記憶の重み
「それで? そのサトコっていう子がエリーなの?」
佐伯樹里がそわそわしながら聞く。
二人は主従を超えた幼なじみであり友人だったので、できることならその存在を近くに感じたいのだろう。
僕は鷹揚に頷いた。
「そう。鹿山小都子。僕の幼なじみだよ。今は付き合って三年経つかな」
「え」
「なにさ」
「あの子を手に入れたの? 本当に?」
絶句した後に驚いて、彼女は夜空を仰いだ。
「……あの子、絶対にあなたを選ばないって思ってたし、あなたも無理に手を伸ばさないと思ってたけど」
「アーサーはね、そうだっただろうけど。今の僕は別に小都子以上に大切なものはないから振り切れてるんだよ」
「うわあ」
「相思相愛じゃないことだけが悲しいけどね」
絶対に僕を選ばない。
そう言いきれるだけの理由が前世にもあったらしい。
けれど、聞き出そうとは思わなかった。エリーの感情はエリーのものだ。
「……どうして?」
「ん?」
「どうして相思相愛じゃなくて三年も付き合ってるのよ」
「それはね」
僕はかいつまんで説明した。
ずっと小都子を好きだとアプローチしても、「アーサーの運命の妃」を探せと遠回しに言われていて全く響かなかったことに業を煮やした僕が、じゃあ運命の相手を捜すことにするよ、と小都子が見ていられなくなるまで、あちこちの女の子の誘いに乗るってはふらふらとデートを繰り返したこと。
このままではジュリアが現れたときに僕が「遊び人」と思われてしまう、と焦った小都子が僕を「見張る」為に付き合うようになってくれたこと。
どんな結果でも、小都子が恋人になってくれて満足だ、と僕が言うと、佐伯樹里は今日何度目かのしかめっ面で睨んできた。
「信じられない」
「そりゃ、少々姑息で卑怯な手を使ったことは自覚しているけど、でも」
「あの子……記憶があるの?」
「ああ、そっち? うん、そうだね」
僕が頷くと、彼女はがっくりと肩を落として顔を覆った。
会いたかったのに、とその背中が言っている。
もしかするとエリーは不貞の件で相当ジュリアを責め立てたのかも知れない。
「心配しなくても、記憶は中途半端さ。君と会ったら喜ぶよ」
「中途半端って……まさか」
「うん。啓人と同じ。僕らが相思相愛の仲良し夫婦だっておぞましい勘違いをしているね」
「嘘でしょう……」
僕が笑うと、よく笑えるわね、と疲れたように彼女は呟いた。
僕は頷く。
「だって、僕はもうアーサーではないもの。たとえ前世のそれが感情のベースにあったとしても全て受け止めた上で、今の僕は東雲朝であり、鹿山小都子を好きだよ。それはもう、愚かしいほどにね。だからいいんだ。彼女がどんな勘違いをしていても、それでも僕の側にいてくれるのなら」
彼女はしばらく黙ったかと思うと、子供のような声で言った。
「変わったわ。あんなに、自分を押し殺すことが可哀想なほどにうまかったのに」
「哀れまれていたんだねえ、僕は」
「どちらも強い。私と違って」
「僕はジュリアが羨ましかったよ。今はあの渇望と、それでも手を伸ばしたくなる苛烈な恋心が理解できる。君は? 今の僕を理解してくれる?」
首を傾げて尋ねると、むうっとした表情で「当たり前でしょ」とぶっきらぼうに返事を投げて寄越す。
「心配して牽制しなくても、私はあなたなんて欲しくないわよ」
「それはよかった」
「お互い、記憶が強烈に残っているんだもの。両親を心から恨むわ」
どういうことかと隣を見れば、彼女は「気づいてないの?」と僕を見た。
「名前よ」
「名前?」
「そう。私は樹里で、あなたは朝。前の名前とほとんど同じでしょう。そのせいよ。両親が同じなのもあるとは思うけど、名前から記憶が呼び起こされてるみたいね」
確信めいた言葉に、僕は話の続きを待った。
彼女の恨み辛みやつらい現状に耳を傾けるのは、僕しかできないことなのだろう。
彼女は啓人に記憶があることをきっと話していない。
僕と同じように、相手と前世を共有する気はこれっぽっちもないはずだ。
身分に対して歯がゆい思いを知っている彼女なら。
「啓人は、最初記憶なんてなかったの」
「なにも覚えてなかったってこと?」
「そう。私たち姉弟だけど、義理よ。親の再婚なの。一緒に暮らし初めて、私の名前を呼ぶようになって、徐々に思い出してきたみたい。不完全なのはそのせいかと思ってた。あなたと会ったら、もしかして全て思い出すんじゃないかと思ったけど」
「その様子はなかったね」
「よかった」
あの凄惨な最後を覚えている僕らは、心から深く安堵した。
「あの子も?」
「うん。ああ、そういうことか。小都子も、徐々に夢で見るようになった様子だった。言われてみれば、僕の名前を呼べるようになった頃からかも知れない」
なるほどなあ、と内心納得している僕の隣で、ゆらりと彼女が俯く。
「……もし」
「うん」
「もし、私の両親が全く別の人で、再婚なんかしなくて、名前だってもっとふつうのものだったら」
「うん」
「あの人を必死で見つけて、今度こそ苦しませることなく一緒にいられたのにって、思う」
「そっか」
彼女は今、本心を語っているのだろう。
今まで誰にも言うことのできなかった、どろどろとした感情を、吐き出している。
だから僕も、本音を彼女に隠すことはしない。
「そうかな」
「……え?」
「もし記憶がなかったら、きっと一緒にはいないよ。だって今回の君は、彼より七つ年上で、接点なんてなかっただろう。彼だって綺麗な顔のままで生まれてるんだから周りが放って置かないだろうし、正直言って、カインは僕以外にはものすごく適当で来る者拒まずだったよ。君には知られたくなくて上手に隠してたけど。まあ、だから……君が忌み嫌ってる現世に起こった事実は、君らが出会うために必要なことだったのかも知れないね」
「アーサー、ありが」
「それにしても親の再婚で姉弟だなんて、少女漫画みたいだよねえ!」
「……あなたって本当に腹が立つわね」
感動したような言葉から、苛立ちのこもった言葉に。
僕がからからと笑うと、彼女は脱力したようにふにゃりと笑った。
一人で抱えてきた重荷は、少しは下ろせたようだった。