二十歳のあなたに、十二歳の私は恋をした
◇サカイ城 回廊のベンチ
ユウがシュリと過ごしていたその頃――
レイは回廊のベンチで、
少しずつ闇に溶けていく庭の木々をぼんやりと眺めていた。
つい先ほど、ノアがレイの私室を訪れ、
人目を忍ぶように一通の手紙を差し出した。
宛名は西領の領主ジュン。
極秘と書かれたその封を開くと――
『セージを無事に保護をした」
その一行だけが記されていた。
「・・・よかった・・・」
自然と息が洩れた。
ーーセージ様の命が助かった。
それだけでもう充分すぎるほどだ。
静かに頭を下げて、ノアは部屋を出ていった。
ずっと胸の底で凍りついていた塊が、ようやく溶けた気がした。
けれど。
その安堵に触れた途端、別の痛みが胸を刺した。
ーーもう、セージ様に逢うことはないだろう。
それは事実として理解していたはずなのに、
言葉になった瞬間、どうしようもなく寂しさが押し寄せた。
好いているか?
自分にはわからない。
レイの周囲で見てきた想い合う姿といえば、
姉ユウとシュリの、あの静かな熱だけだ。
あれを“恋”と呼べるのかも分からない。
せつなくて、苦しくて、互いに踏み出せない関係。
愛とはもっと柔らかいものなのか、
それともあれこそが恋というものなのか。
レイには判断できなかった。
なぜなら――
レイには、父の記憶がないからだ。
生まれたばかりの頃に父は亡くなり、
「男女が想い合う姿」というものを一度も見たことがない。
あるのは、姉たちから聞かされた言葉だけだった。
『父上と母上は想い合っていたのよ』
『母上は、今も父上を想っているわ』
けれど、それはレイ自身が見た景色ではない。
想像するほかない、どこか遠い物語。
そして、レイが覚えている“母の眼差し”はーー
いつも、飢えたように自分を見つめる目だった。
それは自分が、父にそっくりだったからだ。
愛おしむというより、求めるような、渇いた視線。
幼いレイには、それが“想う”なのか“執着”なのか、判別できなかった。
その視線がを向けられるたびに戸惑った。
それが「想う」だというなら、恋愛感情がわからない。
だから、セージに対するこの胸の痛みも、名前がつけられない。
深く、胸の底まで沈んでいくような溜息を落としたそのとき――
背後から、柔らかい声がした。
「まあ、レイ様。こんなところでひとりなの?」
振り返ると、
薄藍の外套を羽織ったメアリーが立っていた。
夜目にもわかるほど落ち着いた微笑み。
けれどその瞳だけは、レイの顔色を見てすぐに心配を滲ませていた。
「・・・メアリー様」
呼びかけに応じる声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「隣に座ってもよろしいですか?」
メアリーが落ち着いた笑みを浮かべた。
一人になりたかったレイだったが、断る理由が見つからず、小さく頷く。
「・・・どうぞ」
メアリーは静かに腰を下ろし、外套の襟を指先で整えた。
「寒くなりましたね」
「はい・・・」
視線は足元のまま。
親戚とはいえ、年齢も立場も離れたメアリーと
どんな話をすればいいのか分からない。
そんなレイの戸惑いを察したように、メアリーがふっと表情を和らげた。
「離縁の件・・・伺いました。切ないでしょう」
レイは小さく頷いたあと、
胸の奥に引っかかっていた疑問を思わず口にしていた。
「・・・メアリー様は、キヨ様のことを憎んでいないのですか?」
メアリーの瞳が、わずかに揺れる。
けれど次の瞬間には、穏やかな微笑みに戻っていた。
「どうして、そう思うの?」
レイは一瞬、言葉を選びかけ――しかし隠しきれずに吐き出す。
「・・・だって、ご主人は・・・キヨ様に殺された、と聞きました。
しかも・・・メアリー様を妾にして・・・」
そこから先はどうしても言えなかった。
メアリーの瞳にほんの少しだけ影が差したから。
しばらく沈黙したあと、メアリーはかすかに微笑んだ。
「・・・憎くは、ないのです。でも、好いている、とも言えません」
レイは息を止め、まっすぐにメアリーを見つめた。
メアリーはゆっくりと続ける。
「ただ・・・キヨ様は、母も、子どもたちも守ってくれた。
弟のリオウも、仕える道を得られたわ」
その笑みは、どこか寂しくて、どこか誇らしげで――
レイは胸が締めつけられた。
「それは・・・」
レイが言いかけると、メアリーは先回りするように優しく言った。
「“見返りのために、妾をしているのか”、そう言いたいのでしょう?」
「・・・はい」
正直に答えると、メアリーは声を立てて笑った。
「ユウ様もそうだけど・・・レイ様も正直ね」
「す、すみません・・・」
「いいのよ。正直なのは良いことです。
