拝啓エクスプレス
夜が好きだった。だって、表情を見られずに済んだから。一等星に意識を委ねていれば、会話の間を気にしないで済んだから。ちらりと横を向いても、幼馴染の将人にバレなくて済んだから。
私は夜が好きだった。都合のいい夜が好きだった。だから中学校では将人と天文部に所属していたし、夜の中学校の屋上で見た星が思い出の一つでもあった。これから先も夜への意思を曲げるつもりはない。そう思っていた。
しかし、夜は将人の命を奪った。私に何も告げずに、永遠に眠った少年を抱きかかえながら、どこか知らない場所へ走り去ってしまった。
私はたった一人で、暗いだけの場所にうずくまっている。枷のようにまとわりつく思い出が重すぎて、立ち上がることもままならない。
それから私は、エンジンのないバイクみたいで、つまりは空っぽになった。這いつくばったまま、いつしか高校生になっていた。
体育館のステージ上では、白衣に身を包んだ先輩達が、天体望遠鏡を覗く演技をしている。ステージ中央では、部長らしき女性が「こんばんは、天文部です」と言って、まだ昼なのに夜を錯覚させている。私はため息をついた。夜は嫌いなのだ。
天台高校に入学したての私は、つい先ほどまで、先輩達の部活動紹介を見ていた。しかし今は違う。天文部の話を聞きたくないから、ブレザーの胸ポケットから生徒手帳を取り出して、興味もないのに眺めている。髪を染めてはいけないとか、スカートは膝の高さより短くするなとか、やるわけない。見てくれる人が隣にいないのに。
私が天文部に興味がないように、天文部も私に興味がないのだろう。生徒手帳を読む私を咎める部員は誰もいなかったし、再び私が顔を上げる頃には、天体望遠鏡も、想像上の夜も消え失せていた。
少しすると、また白衣の集団がステージに現れた。今度は科学部だろう。科学部に恨みはないが、その白衣が天文部と同じだから嫌いだ。私はまた生徒手帳に目を向けた。
堅苦しいフォントで書かれた文章を流し読みしながら、ふと、「部活動は絶対に入らなければならない」と先生が言っていたことを思い出す。クラスのお調子者が理由を問うていたが、伝統の二文字で片付けられていた。
かつて夜ばかりを愛していた私は、運動部に入るほど活発でもなければ、文化部に入るほど吹奏楽や創作への熱意もない。孤独なだけのロマンスに取り残されて、抜け殻のようになっている。
突然、巨大風船を割ったような破裂音が響いた。辺りから悲鳴が聞こえる。私の隣の子は泣き出してしまった。どうやら、科学部が水素爆発の実験をしていたらしい。
ふざけんな。私は耳を塞いだ。突然の破裂音に怖気づいたわけではない。破裂音を好まない生徒もいるだろうに、それを無視して、自分達の好きを押し通す態度が気に入らなかったのだ。私に何も告げずに、ずけずけと人の内側に入ってくるやつら。
夜みたいだ。
そう思ったら、途端に悪寒に似た感情を覚えて、私は震え上がってしまった。しかし、天文部も科学部も私に興味なんてない。謝罪も心配もない「科学部でした」の声が指の間から伝わって、それがまた、どこか知らない場所へ走り去った夜のようで、私の瞳から流れ星のように涙がこぼれるのを感じた。
部活動紹介から数週間経っても、私は部活に所属していない生徒だった。早くしろと先生に催促されるたびに、震え上がった私を知る同級生達からは「あんな爆発されたら、他の部活の紹介まともに聞けないよね」と同情されたが、その前の私は生徒手帳を見ていたから、悪いのは私だ。しかも、それすら誰にも打ち明けず、心地よい言い訳に甘えている。いや、部活の見学も行かない時点で、気付かれているのかもしれない。
いつしか周りは部活の話題でもちきりになって、同じ部活の人と行動するようになった。さそり座、やぎ座、みずがめ座。みんなが星座を作る中で、私は一つの点に過ぎなかった。
「一年三組、須藤真理子さん」
