あなたにだけは、見られたくなかった
レイが戻って、二週間が経った。
冬晴れの光が差し込む午前。
ユウの部屋の小窓がカチッと開く音がした。
ヨシノが扉を開けると、そこに立っていたのはイーライだった。
「イーライ様、ユウ様にご用でしょうか?」
「いいえ。今日はユウ様ではありません」
イーライの黒い瞳が、シュリへ向けられる。
「シュリ。これより全軍稽古だ。馬場へ来てもらう」
「・・・私、ですか?」
思わず声が漏れた。
使用人である自分が“全軍稽古”に呼ばれるなど、考えたこともない。
訓練とは名ばかりの、あの苛烈な強化稽古。
家臣でさえ震える場だ。
「リチャード殿が、お前を練習相手に指名した」
淡々と告げるイーライの声は、逆にその異例さを際立たせた。
シュリは戸惑いながら、そっとユウを見る。
ユウはうっすら微笑み、静かに頷いた。
「シュリ。行ってきて」
その笑顔に、迷いは消える。
「・・・それでは、励んでまいります」
深く頭を下げ、シュリは足早に部屋を後にした。
扉が閉じる音が落ち着くと同時に――
イーライの視線が、背後で見送っていたヨシノへと向く。
ヨシノが一歩前に出た瞬間、
イーライは声を落とし、わずかに低く囁いた。
「・・・明日の午前中、キヨ様がこちらにお越しになります」
「っ・・・」
ヨシノの肩がきゅっと強張る。
その反応すら予測していたかのように、イーライは続けた。
「ユウ様の誕生日のお祝いに、とのことです」
短い言葉だが、その意味は重い。
ヨシノはすぐに表情を整え、深く頭を下げた。
「・・・訪問の準備を整えておきます」
「頼みます」
イーライは一礼し、静かに廊下へ消えていった。
扉が閉まると、ヨシノはそっと息を吐き――その緊張を悟られぬよう、すぐに動き始めた。
明日はユウの十六歳の誕生日。
そして、キヨが来る日。
部屋の空気は、冬の光とは裏腹に、ゆっくりと冷え始めていた。
◇
部屋に残ったのは、ユウとヨシノだけだった。
扉が閉まり、先ほどまでの空気がすっと静まる。
ヨシノは棚から、細長い木箱をそっと取り出した。
そして、ソファに座るユウの前へ進み出る。
「ユウ様。お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
いつもより明らかにかしこまった声。
滅多に見せない、真剣な面差し。
ユウはすぐにそれが“ただ事ではない”と悟った。
「ええ、構わないわ。どうしたの?」
ヨシノは深く頭を下げ、箱を両手で差し出した。
その所作は静かだが、指先にはかすかな緊張が宿っていた。
「これは・・・?」
ユウが首を傾げると、ヨシノは木箱を胸の高さに抱えたまま、静かに言った。
「ユウ様。明日は十六歳のお誕生日でございます」
「そう、ね。雪が積もってない誕生日は初めてだわ」
ユウが穏やかに頷く。
しかしヨシノの表情は、その穏やかさとは対照的だった。
「十六歳は・・・結婚適齢期でございます」
「そうね」
ユウは軽く返す。
けれど、その瞬間、ヨシノの視線がほんのわずかに揺れた。
それに気づかずにいるユウ。
ユウが結婚適齢期に入るという事実――それが何を意味するのか、
ヨシノは伝えるべき言葉を慎重に選んでいるようだった。
「今日は、そのための“作法”について、お伝えしなければなりません」
ヨシノはそう前置きしてから、箱の蓋を静かに開いた。
中から取り出したのは、薄いが大判の一冊。
普段ユウが読みふけっている分厚い戦略書とは、明らかに趣が違う。
ユウは思わず目を瞬いた。
「作法?」
ヨシノは頷き、膝の前にそっと本を置く。
「ユウ様。結婚をするということは・・・子を成すことを意味しております」
「・・・知っているわ」
それは幼い頃から何度も教わってきたこと。
姫は領主に嫁ぎ、子を産み、家を守る。
まして跡取りとなる男子を産むのは“務め”とされてきた。
だが、ヨシノの表情はなおも厳しかった。
「知識として知っていることと・・・実際に理解していることは別でございます。
そろそろ、より具体的に知っていただく必要があります」
そう言って、ヨシノは本をテーブルに広げた。
紙をめくる音が、妙に大きく響く。
そして目に飛び込んできたのは――裸の男女が向き合う挿絵。
「っ・・・!」
ユウは反射的にのけぞり、背もたれに肩をぶつけた。
耳まで真っ赤になり、言葉が出ない。
「ヨ、ヨシノ・・・これ!」
ヨシノは恥じらいを押し殺したような表情で、ただ静かに言った。
「ユウ様。領主に嫁ぐ姫として避けては通れぬことでございます」
ーー子を成す。
その言葉の意味は理解していた。
婚礼とはそういうものだと、ずっと教えられてきた。
けれど――
本に描かれた生々しい情景を目にした瞬間、ユウは息の仕方を忘れた。
ーーこんなことを、するの?
