あなたを救い、あなたに堕ちる
イーライは深く頭を垂れたまま、
胸の奥で揺れ続ける熱を抑えきれずにいた。
――いけない。
理性が必死に告げる。
だが、名を呼ばれた時の声が耳の奥に残り、
あの青い瞳がまっすぐ自分を見ていた光景が、どうしても消えない。
ーー気づかれてはいけない。
胸の奥で暴れだしそうな思いを、必死に押し込める。
イーライは静かに息を吐き、熱を帯びた黒い瞳でユウの顔を上げた。
ユウが何か、言いたげに口を開いた。
それを察したイーライは、小さく頷いた。
「・・・ユウ様。どうぞ、お言葉を」
わずかに掠れた声に、誰も気づかない。
ただ一人――
シュリだけが、ほんの僅かにその変化を感じ取って、イーライの横顔をじっと見ていた。
「あなたは私たちを利用したのではなく、私たち“三人”を守るために動いてくれたのね」
ユウの言葉に、イーライは息を呑んだようにまばたきをし、深く頷いた。
「はい。姫様方を・・・あの戦の渦に巻き込みたくありませんでした。
たとえ、それが私の独断だったとしても・・・」
ウイは悔しさを滲ませた指で目元を押さえる。
レイは、胸の奥がきゅっと痛むような息を一つ吸い、静かに吐いた。
そして、イーライに向き直る。
「・・・あなたのせいで、私は深く傷ついた。
でも・・・あなたのお陰で、生きてここへ戻れたの」
レイの声は震えていたが、言葉の芯は揺らがなかった。
許しでも拒絶でもない、ただ“事実”をそのまま差し出す声音だった。
イーライは胸元に拳を当て、深く深く頭を垂れた。
「・・・この先、どれほど罵られようとも構いません。
私は、姫様方のためなら・・・何でもいたします」
そのとき――イーライの視線が、ふっとユウへ向いた。
強くも弱くもない、ただ静かに想いの滲む眼差しだった。
だがユウは気づかず、柔らかく声をかけた。
「イーライ。あなたが淹れたお茶を飲みたいの」
イーライは一瞬、言葉を失う。
喉がわずかに動き、小さく「はっ」としか返せなかった。
イーライは立ち上がり、紅茶のワゴンを部屋に運んできた。
慣れた――けれど、どこか特別な手つきで、お茶の支度を始めた。
「今日は、りんごの砂糖漬けを用意しました」
その一言に、レイとウイの表情がわずかに揺れる。
りんごの砂糖漬け。
それは三姉妹にとって、故郷ワスト領の記憶が詰まった味だった。
スコーンに、クロテッドクリーム、そして甘酸っぱいりんご。
ユウのために火加減を完璧に整えた紅茶の香りが、静かに広がっていく。
ユウはカップに口をつけ、そっと微笑んだ。
「・・・美味しいわ」
その一言に、イーライの瞳の縁がほんのり赤く染まった。
気づかれまいと、彼は深々と頭を下げる。
「悔しいけれど・・・美味しいお茶だわ」
レイが呟くと、
「本当に」
ウイも静かに頷いた。
その二人の言葉に、ユウがくすりと笑う。
「イーライ、明日もお茶を淹れてね」
その言葉は、許しにも似ていて、救いにも似ていた。
イーライは胸に手を当て、静かに答えた。
「・・・もちろんです。ユウ様が望む限り――私は、淹れます」
その声には、許された喜び、
そして、それとは別の“秘めた情熱”が確かに宿っていた。
ユウが微笑むのを見て、シュリは静かに目を伏せた。
「ありがとう、イーライ。・・・また明日ね」
その言葉に、彼は胸に手を当てたまま、静かに一礼し、部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、ゆっくりと空気に沈んでいく。
その残響が消えていくと同時に、
さきほどまでの張りつめた緊張が嘘のように薄れ、部屋には静かな余白だけが残った。
ユウはそっとカップを置いた。
その音に合わせるように、レイもカップを台に戻し、
姉の横顔をまっすぐ見つめる。
ーー疲れている。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
まだ十六にもならないのに、
姉上はいつも、私たちの母のように振る舞う。