放送でそう呼び出された時も、私は昼休みの教室で一人だった。「帰宅部、ついに呼び出しか」なんてお調子者がからかってくる。誰かが隣にいれば、何か言い返せたかもしれないのに。星座って、どうして一人じゃ作れないんだろう。
「須藤さん。昼食を取り次第、屋上にお越しください」
天台高校は四階建てで、高校にしては珍しく屋上が開放されている。天文部がそこで活動するらしいが、別に屋上でも校庭でも変わらない。手が届かないなら、どこで見ても同じだ。
それよりも、屋上に呼び出されるとは何事だろうか。いくら部活に所属していないとはいえ、屋上から突き落とされるほど恨まれた覚えはない。かといって、拠点を置く天文部が直々に勧誘するほど私は有名でもない。考えれば考えるほど、ブラックホールに飲み込まれていく。
屋上の扉の前に着いた私は、扉に手をかけながら、深呼吸をした。吸って、吐いて。説教でも殺人でも勧誘でも、よし、受けて立とう。大きく吸って、息を止めて、一思いに扉を開けた。
列車が、そこにあった。
今日の快晴に紛れるような青色のボディで、屋上にすっぽりと収まる二両編成。線路も架線もないのに動き出しそうだ。例えば、人智を超えたロマンスで。
「驚いたでしょう、須藤さん」
声の方を向くと、白衣を着た女性が立っていた。学校司書の二宮さんだ。今年天台高校に配置されたらしい。
「こっちへいらっしゃい」二宮さんが私を手招く。「手紙が来ています」
私は誰かに手紙を送る趣向もなければ、誰かから手紙を貰う人間関係もない。戸惑いを隠せずに近付くと、二宮さんは目を細めながら、私に一枚の紙を差し出した。その紙は黄色で、上半分が破けている。しかし、今の私には、色も上半分の行方もどうでもよかった。
『久しぶり、将人です。真理子のことだし、俺がいなくて寂しがってると思うから、直々に手紙を送ってやりました。図星ならお返事ください』
彼の筆跡、彼の文体、彼の名前。死んだはずの、西村将人からの手紙だった。
「読みながらでいいから、聞いてちょうだい」
二宮さんが言う。その抑揚は、私をからかうものでもなければ、大規模なドッキリの存在を裏付けるものでもなかった。だから「読みながらでいい」と言われながらも、私は二宮さんの方を向いた。
誰を騙すわけでもない、非常に真剣な声色で、彼女が続ける。
「この列車は、あの世とこの世を繋ぐ貨物列車です」
不思議なことに、私はこの浮世離れした事柄を、軽い打撃で受け止めることができた。むしろ安心すら覚えたものだ。私にとっては、将人がいない現実は空想で、将人と繋がれる空想こそが現実であってほしかったからだ。
「将人の手紙は、この列車で届けられたんですか?」
こんな疑問を二宮さんに投げかけるほどには、空想を空想で終わらせたくないと思っていたのだろう。
「そうです。貨物列車だからね」二宮さんが敬語とタメ口混じりで答える。
「私が乗ったら、あの世に行けるんですか?」
「行けません。貨物列車は人が乗れない車両だから、向こうでも鉄道営業法違反扱いね」
「あっちでも法律が適用されるの」列車に乗れないことより、あの世にも法律があることに驚きを隠せない。「亡くなった法曹が言い伝えてるんですか?」
私の疑問に二宮さんは答えず、代わりに白衣から四つ折りにされた二枚の紙を取り出した。一方は何かが書かれている紙、もう一方は白紙だ。
「そういえば」二宮さんが続ける。「須藤さん、部活入ってないよね」
「ああ」数分前の私は、屋上に呼び出された理由が部活関係だと考えていた。どうやら、あながち外れていないらしい。
「私の部活は楽だよ。決まってないならおいで」
二宮さんの持つ紙の一つは、未記入の入部届だ。
「二宮さんって学校司書ですよね。『私の部活』って?」
「天文急行部です」天文急行部。天文部とは違うのだろうか。それを部活動紹介の時に聞いておけばよかった。
私は素直に、部活動紹介は生徒手帳を見ていて聞いていなかったと白状して、活動内容を尋ねた。
「昼休みと放課後、列車から手紙を受け取って、送り返す。数学より簡単です」
