第七章 大都会の風に吹かれて
ビルの隙間を縫うように流れる風は真理恵には冷たく、身体の芯まで凍えさせるには充分過ぎるものであった。
真理恵は、軽くパーマをかけた長い髪を首元に絡ませるようにし、駅を後にした。
幸いにも幸子からは金銭の要求は出なかった。しかし、それが逆に今後も付き纏うのではないかという不安を掻き立たせてくれる。真理恵は、そんな気持ちと一緒に孤独な街へと戻ってきた。
随分と長い間留守にしてたアパート。食べ物は帰省前に全て処理し、腐らぬように配慮した結果、こうやって戻って来た時の空虚に真理恵は敗北を感じずにはいられなかった。
キッチンの戸棚を開くとカップ麺が二つ重ねて見えた。空腹かどうかさえ定かでは無い今、真理恵はそっと戸棚を閉めた。
帰宅早々乱暴に床に置いたバッグと一緒に横たわる紙袋。母が土産にと持たせてくれたお菓子は、昔、どうしても食べたいとせがんだ陣太鼓。そんな昔に好きだった物を大人になった今でも変わらず好きだと思っている母に涙が流れた。
本当は冷やしたほうが美味しいことは分かっているのだが、真理恵は包みの袋を丁寧に剥がすと、そのまま食い付いた。小豆あんに囲まれた軟らかい餅の感触が口の中で優しく溶ける。「やっぱり美味しい」
真理恵は、誰も返事などしない狭い空間で大の字になると、帰省をした事が良かったのか悪かったのか分からなくなってきた。
正月休み明けから一週間が過ぎると世間は普段の彩りに戻って、年の暮れに盛り上がった新年のカウントダウンなど過ぎ去った過去の何でも無かった単なる行事へと変化していった。
久しぶりに鳴った電話は千夏からであった。
実際、本当の友達なのか真理恵には判断がつかない関係なのであるが、時折、こうやって電話をしてきてくれる相手は千夏以外には今は居なかった。
「どう?あれから新しい相手は見付かったりしたの?」
「見つかるとか見つからないじゃ無いの。第一、見つけようなんて気が更々無いんだから」
「そうかなあ・・・いかにも私は傷心中ですって顔してたけど」
「そんな顔なんてしてないよ。で、どうしたの?」
千夏は勿体ぶるような変な間を作ったが、我慢出来ないようだった。
「良い男が居るんだよね。私の男友達の友達なんだけど、これがまたカッコいいのよ」
真理恵はうんざりした気分になった。
「あのね・・・・」
真理恵は、正月に起こった事の顛末を説明した。さすがにこれには千夏も驚いたようで、高かったテンションも一気に下がった様子を見せた。
「それって大丈夫なの?この後、面倒な事にならなければ良いんだけど」
「やっぱりそこが気になるよねえ。でもね、あれから何も言ってこないのよ。だから大丈夫なんじゃないの」
「そんなこと分からないよ。まだ作戦を練っている段階かも知れないし」
「じゃあ、どうしたら良いのよ?」
「どうしたらって、そんなこと私に分かるはず無いじゃない。とにかく安心せずに用心しておいたほうが良いって」
「何も言って来ないんだから用心のしようなんて無いじゃない」
「それはそうだけど...じゃあ、何かあったらすぐに連絡しなさいよ。相談に乗るからさ」
真理恵は、これは当てには出来ないと思った。多分、興味津々で楽しくて仕方がないのだろう。過剰に心配したがる人間を真理恵は昔から余り信用出来ないと考えていた。
「分かった分かった。とにかく、男を紹介する話はパスだからね」
そう言うと電話は切れた。
季節も春に変わろうかというある土曜日のお昼、私は珍しく外食をしようと思った。 この場所に引っ越して来て、まだ一度も足を踏み入れた事の無い近所の回転寿司。若い女が一人でカウンターに並び、回ってくる寿司を無言で摘む。真理恵にはそれが現実的なイメージとして成り立たなかったが、何故だか今は、見知らぬ人達の中に溶け込んだ空気みたいな存在で寿司を食べたくなった。以前、都会と言えばお洒落なレストラン、という感覚は既に消えて無くなり、現実的なものにだけ興味が沸いてしまう。それは、恋愛に対しても同様であるのかも知れない。
店の自動ドアが開くとまだ若い女性の店員が何名様ですかと聞いてきた。真理恵は、目を合わせずに一人だと答えた。それには、女が一人で来るのは悪いのかという意味も込められていたことを店員は知る由もなかった。お一人様でしたらどうぞという言葉に案内された場所はカウンターの一番奥の席であった。椅子に座る前に視界に入った目の前のトイレの看板。真理恵は、気にするなと自分に言い聞かせて腰を下ろした。 回ってくる寿司を二皿摘んだ後、モニターでサーモンの炙りを注文した。真理恵は、それが届くまでの間、ゆったりとお茶を飲みながら過ごし、周囲を観察した。しかし、予想は裏切られず、一人だけの女性と言えばオバサンと呼ばれる人だけであった。
「こちらへどうぞ」
不意に隣で声がした。真理恵は、隣が空き席だということで少しながらの解放感を得ていたが、それもたった今、店員に取り上げられてしまった。真理恵は、隣に座った客をチラ見した。年齢は同じか少し上だろうか。白地にチェックのシャツのその男は物静かでク―ルな雰囲気を持った、所謂、草食系と呼ばれそうな男であった。
「男一人で寿司か・・・」 真理恵は聞こえないように呟いた。
暫くすると、男はモニターに手を伸ばしたが、いつまでも注文せずに、画面を捲ったら戻しを繰り返しては、じ―っと見つめていた。隣でそんな不思議な行動を取られたら、こっちまでイライラしてしょうが無い。真理恵は、我慢出来ずに男に聞いた。
「あのう、余計な事かも知れませんが、何を困ってるんですか?」
男は、ハッとした表情でこっちを見た。
「初めて来てみたのですが、皆さんこれでも注文されてるみたいなので、自分も食べたいものだけ注文しようとしてたんですが、どうもやり方が分からなくて」 回転寿司初体験か。この男、そんなおぼっちゃまには見えないが、まあ、そんな事はどうでも良い。真理恵は、丁寧に教えながら、モニターで注文を取ってあげた。男は、少しだけ表情を緩めてお礼を言ったが、内心は相当嬉しかったのではないのかと真理恵は想像したりした。
真理恵の炙りが到着した。男はそれを見ると、教えて貰ったばかりのモニターでまた注文した。すると、比較的早くその品が届き、男は、先程のお礼だと言って、価格の高い一貫皿の炙りを二皿真理恵の前に置いた。真理恵は驚いた。まさか、この能面みたいな顔の下でこんな事を考えてたなんて。しかし、真理恵は皿を押し返すことはしなかった。他人の善意は有り難く受け取るべきで、相手の立場を尊重するのがお互いに喜ばしいことだと思ったからである。