邂逅 1
アーサーとジュリアの間に愛はなかった。
あったのは究極の自己愛の精神で、僕らは婚約も結婚も受け入れざるを得ないことを知っていたし、むしろ知っていたからこそお互いをよき共犯者として認識し合っていた。
そう言う意味では、気がとても合ったのだと思う。
側に誰かがいるときには紳士淑女として振る舞い喋っていたが、二人になれば砕けた態度で気遣いは皆無な関係だった。
そんな彼女から、ずっとカインが好きなのだと聞いたとき、僕は少しばかり驚いた。
いつからか、と聞けば「初めて会ったときから」と頬を染めながらも悲しげに俯いた。小さな頃からの初恋を、ずっと大事に大事に抱えてきたことを、僕はどうしてか羨ましく思ったことを覚えている。
それからは彼女の恋の話に付き合うのが夜の夫婦の時間になった。
子供が産まれないことにきつい風当たりがあったのも知っている。一度、とりあえず子供をもうけてみるかと二人で話し合ったこともあったが、僕は彼女の恋心を汚すことがどうしてもできなかった。
同じように、ジュリアに憧れという鎧で隠した恋をしていたカインを、裏切れなかったということもある。
僕は外交にかこつけて、物理的にジュリアと距離を取ることで二人の想いを踏みにじらぬようにしていた。
まさか、その間に育ちすぎた心が止められずに、距離を縮めていたなど気づかずに。
気づいたときには二人が踏みとどまれないところまで来ていた。
カインの視線は詫びるように悲痛になっていくし、ジュリアは僕にそのことを報告しようとせずぼんやりしているし、このままでは二人していなくなってしまうのではないかと気が気ではなかった。駆け落ちならいい。死んでしまわれては、どうにもならない。
一線を越えたとわかったとき、僕はジュリアに尋ねた。
カインと一緒にいたいか、と。
彼女はわっと泣きだし、僕に言った。
どうかあの人を、私にください。
息を絞るように、のどが潰れた様な小さな声には血が滲んでいるようだった。僕は彼女に伝える。
カインはカインのものだと。
彼を愛していることをやめろと言う気はない、と。
けれど、誰にもばれてはいけない。
僕は知っているが、それをカインには知られてはいけない。彼は君以上に苦しい思いをするだろう。僕が許していることを知らないのだから。いつか罪悪感に苛まれて死を選ぶかも知れないし、君を拒絶するようになるかも知れない。もちろん、子供を作ることも許されない。それでも、側に居続けることができる?
ジュリアはびっくりしたように涙を流し続けながら僕を見上げた。
だから、僕も本心を言う。
僕はエリーが愛しい。彼女がいるから、この立場でいることができる。息苦しい全てを耐えられている。けれど、僕は彼女に手を伸ばす気はないよ。あの子を苦しませるだけだから。僕にはせねばならぬことも多いから。君だってそうだろう。けど、それでも手を伸ばしたのなら、覚悟をしてほしい。そうするのなら、僕は君を許すし、カインを許すし、その思いを許してあげよう。誰も知らない君らのことを、僕が知っておく。
ジュリアは泣いた。
むせび泣きながら、僕の両腕を掴んで、何度も「ありがとう」を繰り返した。
苦しかったのだろう。
震える肩に頭を寄せ、僕は彼女の激情に羨ましくなった。
僕はエリーを愛しているが、彼女のように純粋な思いではない。
ジュリアを側に置き続ければ、エリーが近くにいてくれるという卑しい算段もあってジュリアとカインを許すと言ったのだ。エリーが生きてさえいればいい。そう思っている。そういう風に愛している。たとえそれが、幼い頃から強いられてきた「自我を殺す」というものの果ての感情だとしても、僕は僕の幸福を手放すことはできなかった。
このときに、別れるように言い含めていれば、僕らは死ぬことはなかったのかも知れない。
許しを与えてから三年が立ち、僕は二十七歳になっていた。
カインは一時生きているのが不思議なほどに思い詰めていたが、ジュリアが必死で支えたのだろう、繕うことが上手にできるようになっていた。僕の右腕であり信頼の置ける友人の顔をして接してくれ、僕が見ていないときは懺悔に満ちた目で、しかしそれでも腹を括ったように耐えている様子だった。
彼女が彼に愛されていることを知り、僕は見て見ぬ振りでも安堵したのを覚えている。
彼の様子が他に見えぬように、さりげなくフォローにも徹していた。
けれど、この状態が平和でふつうであると思っていたのは僕ら三人だけだった。
歪な同盟の外側に身を置いていたとはいえ、エリーは三人に最も近しく親しい人であることを、僕らは忘れていたのだ。
青い顔をしてエリーが僕に会いに来たときには、もう二人の仲が知られてしまっていた。
どうして気づいたのかは聞いていない。けれど、エリーはカインとジュリアが深く愛し合っており、それが気の迷いではなくてもう何年も続いていることまで見抜いていた。
別れることはないこと、覚悟の上で二人して僕を欺いていること。
その全てを正確に悟っていた。
気のせいだよ、と誤魔化すことのできないほどに、エリーは蒼白だった。
僕に「申し訳ありません」とぶるぶると震え「アーサー様に黙っていることはできませんでした」と、僕を傷つけることを言ったことをひたすらに謝っていた。
エリーは僕と違って見て見ぬ振りができなかったのだ。
酷く後悔した。
どうして僕は、気づいたエリーが苦しむことを予見できなかったのだろう、と。