決して簡単という名の怠惰に甘えたわけではない。ただ、天文急行部に入れば、正式な活動として手紙を受け取れるらしい。
「つまり、将人と文通するには」私は理解する。「部員になる必要がある」
「そういうこと」二宮さんは私に二枚の紙を押っ付けた。未記入の入部届と白紙だ。
「入部届は明日以降で大丈夫。まずは将人に返事を書いてください」
敬語が不安定だったり、人の幼馴染を呼び捨てしたりで、二宮さんは日本語が不安定だ。ただ、昼休み終了十分前を告げるチャイムが鳴って、そんな揚げ足のようなことはどうでもよくなった。
二宮さんにボールペンを借りて、仕方がないから、粗い地面を下敷きにして白紙に返事を書く。
『全然寂しくないけど、流石に可哀想なので返事してあげます。でも、この手紙は屋上の汚い地面で書きました。あなたはその程度ってことよ』
その程度なわけないけど、今更将人に対して素直になれない。地面みたいに粗い扱いだけど、本当は赤子の頬くらい優しく接したい。でも、子供にも大人にも成り損ねた私には無理だ。
大切だと分かっていたって、乱暴に振り回していたから、ある日突然、ひとりでに壊れてしまったんだ。
そう後悔して、それだけだ。書き上げた粗い手紙を二つ折りにして、二宮さんに渡した。「はい、確かに」
二宮さんが車両の中に、大事そうに手紙を置く。その仕草を見て、書き手が乱暴じゃ意味がないって思って、でも書き直す勇気もなくて。
将人が消えても私は変われなかった。将人がいてほしいという空想を願うのは、一種の逃避だとすら思えた。
そう身勝手に悲しくなりながら、一度瞬きをした。その、ほんの一瞬で、目の前の列車は、跡形もなく消えてしまっていた。
「列車が出発したのです」二宮さんが言う。「大丈夫、手紙は届きます。三次元に生きる私達には、列車がどこに向かったのか観測できないだけ」
観測という言葉が、天文学的なものを連想させる。不思議なことに、数分前まで覚えていた夜への嫌悪は、今では六等星ほど小さなものだと感じられた。
もしかしたら、前よりも素直に、星が見れるかもしれない。隣が静かになった場所で。
学校からか、私の中からか、何かが始まるチャイムが鳴った。
『手紙届いた! 本当に真理子なら、俺の似顔絵描いてください。飾りたいです』
『嫌です。私が真理子だと思われないなら、これ以上返事を書かなくてもいいんですよ』
私の高校生活は、教室と屋上と、時々図書室で満たされた。二宮さんは学校司書だから、たまに私は図書部の手伝いにも繰り出されるのだ。しかし、どうにも手伝いの頻度が多いと感じて、二宮さんに直接抗議した。
「天文急行部は図書部の傘下だよ」
やられた。そう思いながらも、退部するわけにはいかなかった。将人と文通がしたかったからだ。
『真理子、図書室の雑用係に任命されたのか。雑用の適性あるもんな』
『はったおすぞ』
自分でも乱暴だと思った私の手紙だったが、将人には好印象だった。なんでも、元気ならそれでいいという。ああ、もう、そういうところ。
『近所にいた黒猫、生きてるでしょうか。俺が餌をやらなきゃ死んじゃいそう』
『数年前から見かけません。そっちで会ったらよろしく言っといて』
今まで、あの世はこの世を見下ろせる場所(雲の上とか)にあると思っていたが、違うらしい。事実、将人は家の近くのコンビニが潰れたことを知らない。
『図書部って他に誰かいるの? ゲーム好きなやついる?』
『同級生の秀樹くん。将人より頭いいし、ゲームはやらなそう』
図書部の手伝い(厳密に言えば部員だ)という立場からか、図書部の生徒と交流することがある。その一人が秀樹くん。口数は少ないけど、真面目で横顔が素敵だった。
『そいつカッコいいの? 足臭い?』
『将人の百億倍はカッコいい。足も臭くないと思う』
百億倍は誇張だが、時折、秀樹くんをカッコいいと思う瞬間はあった。特に、私だけが見ている時とか。独占欲に近いものかもしれない。将人に文学的な感情を寄せた理由だって、幼馴染という独自の色に染まっていたからだろう。きっとそうだ。