本当は勝ち気で、真っ直ぐで、負けず嫌いで・・・
そのままの姉上が私は大好きなのに。
けれど、妹たちの前でさえ、ユウは“仮面”を外さない。
そっと部屋の隅を見ると、静かに控えているシュリと目が合った。
ーーシュリに任せよう。
そう直感して、レイは立ち上がる。
「姉様、部屋に戻りましょう」
ウイは慌ててスコーンを口に運び、
「い、今、行くわ」と小さく返事をした。
二人が部屋を出る直前、ウイは振り返って言う。
「夕食の時に、また伺うわ」
ユウは微笑んで頷き、
扉が閉まった途端、小さく・・・深いため息を落とした。
ゆっくりと立ち上がり、テラス前へ歩み寄る。
窓辺には、籐で編んだ椅子と簡素なテーブル。
ヨシノが静かに茶器を片付けており、
陶器が触れ合う穏やかな音が、疲れた心をそっと撫でた。
「・・・ユウ様」
シュリの声は、いつもよりわずかに低く、柔らかい。
「どうしたの、シュリ」
ユウはその椅子に腰を下ろし、背もたれに頭を預けた。
その表情には、誰にも見せないわずかな弱さが滲んでいた。
「見事な振る舞いでした」
シュリは微笑む。
「・・・見事なんかじゃないわ。私はまだ、母上のように賢く立ち回ることができない」
ユウは視線を落とし、そっと息を吐いた。
ーーもっと冷静でいたい。
もっと聡くありたい。
気持ちはあるのに、感情がついてこない。
「いいえ」
シュリは首を横に振った。
「シリ様が生きておられたら・・・きっと今のユウ様のように振る舞ったと思います」
ユウは驚いたように目を瞬き、それからゆっくりと呼吸を整えた。
そして、隣の椅子を指で示す。
「・・・ここに座って」
ユウが示した椅子へ、シュリは静かに腰を下ろした。
「・・・今日は、しんどかったわ」
ユウがぽつりと呟く。
それは、シュリ以外には決して聞かせない弱音だった。
シュリは優しく目を細めた。
「頑張りましたね」
「イーライを責めるつもりなんてなかったのに。
レイが泣きそうになって・・・ウイも、怒って・・・私、どうしたらいいか分からなくなった」
声はかすかに震え、
その震えを隠すようにユウは自分の手をぎゅっと握った。
「ノア様も、イーライ様も・・・
ユウ様に許されたことで、きっと救われたと思います」
シュリは控えめに言う。
ユウは少し目を伏せた。
「・・・許すって、良いものね。
許したくない気持ちもあるけれど・・・許すことで自分の気持ちも救われるの」
「はい。そうだと思います」
シュリは強く頷いた。
ユウはふっと寂しげに笑う。
「私、母上のようにはできない。もっと大人みたいに振る舞えたら・・・
もっと、誰も傷つけずに済ませられたと思うのに」
「ユウ様は、もう十分です」
その微笑みは柔らかくて、疲れた心に触れると泣きたくなるような優しさだった。
「・・・そんなふうに言ってくれるの、シュリだけよ」
「本当のことです」
彼の声は穏やかだった。
けれど、その奥には揺るぎない想いがあった。
ユウは少しだけほほえみ、ゆっくりと目を閉じた。
「・・・シュリ。そばにいて」
「はい。ユウ様が望む限り、いつまでも」
迷いのない返答。
しかしその胸の奥には、
これから訪れる嵐をひっそりと感じ取っていた。
イーライの抑えきれない恋情。
ユウの無自覚な魅力。
そして――自分自身の揺れている心。
さらには、キヨの思惑が静かに渦巻いている。
冬の冷たい風が、テラスの窓をかすかに叩いた。
それは静かな音だった。
けれどーー三人の心の奥底で、確かに何かが動き始めていた。
まだ誰も気づかない、小さな嵐の幕開けだった。
次回ーー本日の20時20分
レイが戻って二週間。
明日はユウの十六歳の誕生日――そして、キヨが来る。
その前夜、
「大人になる」という現実が、思いもよらぬ形で突きつけられた。
知らなかった世界。
逃げたい恐怖。
そして――よりにもよって、シュリに見られてしまう。
静かな冬の光の下、
ユウの中で何かが、確かに変わり始めていた。