身体と身体が絡み合い、獣のように荒々しい。
胸の奥がきゅっと縮まり、指先まで熱くなる。
頭では理解していたことが、
肌で突きつけられると、まるで別物だった。
ユウは震える声で息を吐いた。
「・・・これが、子を・・・成すということなの?」
「そうでございます」
ヨシノは深く頭を下げた。
「ヨ、ヨシノ・・・こ、これ」
ユウが震える指先で指したのは、男の股間──
想像していたより遥かに“異様な形”だった。
「・・・こ、こんな風に変貌するの?」
顔面が見る見るうちに蒼白になる。
「はい。興奮すると、男性は皆こうなります」
「そんなわけないわ!」
ユウは絶叫し、勢いよく立ち上がった。
自分の声とは思えないほどの叫びだった。
「ヨシノ、これは任務じゃないわ、拷問よ・・・!」
ユウは口元を震わせ、いまにも泣きそうな目で本をにらんだ。
理解したくない。
ヨシノは静かに頭をふり、さらに続けた。
「営みの際、女性が快楽を得られると、男の子が授かりやすいという言い伝えもあります。
跡継ぎを求められる身としては・・・無視できぬことかと」
その瞬間ーーユウの頭の中で、ばらばらの情報が一つに結びついた。
男の身体が変貌する。
快楽が必要とされる。
あんな風に身体を絡み合わないといけない。
3つの衝撃が、
まるで巨大な波のように一度に押し寄せる。
ユウの指が、びくっと震えた。
「・・・ムリ」
それが限界だった。
か細い、けれど切実な声。
「ユウ様・・・」
ヨシノがそっと手を伸ばすが、ユウは首を振るだけで精一杯だった。
「そ、そうは・・・仰られても・・・」
ヨシノも困ったように眉を寄せる。
その澄んだ茶色の瞳は、シュリによく似ていた。
男の人と、この本に描かれたような生々しい営みを?
想像しただけで、血の気が引いた。
怖い。
怖くて、たまらない。
ヨシノは深く息を吐き、そっと膝を折って寄り添う。
「・・・ユウ様。怖いのは、当たり前のことです」
ユウが震える指で本を押さえていた、そのとき──。
カチッ。
扉の小窓が開く音。
「失礼します」
シュリが部屋に入ってきた。
ユウの心臓が、一瞬で跳ね上がる。
「し、シュリ・・・!?ヨシノ、はやく、これを・・・!」
小声で叫ぶと、
ヨシノは即座に本を布のカバーでくるんだ。
シュリは、少し気遣うように眉を下げながら部屋へ入った。
ーー部屋の空気が違う。
ユウ様の様子が明らかにおかしい。
「どうされましたか?」
その問いに、ユウはかぶせるように答える。
「なんともないわ」
わずかに顎を上げる仕草は、動揺を隠すためのものだった。
「・・・それなら、よかったです」
そう言った瞬間ーー。
テーブルの上に置いていた布の端が、ふわりと床へ落ちた。
「あっ」
ヨシノの声が小さく漏れる。
ユウの血の気が、一気に引いた。
布が落ちた拍子に、隠していた“本”の端がーーのぞいた。
そこに描かれた、明らかに男女の裸の線。
シュリは反射的に、その絵を見てしまう。
ほんの一瞬。
わずかな一拍。
シュリの視線が一瞬だけ止まり、すぐ逸らされる。
けれどその一拍が、ユウには永遠のようだった。
胸がきゅっと締めつけられ、足の先まで熱く、そして冷たくなる。
シュリは、驚きと理解。
それら全部を一度に胸に押し込めるように、そっと視線を本から外した。
彼は一瞬だけ伏せたまぶたの奥で、何かを飲み込んだ。
「・・・失礼しました。見るつもりは・・・」
そこで言葉が途切れた。
ほんの少しだけ、彼の耳が赤く染まっていた。
ーー見られた!よりによって、シュリに!
ユウの胸の奥が、きゅっと潰れるように痛む。
羞恥。
恐怖。
混乱。
どれが自分の感情なのかも分からないほど、胸がいっぱいになり、
涙が込み上げてきて、何も言えなくなってしまった。
この日、初めてユウは、戦より怖いものを、初めて知った気がした。
ーー大人になるって、嫁ぐ事ってこういう事。
もう、子供のままでいられない。
ユウは目を伏せたまま、冬の光がやけに遠く感じられた。
次回ーー明日の20時20分
知ってしまった「大人の現実」と、消えない恐怖。
問いかけられた言葉に、シュリは答えを失う。
子どもと大人の境目で――
二人の心は、もう後戻りできない揺れに触れていた。