思うに、私は浮気性だ。将人の手紙を受け取った時は将人を意識するのに、秀樹くんといたらすっかり忘れてしまう。独占欲というか、自分自身の存在意義を探しているのかもしれない。この人の生活には私という人間がいる、という、身勝手な存在証明。
「須藤さん」
そんな秀樹くんに、ある初夏の図書室で、呼び止められた。
「ごめん。須藤さんと二宮さんが話してるの、聞いちゃって」
「将人のこと?」私と二宮さんを繋げるものは、間違いなく将人だ。
秀樹くんはこくりと頷いて、気まずそうに目を逸らした。私には分かる。話題を提起しながら、それ以上深堀りしない臆病さ、あるいは賢明さ。
とはいえ、私も臆病の外殻に覆われた人間だ。臆病なりに、正直であることに費やす勇気の莫大さは承知しているつもりだ。だから、彼の勇気を讃えるという名目で、将人の話をすることにした。
「秀樹くん、猫はどれくらい好き?」
「まあ、ちょっと」彼は少しずつ私の方を向く。
「うん。そんなものだよね」
愛猫とか、愛犬とか、ペットに愛を付けたがる人はごまんといる。ただし、それは都合のいい愛だ。もしも飼ってる猫が、自分の大事な服を毛玉だらけにしたら、どれだけの愛が失われるだろうか。
「でも」私は、ただ一人例外を知っている。「将人は本当に猫が好きだった。世界で一番猫を愛した人だった」
将人は生まれながらの猫派だ。私は知っている。何度彼が道端の捨て猫を飼うと言い、何度彼の両親に断られたか。何度捨て猫にミルクを与えたか。何度ずぶ濡れの猫に傘を差し出して、私の傘に入ったか。
「将人はさ」彼の死因は、彼らしいものだ。「野良猫を助けようとして轢かれたんだ」
轢かれた、その部分を秀樹くんが繰り返した。
「そう、トラックに轢かれた」
私は一度、口の中のよだれを飲み込んだ。あの時を思い出す度に、喉が砂漠のように枯れていくからだ。将人以外には誰も来ない、孤独で静かな夜の砂漠。
「そして死んだ」
一時的な潤いを得た私は、静かに告げた。
「将人も猫も死んだ。どっちも死んじゃった」
私の言葉は、まるで傾いた棚から怒涛の勢いで落ちる本のようだった。落ちて、積み重なって、後始末が大変になっていく。
「私、将人のすぐ後ろにいた。いたのに、ずっと上を見てた。今日は星が綺麗だったなって。中学校の屋上で見た星が、ずっと思い出になればいいなって。思って、理想を並べるだけで、目の前で起こったことも、クラクションなしに気付くことができなかった」
中学生、夜の中学校の屋上で見た星、二人の空。あの夜の思い出は、一瞬にしてモノクロームになって、日の当たらない場所に置いてある。二人だけの種だったから、一人になった今、育てる意味なんてない。
「ほんと、ほんとほんと、バカみたい」
「須藤さん」
秀樹くんの声は、届いている。届いているけど、堰は咳のように止まらないものでしょう。
「将人は殺された。夜に殺されたんだよ。分かる? もしも辺りが暗くなかったら、もしも助けようとした猫が黒くなかったら、もしも星が綺麗じゃなかったら。もしも、もしも」
もしも、夜じゃなかったなら。
あの日に戻れますように、そう何度願ったことだろうか。しかし、短冊に願掛けしても、サンタクロースに頼もうと、夜の流れ星以上のロマンスを持つものはない。あの世とこの世を繋ぐ列車ですら、夜の煌めきには敵わない。
「将人じゃなくて、私を殺してよ!」
そう叫んだ時、私は大きなものに抱きしめられていた。秀樹くんだった。
「ごめん。もういいよ」
彼の体は、見た目よりも筋肉質というか、性差というかで、私はその時、「男性」に抱きしめられた。将人を差し置いた、男性に抱きしめられていた。
「話してくれて、ありがとう」
その日は、どちらもそれ以上話すことはなかった。お互い気まずかったのかもしれない。でも、その日以降は、むしろ会話の頻度が増えた。増えてしまった。
『真理子、高校で好きな人できた?』
