第六章 幸子という女
電話の向こうの声は幸子が不在である事を伝えてきた。真理恵が用件を細かに説明すると、本人の携帯の番号を教えてくれた。何と無用心な。真理恵は、これは自分の親にも有り得る行動であると考え、後で注意を施しておこうと思った。
幸子の母に先に一度電話を入れておいて貰えないかとお願いしてから20分が経過した。もうそろそろ良い頃合いだ。真理恵は、携帯に登録していた番号を押した。
「はい、入江ですけど」
「同窓会の連絡を頂いた村下真理恵です」
真理恵がハガキを返送出来なかった理由を簡単に説明すると、幸子は気にしなくても良いと言った。どうして私に案内をと聞くと、それは会ってから話をすると言われ、その瞬間に参加する事が自動的に決定してしまった。しかし、真理恵はそれでも構わなかった。何故なら、電話した時点で参加の意思があった事に自分で気付いていたからである。
それでも様々な憶測は後を絶つ事を知らず、狐につままれたような正月は雲の流れのように静かに過ぎ去っていった。
同窓会の会場は近くの焼肉屋である。酒が入る事と皆地元である事を考慮すると妥当な選択であろう。
前日の夜、母は車で送ろうかと言ったが、歩いても10分以内で着くだろう。真理恵は、たまには近所を歩いてみるかという衝動にかられ丁寧に断った。
この季節、午後6時は夕方なのか夜なのか、ハッキリとしない薄い闇の中を歩くと、次第にバイパスの灯りが道しるべとなり、そして様々な色を照らすネオンが暗い空を染めようとしていた。
焼肉屋に着くと店員に幸子の名前を伝えた。店員は奥の座敷に案内すると、「こちらになります」と言って引き返していった。
中からザワザワとした話し声が漏れている。その声に緊張を感じ、襖を開くタイミングが難しくなった。今思えば、誰が参加するのかを聞いておくべきだったと後悔した。それでもここまで来たのだから引き返すという選択肢は無い。真理恵は、音を立てないようにそっと襖を小さく開いた。その途端、部屋の中の顔達が一斉にこっちを向き、真理恵は慌てて見覚えのある顔が無いかを探した。 「遅刻だよ、真理恵」 誰かが叫ぶと皆が笑った。真理恵は、声の主を捜し当てた。するとそれはあの幸子なのであった。
真理恵は手招きをされるままに幸子の隣に座ると、幸子は真理恵のコップにビールを溢れんばかりに注いだ。
「久しぶりだね、ま―ちゃん」
そう言って私の顔を覗いてくる顔は、あの時の幸子とは思えぬ冷たさを秘めているように感じた。
「ええ、久しぶりだね」
私は咄嗟にそう答えたが、周りを見渡すと仲の良かった顔は一つも無かった。私は、幸子のほうに向き直ると、この同窓会はいつのものであるかを問うた。 「ああ、これね。これは私の高校の時の友達連中なの。だから、あなたが知らないなも無理は無いよ」
真理恵は、意味が分からなかった。
「中学の同窓会じゃないの?確かにそう書いてあったから参加したんだけど」
幸子は含み笑いを返してきた。
「そうとでも書かないと、あなたは来ないでしょ?」「あんた、何言ってるの?それって、私を呼び出したってこと?いったいどうして・・・」
「まあ、そう慌てないでよ。久しぶりなんだから先ずは呑みましょう」
「いや、説明して」
真理恵の大声に皆が驚いた顔で振り向いた。
「ほらほら、皆ビックリしてるじゃないの。少しは落ち着きなさいよ」
幸子の妙に低いト―ンで真理恵の興奮は冷め気味となったが、イライラ感と不安が入り乱れ、そうなると次第にそれは恐怖さえ覚えるものへと変化した。しかし、わざわざ手の込んだ事までした理由は知りたい。真理恵は、取り敢えずは幸子のペースに合わせることにし、一杯目のビールを乾いた喉に放り込んだ。
「ねえ、あんた誰?」
軽そうな男が人を値踏みするかのように聞いてきた。私は愛想笑いだけで受け流して答えなかった。すると、もう一度同じことを聞かれた。
「私の友達だよ。親密な話をしてるんだから茶々入れないでよね」
幸子がタンカを切ると、男は舌打ちをし背中を向けた。
真理恵は、怖い連中の集まりの中に入り込んでしまったのではないかと心配になり、幸子に早く用件を言うように急かした。幸子は仕方ないという様子であきれ顔を見せた。
「あんた、倉本真司って知ってるよね?」
幸子が倉本を知ってる。いや、そんなはずは無い。熊本と東京という離れた土地で、そんなことは有り得ない。
「知ってるよね?」
口をつぐんだ真理恵に幸子が念を押してきた。真理恵は、事の真相を得るには正直に答えるしかないと考えた。
「知ってるけど、それがどうかしたの?」
それを聞いて幸子はフンッと鼻を鳴らした。
「あんたと倉本は、どういう関係だったの?この場に及んで隠し事は無しでね」「別に隠す必要なんて無いけど。私達が付き合ってたからって、それがあなたに何の関係も無いでしょうに」
幸子は、真理恵のコップにビールを注いだ後、自分のコップにも満杯に注いだ。
「そうそう。あんたまだ知らなかったよね。私、結婚してたの」
父が言ってた話だ。その後、離婚したって事だけど、それを私の口からは言わないほうが無難だ。真理恵は初耳だという素振りをした。
「そうだよね。知らないよね。ましてや、あれからあんたとは何の接点も無かったし、私との記憶も何も既に消え去ってしまった遠い昔の話だもの。そう言えば、私ね、結婚してた時は東京住まいだったのよ」
真理恵は嫌な予感がした。
「あなたのご主人の名前は?」
真理恵は恐る恐る聞いた。
「主人だった・・・でしょ。そう、あんたが付き合ってた相手だよ。いくら不倫だと言っても名前位は知って付き合ってたんじゃないの?」
真理恵は、嫌な予感が的中したと思った。思い起こせば、彼が私に求めていたものが何だったのか今考えてもはっきりと分からない。面白く無いと言われたが、彼の面白いとは何だったのか。もしも、幸子が言ってることが真実であれば、遊び相手として不足だったという事になってしまうのであろう。真理恵は、被害者は自分のほうだと思った。
「知らなかった。彼、独身みたいな感じだったし、既婚だなんて疑うことすらしなかったもの。それがまさか・・・」
幸子は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「あんた、自分が被害者だと思ってるんじゃないの?最初に声を掛けたのはあんたのほうだよね。そのせいで私は離婚までしてしまった。実質的な被害者は私のほう。あんたは加害者なねよ」
真理恵の顔から血の気が引いていった。
「いいえ、私も被害者なのよ。弄ばれただけだから」 幸子は聞く耳を持たないといった仕草でタバコに火を点けた。
「あんたさえ、声を掛けなければねえ・・・」
「あれは、電車のキップの買い方が分からないようで困った様子だったから」
「それが余計な事なのよ」「でも、困ってる人には」「偽善者だよね、あんたは」
私が偽善者?私は困ってる人を助けて、それが恋に発展しただけなのに。真理恵はハッとした。知らない土地での一人暮らしに淋しさを感じた頃、確かに人肌恋しい時があった。そしてその時期とあの恋は重なった。真理恵の口から次の言葉が出ることは無かった。




