小さな姫は美しく成長し、誰より気高く、誰より眩しい娘になった。


けれど今――

彼女が結ばれるのは、


若く輝く父のような青年ではなく、

三十歳以上年上の、干からびた小男の“妾”として。


運命は、あまりにも残酷だった。


「・・・今日はこれから、キヨ様が訪問されます」


ヨシノが慎重に言葉を選んで告げた瞬間、ユウの表情にすっと翳りが差した。


「・・・あの男が?」

声は低い。


せっかく整えた朝の光のような気配が、瞬時に曇る。


ヨシノは、さらに言いにくそうに続けた。


「はい。ユウ様の――お誕生日のお祝いに、と」


微かに眉を寄せ、申し訳なさそうに目を伏せる。


その気遣いすら、ユウには痛かった。


「・・・わかったわ」

短く、苦々しい返答。


美しく結い上げられた髪も。

淡い赤のドレスも。

首筋を包む上等なレースも。


そのすべてが。


――あの男のため。


そう考えた途端、ユウの胸に冷たい影が落ちる。


「キヨ様はご多忙なので・・・朝食前の、ほんのわずかな時間のみだそうです」


ヨシノは、どうにかユウの心の負担を軽くしようと、

必死に声を落ち着けて説明した。


ユウはゆっくりと息を吐き、まぶたを伏せる。


「・・・それならいいわ」

短い返答。


けれど声の奥には、深い沈殿のような嫌悪があった。


そして、小さく吐き捨てるように言う。


「嫌なことは・・・早く終わらせたほうがいいもの」


その言葉には凍えるような現実があった。


ーーもしこれが“夜の訪問”だったら?


その想像だけで、ユウの背筋にぞっと冷たいものが走った。


それを悟ったのか、ヨシノは胸の前でそっと手を組み、

痛ましいほどの眉を寄せた。


「・・・ユウ様」


慰めたい、守りたい――だけれど現実は、どこにも逃げ場がない。


部屋の空気が強く沈む。


その沈黙の中で、

シュリだけが、誰にも気づかれぬよう拳を握りしめていた。


不思議なもので――

『十六歳』という年齢を迎えた瞬間、

ユウが急速に“妾への階段”を登らされているように思えた。


それは、大人になった証拠などではない。


誰かの手によって強制的に引き上げられていく階段だ。


しかも、その階段の先に待つのは

三十も離れている年上の、萎びた小男。


年頃になったユウに、縁談の一つも届かない。


それは、どう考えても

キヨが「すべてを断っている」からだという揺るぎない現実があった。


胸の奥が、ぎり、と焼けつくように痛む。


ーーこんな未来、受け入れられるわけがない。


そう思っても声にはできない。


乳母子の立場である自分に、その道を否定する権利などないのだから。


ただ静かに、その痛みを抱えたまま、シュリはユウの背中を見つめ続けた。


細い首筋も、結い上げた髪も、

淡く揺れる赤い布地も。


どれだけ綺麗でも、

どれだけ儚くても――

この人は他の男の手に渡ってしまう。


触れられないのに、誰かに触れられる未来だけは迫ってくる。


それが、たまらなく苦しかった。





「イーライ、どうだ。・・・わしの装いは変ではないか?」

廊下を歩くキヨが、落ち着かぬ声で尋ねた。


今日は珍しく、緊張しているらしい。


キヨが身にまとっているのは、

真っ赤な絹のシャツに、黒地へ金糸の刺繍が派手に施されたローブ。


若作りのローブは、

自分の老いを必死に否定するようにも見えて、どこか痛々しかった。


「はっ。お似合いでございます」


イーライは深々と頭を下げた。


主を否定するなど決して許されない。


だが、眼差しの奥にわずかな翳りが浮かんだのを、誰も気づかない。


今日は、ユウの十六歳の誕生日。


本来なら、縁談や祝福が届く年頃。


だが、それらをすべてはね除けているのはこの男だ。


主の“装い”を際立たせるため、イーライは今日は黒一色の衣を選んでいた。


そのとき――


イーライの黒い衣服の胸元に、

肉眼では捉えきれないほど細い深紅の糸が、ふっと光を帯びて浮かび上がった。


普段は影に沈み、誰にも気づかれないその赤は、


ーー熱を胸に秘めた者だけが選ぶ色だった。


ユウに会うために浮き立つキヨとは対照的に、

イーライはその小さな赤だけが、自分の感情のすべてを代弁しているように思えた。


イーライは黙って、茶器を乗せたワゴンを静かに押した。


その足元には、布で包まれた少し大きな贈り物の包みが揺れている。



「しかし・・・わしはこんなに自信のない贈り物をするのは初めてじゃ」

キヨは歩きながら、珍しく愚痴をこぼす。


「大丈夫でございます」

イーライは前を見たまま、淡々と、しかしどこか柔らかく返した。


「わしは贈り物が上手いと評判なんだぞ。こんなものを年頃のユウ様が喜ぶのか?」


戦場では一切迷いを見せぬ男の声が、今だけはかすかに揺れている。


イーライは、視線を前に向けたまま言った。


「喜ばれます。キヨ様が選ばれた品も、ございますから」


その一言にキヨが少し胸を張る。


「しかし・・・どうにも落ち着かん」


言いながら廊下を進むうちに、二人はユウの部屋の前へとたどり着いた。


イーライは、扉の小窓を開ける。


「キヨ様がお着きになりました」


その声は、淡々としていたが、少しだけ震えていた。

次回ーー明日の9時20分


雪の朝、十六歳の誕生日。

祝福の名を借りて、キヨがユウの前に現れる。


母シリに「似ている」と告げられ、

抑え込んだ怒りと嫌悪が、静かに胸を満たしていく。


贈られる紅、近づく距離、逃げ場のない視線――

その場で、誰にも気づかれぬ想いだけが、確かに軋んでいた。


※ついに30万文字を超えました。なるべく文字数を減らそうとしたのですが・・・来年には、この連載を終わらせる予定です。

皆さま、根気強く見守ってくれてありがとうございます。良いお年をお迎えください。

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