『いない。将人こそ、そっちでいい人いないの?』
『あいにく、夫持ちのお姉様ばかりでね。五十の歳の差は、背伸び程度じゃ埋まらないよ』
私の高校生活は、教室と、時々屋上と図書室で満たされた。毎週屋上に行って、手紙を受け取ってはいるものの、返す手紙の文章量は、目に見えて減っていった。将人が嫌いになったわけじゃない。かといって、秀樹くんが好きになったわけでもない。多分。
『スマホ欲しいなあ。真理子がこっちに来たら貸してください』
『数十年後ね』
単純に、書く内容がなくなってきたのだ。この世のものではない将人に、今日の出来事なんて書いたら、将人がどれだけ羨むだろうか。将人が生きたかった世界を独占している私のことを、将人はどう思うのか。そう考えたら、迂闊に手紙を書けなくなってしまったのだ。
『最近嫌なことでもあったのか。幽霊でよかったら聞くよ』
『別に』
また、秀樹くんと図書館で会うと、秀樹くんが将人のことを知りたがる素振りを見せるので、熱くならない程度に話したりする。しかし最近は、その将人との思い出すら忘れかけているらしい。記憶はいわば引き出しのようなものだというが、私の場合、最初からそこに入っていなかったかのようなのだ。
『一緒に花火大会行ったよね。あの時の約束、覚えてる?』
『え、ごめん。覚えてないかも』
記憶の齟齬というか。
『幼稚園の頃にさ、結婚式ごっこしたよな』
『そんなこと、あったっけ?』
子供駅で列車に乗った私が、大人駅に向かっているというか。
『やっぱり、忘れるよな。こんな悲しいなら、最初から文通なんてしなければ』
『そんなことない。覚えてる。色々覚えてるよ』
『いいんだ。ごめん』
勉強に精一杯だから過去を忘れたわけではない。秀樹くんと過ごす記憶の方が大切なわけでもない。
そんなもの、最初からないとしか思えないのだ。
何かがおかしい。私の第六感が叫んでいる。
「夕日が美しいですね。ええ、須藤さん」
放課後を迎えた学校の屋上に、私と二宮さんがいる。みかん色の空だから、青い列車が一層際立って見える。今日は、一学期の終業式だった。
「天文急行部は、夏休み期間に活動はありません。この貨物列車とも、一ヶ月間お別れになるわけです」
「ええ、そうみたいですね」
二宮さんは、列車にもたれかかって、腕を組んでいる。目を瞑ったら、少しは眠れるであろう姿勢。その姿勢のまま、鋭い双眸で私を見つめている。
「ところで、聞きたいこととは?」二宮さんが問う。「勉強のことですか? 家庭教師は知らないよ」
「違います。その列車のことです」
私は、少し前から感じていた、例えるなら蛍の光のように小さな可能性を、二宮さんにぶつけることにした。
「あの世にも、法律があるんですよね」
「はい。この世と同じものがある」
「ならば、列車に関わる他の仕組み、いわば、運賃があってもおかしくないはずです」
二宮さんは、少し微笑んでいるように見える。私は探偵ではないが、推理によって追い込まれた犯人も、きっと同じ表情をするに違いない。
「私は、何かを代償に手紙を送っている。違いますか?」
「いや、違わない」
驚くことに、二宮さんはあっけなく真実を認めた。なぜ言わなかったのかと聞きたいが、聞かれなかったから、とあしらわれて終わる気がする。せっかく勇気を振り絞って聞いたことも、二宮さんが開き直ってしまっては、徒労のように感じた。
「その運賃とは、私の予想が当たっていれば……」
しかし、これは私なりに考えた論理だ。いくら徒労であろうと、聞いてもらう他ない。
「『文通相手との思い出』のことですか?」
「うん。そうだ」二宮さんはまたも認めたが、私を褒める目つきをしていた。「よく一人で辿り着いたね」
二宮さんは、列車にもたれかかることをやめ、私と正面から向き合った。もはや彼女は、学校司書の振る舞いではない。
「この世の乗り物の運賃がお金なのは、この世で最も価値があるのがお金だから。しかし、あの世じゃ違う。あっちで何をしようと、現実の生きざまがつきまとうんだ」
