現世はカオス
佐伯樹里が壇上に上がった瞬間、彼女が発光しているように見えたのは気のせいではない。
よく通る透き通った声と、人の目を一切気にしない堂々とした振る舞い。立っているだけで飛び抜けた存在感があった。
以前はブロンドだった髪の色は焦げ茶色に、青い目も色彩を欠いて落ち着いているが、やはり人目を引く。誰もが一瞬で目を奪われ、佐伯樹里は、一気に田舎の全校生徒約300名と教職員を鮮やかに虜にしたのだった。
あれからもう二週間になる。
佐伯樹里の評判はすこぶるいい。物言いは柔らかいらしく、美しい容姿を鼻にかけることもなく、怪我の治療は丁寧で、女子生徒の恋愛相談には的確に対応してくれるらしい。
らしい、というのは、佐伯樹里が来てから僕は一切接触しないように細心の注意を払っているからだ。
「あの。朝くん」
小都子が昼食を食べ終えた中庭のベンチで背を正す。
冬なのに外に出ているのは、二人きりになれるからに他ならない。
その昔、周りに女子がいて煩わしくて昼食ものどを通らないと小都子に弱音を吐いてから、どの季節も二人きりで昼食をとれる場所を彼女が探してくれるようになり、僕はそれからずっと満たされた時間をむさぼっている。
「なあに、どうしたの」
僕は可愛らしい恋人の旋毛を見つめて、それから目を合わせて微笑んだ。
彼女はうっと少しだけ怯み、そして手を握りしめて僕を見上げる。
ああ、かわいい。
「……体調が悪いの。一緒に保健室に行ってくれない?」
そうきたか。
僕がずっと、さりげなく小都子から出される「あの先生どう思う? 素敵だよね」攻撃を「小都子の方がずっとずっと素敵で可愛いよ」と直球で打ち返してきたせいで、強行突破を企んでいるらしい。
その顔はどう見ても血色がいいし、目はらんらんと輝いているし、体調が悪いと言い張るには無理がある。けれど、僕はすかさずそれに乗った。
「そっか、気づかなくてごめん」
「! ありがとう、じゃあ保健室に」
「帰ろう」
僕は先に立ち上がって小都子の手を握る。
じいっと真剣に見つめた。
「体調が悪いなら、早く帰って休んだ方がいい。心配だから送っていくよ。あ、飯塚先生がいるから、早退してくることを伝えてくるね、小都子はここで待ってて」
え、え、と戸惑う小都子を置いて、最高のタイミングで中庭を横切ろうとしていた元門番の青年だった担任をさっと呼び止めて「ちょっと早退します」と言うと、何でだ? と不思議そうに聞かれたので、もう一度「早退します」と笑顔を向けると、ややひきつった表情で「……わかった」と了承をもらった。
小都子のところへ戻り、教室へ戻って荷物を持ってくることを伝える。
「悪いけど、ここで少し待っててもらえるかな?」
「……はあい」
負けた……と言わんばかりに眉を下げてしょんぼりする頭をぽんぽんと撫でて、僕は大急ぎで教室に戻ると、クラスメイトに「ちょっと早退する」と言って二人分の荷物を持った。ほとんどが顔見知りで、僕が小都子だけを異常に大切にしていることを知っている面々なので特につっこまれることなく「はいはーい」だとか「また明日ねー」とか適当な返事をもらう。もう慣れたものだ。
そうして教室を出て階段を下りている最中、踊り場で下から上ってくる男子生徒とコントのようにぶつかった。
「あ、ごめん」
そうすんなりと言葉を出せた僕を、誰かほめて欲しい。
本当だったら、僕も彼のような反応をしていた。
目を見開き、口を唖然と開け、身体や表情を全て使って驚いていたはずだ。
「……アーサー様」
僕の前世の名前をうっかりと口走った顔を、僕はよく知っている。
黒い瞳に陰のある表情や、内側で静かに情熱を燃やしているような存在感と、美しい佇まい。
その全てが今目の前にある。
彼は、僕の従者であったカインそのものだ。
どうしてここに。
入学時に全校生徒を確認したし、進級してから新入生も確認したけど、いなかったというのに。
しかも、前世の記憶も持っている。
「え? 何か言った?」
彼の顔が喜色満面にじわじわと変わりそうな気配を察知して、すぐさまどちらさまでしょうかとトボケる。
一瞬遅ければ彼は前世の話しでも振ってくるつもりだったのだろう、ハッとして口を噤んだ。さあっと蒼白になる。
「いえ、何でもないです……」
「そう?」
「はい」
「初めて会ったよね? 同じ二年?」
僕が聞くと、彼は少しだけ落胆し、それから気を取り直すように小さく笑んだ。
面影が重なる。
いつも「仕方ないですね」とサボることを許してくれていたあの笑みだった。
「二年です。転校してきたので、知らなくても仕方ないかと」
「なんだ。同級生なら敬語はやめようよ」
「……はは」
苦笑が返される。
小都子は小さな頃から一緒にいるから態度も砕けているが、やはりぎこちないときもあることを、彼の苦笑で痛いところにとげが刺さったように思い出す。
前世は前世だ。
今の僕とは違うというのに、ただの身分のせいで現世でも線を引いて接せられることは、いつも僕を少しだけ重い気持ちにさせる。
「引き留めてごめん、人を待たせているから行くね」
「名前を」
離れようとすると、彼は焦ったように尋ねてきた。
僕は足を止めてその怜悧な目を見る。
「東雲朝」
「あさ?」
「そ。変わってる名前でしょ」
「いや、すごくいいと思う」
たっぷり頷いた彼は、敬語を忘れたように何度もこくんこくんと頭を縦に振る。
「ありがとう。よかったら名前で呼んで。ここは狭い町だし、みんなそうしてるよ。敬語もなしでね。僕が転校生をいじめてるみたいに思われそうだし」
「わかっ、た」
「ありがとう。助かるよ」
相変わらず優しいな。
心がほわんと温かくなる。
懐かしくてたまらない。
「ええと、僕はなんて呼べばいい?」
「啓人。佐伯啓人だよ」
さえき。
不吉な名字を嬉しそうに口にする啓人に、僕は内心の動揺を一切出さずに「あれ?」と当たり障りのない少し驚いた顔をして首を傾げた。
「えーと、もしかして」
「ああ、うん。佐伯樹里は姉。一緒にこの町に引っ越して来たんだ」
ああ。
マズい。
これは非常にマズいことになった。
前世で妻の愛人だった彼は今、なんと現世で弟になっていたのだ。