――見返りがなければ、妾なんて務まりませんもの」
言葉は軽く、笑っているのに、
その奥にある強さと現実がレイの胸に突き刺さる。
レイは何も言えずに、唇を結んだ。
メアリーはそっとレイの肩に触れる。
「レイ様は・・・まだ若いわ。今の痛みが、一生続くように思えるのでしょう?」
「・・・もちろん、そう思います」
「でもね。相手が生きているのなら――傷は、いつか癒えます。
また必ず笑える日が来る」
「・・・私には、とてもそう思えません」
レイは頑なに首を振った。
胸の奥にあるのは、まだ生々しい“破れ目”だ。
そんな簡単に塞がるとは、とても思えない。
メアリーは、そんなレイを責めず、ただ静かに息をついた。
「辛いことがあっても、時間というものは、意外と親切ですよ」
「親切、ですか?」
「ええ。歯痛のようなものですわ」
レイはぽかんとする。
「・・・歯痛?」
メアリーはくすりと笑った。
「痛い時は苦しくて眠れないほどなのに・・・
その合間には、何事もなかったかのように、普通に食事もできるし、笑えるの。
人の悲しみも、それに似ているのですよ」
そう言いながら、メアリーは外套の裾を軽く持ち上げた。
「この新しい外套は、キヨ様からいただいたものなの」
「・・・はぁ・・・」
レイは露骨にガッカリした顔をしてしまい、
メアリーが肩を震わせて笑った。
「五分前までは、私が悲しみを胸に秘めて静かに生きていると思っていたのでしょう?」
レイは気まずく目をそらす。
メアリーは優しく続けた。
「それが人生の良いところなのですよ。悲しみがあっても、また楽しみを見つけられる」
「・・・はい」
「世の中はね、人をいつまでも惨めなままにはしません。
シリ様だって・・・夫を亡くされてからも、笑っていたでしょう?」
その言葉にレイははっとした。
脳裏に浮かぶ母の姿。
確かに辛そうな顔をしていた。
けれど――
姉たちと笑い合ってご飯を食べていた時。
庭で馬を曳きながら春の日差しに目を細めていた時。
雨の日には皆で踊り、母が優しく手を引いてくれた時。
それらの光景が温かくよみがえった。
レイは小さく息を吸った。
たしかに母は、悲しみだけでは生きていなかった。
「今は受け入れ難いと思うけれど・・・
セージ様が生きている限り、いつかレイ様は歯痛のように思える日が来るわ」
メアリーの言葉は柔らかかった。
レイはうつむきながら、思わず問い返していた。
「それでは・・・メアリー様は・・・?」
口にした瞬間、自分がとんでもない質問をしたことに気づく。
――メアリーの夫は、キヨに殺された。
“歯痛”では済まないはずだ。
レイが息を呑むと、
メアリーはほんの少しだけ目を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。
「今日は冷えるわ。風邪をひかないようにね、レイ様」
それだけ言って、そっと立ち上がる。
背を向けたその姿は強く、そしてどこか儚かった。
レイは、しばらく何も言えずにその背中を見送った。
残されたレイは、静かに前を向く。
胸の奥に浮かぶ影。
――二十歳のセージ。
――十二歳の自分。
彼はいつも、自分を“子ども”としてではなく、
“一人の女性”として扱ってくれた。
結婚生活は一年と二ヶ月。
そのうち、ともに過ごした時間はほんの数ヶ月。
それでも――
幼い頃から
「父親にそっくりだ」と言われ続け、
そのたびに飢えた母の視線を向けられてきたレイにとって、
セージだけが
“そのままの自分”を見てくれた。
周囲の誰もが「ユウ様は美しい」と口にする世界で、
レイは冗談めかして言ったことがある。
「セージ様も、姉上に夢中になるはずです」と。
その時、セージは静かに言った。
『俺は・・・切れ長の黒い瞳が気になる』
あの時の低い声。
真っ直ぐな眼差し。
その記憶がよみがえるたび、胸がずきりと締めつけられる。
――これが、恋。
レイはゆっくりと息を吐き、夕闇の中、ひとり静かに目を閉じた。
それが“恋”なのだとしたら、あまりにも残酷な始まり方じゃないか。
レイは胸元をそっと押さえた。
今は、そう思えないけれど・・・
いつか、淡い思い出に変わるまで、精一杯笑って生きていこう。
母上のように。
夕暮れの冷たい風が静かにレイの黒い髪を揺らした。
次回ーー明日の20時20分
雪の朝、十六歳の誕生日。
髪を上げ、赤いドレスを纏ったユウは、もう少女ではいられない現実と向き合う。
祝福の訪問――その名を借りて、
キヨが部屋にやって来る。
結い上げられた首筋に宿る緊張。
胸に秘めた想いを隠すシュリとイーライ。
静かな朝の先で、
それぞれの感情が、音を立てずに交錯し始めていた。
今日は仕事納めでした。お正月休みに小説を進めます!