つまり、と白衣の女性は続ける。
「あの世の資本は、思い出、いわば記憶。この世で自分を覚えている人がいること、それが最も価値のあることなのです。それならば、運賃は思い出以外にない」
「あの」
二宮さんの説明に水を差すつもりはないが、私には、どうしても引っ掛かることがあった。
「それを、どうして知ってるんですか?」
そう私が言うと、二宮さんが白衣から破れた紙を取り出した。私は一度、同じ振る舞いをされて、かつ私の疑問をスルーされたことがある。しかし、今回は違うらしい。
「将人から聞いた」
「将人から?」
「そう。あの子、私の甥なんです」
二宮さんが、破れた紙を差し出す。それは、黄色の紙。最初に受け取った便箋の上半分だった。
『久しぶりです、おばさん。お願いしたいことがあって手紙を出しました。それは、真理子にこの手紙を渡すことです。この列車の運賃は「手紙を貰う人との思い出」なんですが、それは真理子に言わないでください。おばさんも返事はいりません。ずっと海外暮らしだから、あまり思い出持ってないでしょ。日本語も下手だし。でも、そんなところも大好きです。(ここから上は破って、真理子には渡さないで!)』
彼の筆跡、彼の文体。将人と二宮さんの約束。私だけが何も知らないまま、霧のように曇った場所で、将人との思い出を浪費していたのだ。
「将人はね」
二宮さんが、私を抱きしめた。秀樹くんよりも小さくて、脆くて、でも一人の人間のように思えた。
「きっと、忘れてほしかったんだと思う。須藤さんに、苦しんでほしくなかったんだと思う」
「なら、どうして」私は、震えながら問う。「どうして将人は、思い出を失ってないんですか」
「違う。将人も失ってます」
将人も思い出を失っている。それならば、どうして私の知らない思い出まで保持しているのだろうか。その疑問は、耳元の優しい声で解決した。
「私、聞きました」
二宮さんの優しい声が聞こえる。学校司書でもなく、天文急行部の顧問でもなく、二宮という一人の女性の声が、あたたかく聞こえる。
「『もちろん将人を手伝います。でも、真理子ちゃんが忘れる前に、将人が忘れたら?』そんなことを、私も送ったのです。もちろん、思い出を使って。だから、私の中では『将人』は文字でしかなくて、顔も仕草も、今では分からない」
得体の知れない甥を、甥と認識できるのだろうか。私なら、自信がない。思い出どころか、それこそ記憶からも消えてしまいそうだ。
「あの」私は、二宮さんの腕に埋もれたまま声を出す。「将人から、返事は来たんですか」
二宮さんは、私を抱きしめていた手を離して、代わりに私のポケットに小さな紙きれを添えた。自分の口では言えない、ということだろうか。私は黄色い紙を二宮さんに返して、紙きれの方を取り出した。これまで受け取った手紙の中で、面積も質量も一番小さいはずの手紙なのに、どうにも重くて、簡単には読めなかった。
『大丈夫。俺が思い出を失ったって、真理子より多く持っていればいいんです』
だから、手紙を読んでいる間、手が震えたって、おかしくないでしょう。
『自信あります。俺、ずっと真理子のこと好きだから』
おかしくないよ。
『真理子の生きる世界に、俺はいらないから』
将人は身勝手だ。将人のいない世界なんて空想だと思ったけど、将人のいらない世界が欲しいなんて、一度たりとも願わなかったじゃない。
何が悲しいだ。何が文通なんてしなければだ。勝手に真実を隠して、勝手に苦しんで、バカみたい。本当に忘れさせたかったなら、そんな弱み見せないでよ。
ああ、卑怯。卑怯。卑怯! 何も言わずに消えないで。私の中から消えないで。
花火大会に行った時の約束なんて、幼稚園の結婚式ごっこなんて、何も知らない。何も思い出せない。だって、全部くだらないことを手紙でやりとりするために、運賃になってしまったんでしょう。
ああ、私って。将人の何になれたのだろうか。いや、何にもなれていない。何をしたのかも分からない。
どうして?
だって。忘れてしまったんだから。
ずっと私を好きでいてくれた人のことすら、好きでいさせてくれた人のことすら、忘れてしまったんだから。
ふと気が付くと、地面は湿っていたのに、空は綺麗な夕焼けだった。狐雨でも降ったのかと錯覚したが、二宮さんの白衣が一部だけ濡れていたから、きっと違うんだろうな。
「二宮さん」
私の喉が、ひゅうひゅうと鳴いている。
「どうして、将人との秘密を話してくれたんですか?」
二宮さんは、空を横切る飛行機に視線を遣りながら、
「須藤さんの思い出が、あと一回分だって通知が来たから」
「それは」私は恐る恐る尋ねる。「運賃ですか?」
「そう。運賃です」
二宮さんは、車両から「運賃に関する警告:須藤真理子」の紙を取り出した。
「あと一回。だから話しました。私も人間だから」
将人のほとんどを忘れて、灰のように薄暗くなった私の思い出も、あと一つだけ残っているらしい。それこそ、列車の正体に勘づいた時のような、ほんの小さなものかもしれないけど。
「もちろん、須藤さんが忘れたくなければ、送らないのも手です」
「いいんですか? 将人に怒られますよ」
「話した私に責任がある」
私は苦笑しながら、記憶の中の将人を探した。西村将人。男性。二〇一八年、十五歳没。天文部所属。幼馴染。大好きな人。
事実と文字列の中に紛れた、ただ一つの映像を探して。
「でも、私は手紙を送ります。将人の願いの方が強いんです」
私は、その夜空に、もう一度手を伸ばす。
「真理子、スマホ持ってるのマジ?」
「マジだよ。てか、中学生になったらみんな持ってるもんじゃない?」
夜の中学校。
「俺さ、高校に受からないとスマホ買ってもらえないんだよな」
「可哀想に。ハブられるよ」
屋上。中学生、最後の部活。
「あーあ、俺もスマホ欲しいなあ。自由になりたいなあ」
「私も自由にはなりたい。これから受験とか、ほんと嫌」
今日は星が綺麗だったなって。中学校の屋上で見た星が、ずっと思い出になればいいなって。
「『銀河鉄道の夜』みたいにさ、夜空から銀河鉄道が来たら、自由になれそうだ」
「なれそう。夜と列車って、ロマンスの塊ね」
夜が好きだった。
「ねえ、真理子。帰ったら銀河鉄道に手紙を書こう」
「いいね。届くかは別として」
都合のいい夜が好きだった。
「届くよ。だって、俺が願ってるんだから」
「え、ずるいなあ。じゃあ私は届かない方に願おう」
「俺の願いの方が強いぞ。毎日牛乳飲んでるからな」
「昨日は猫にあげてたくせに」
思い出。
落とさないように、大事に抱えていた、思い出。
一度は日陰に放置されて、そのまま消えるはずだったもの。
透き通った水晶のように、美しく眠っていた星月夜の記憶。
両手を離して、最後の夜が割れていく。
お別れは、拝啓。
夕日が沈んで、濃紺の空に星が浮かんでいる。さそり座、やぎ座、みずがめ座。私と二宮さんは、屋上からそれらを見ている。
「二宮さん。須藤さん。もうとっくに下校時間です」
秀樹くんがやってきた。返事を送っていたら、いつの間にか下校時間を過ぎていたらしい。
「私がいるから、いいんです」二宮さんが言う。「それより、見なさい。星が綺麗です」
「ああ、本当だ」
屋上には、もはや列車はない。天文急行部と図書部だけだ。私達は、ただじっと眺めているだけだが、夜は会話の間を気にしないで済む。私は夜が好きだ。都合のいい夜が好きだ。
ふと星空から視線を下ろすと、白衣がちらつかない。二宮さんはどこかへ消えてしまったらしい。屋上には、私と秀樹くんだけがいる。
「あの、須藤さん」
秀樹くんに声をかけられる。二宮さんの行方だけを気にしていた私は、やけに気張った返事をしてしまった。「はいっ」
「明日から夏休みだね」
「あ、そういえば、そうみたい」
今日が終業式だったことを、すっかり忘れていた。思うに、私は夏休みで心は躍らない人間だ。しかし、次に投げかけられた言葉に対しては、そうもいかない。
「よかったら、夏休み、遊ぼう」
男性から誘われたのは、私の知る限りでは初めてだ。突然のことに狼狽を隠せない。
「夏休みだし、花火大会とかあるよね。二人で行きたいなって思ってて」
二人の花火大会。とても趣があるように思える。私を占めるロマンスにも、花火大会はインプットされている。もちろん、二人で花火大会に行った経験なんて全くないけど。
「うん。私でよければ」
よっしゃ、と秀樹くんが言った。実は情熱的な人なのかもしれない。彼の表情が見たかったが、夜は人の表情すら覆い隠してしまう。そこだけは都合の悪い夜だ。
「あ、でも」なぜか知らないが、その時、私は「でも」と言っていた。
秀樹くんが、黒いシルエットをこちらに向ける。おそらく怪訝そうな表情を浮かべているに違いない。
「報告してからでいい?」私が言う。
「報告、両親に?」
「ううん、違う」
私が愛した夜空にはいつでも星があり、それが連なって星座ができる。その星座には、いつの間にか現れて、いつの間にか消えたものもあると言われている。天文部だった私は、その一つが特別大好きだった。
私は、その忘れ去られた星座に、報告しなければならないんだ。
「ねこ座。あのねこ座に、私が幸せだってことを伝えるの」
拝啓。