青天の霹靂
僕は幸せ者だ。
毎朝そう思う。
詰め襟の黒い学生服を着ているときも、家を出るときも、バス停を目指して歩き、いつも先に来ている彼女を見つけたときも、毎日。
黒いセーラー服にグレーのマフラーを巻いた彼女は、古ぼけたバス停の屋根の下、くすんだ青いベンチに座ってじっとローファーのつま先を見つめている。
僕はその横顔を見るのが好きだった。
黒い髪、長いまつげ、白い肌。
昔と全く変わらないその姿を見ては、彼女が自分の近くにいてくれることに感謝するのだ。
教会でもあれば駆け込んで膝を押り、神に感謝を捧げるだろう。髪の薄いふくよかな神父に、彼女がいてどれほど僕が幸せかを何日もかけて語りたい。
生まれてから今日まで十七年、この世の全てに感謝してきた。
僕を生んでくれた母に、父に、この海辺の田舎町に、隣家で同時期に生まれてきてくれた、鹿山小都子という可愛らしい僕の思い人に。
例え、堅牢な城がなくても、慕ってくれる民がいなくても、身の回りの世話をしてくれる使用人がいなくても、幸せだ。そこに彼女さえいてくれれば。
それを前世と呼ぶのなら、遙か遠い昔、僕は王だった。
僕の頭の中にはいつもその景色がある。煌めく海を見下ろす部屋の窓から見える賑わった城下町や、馬の蹄の音、太陽に熱せられた煉瓦からふっと香る乾いた土のにおいや、人々が僕を呼ぶ声。こことは正反対の国だった。
大人に囲まれて王となるべき教育を施されていたことも、十になる頃には婚約者が決められ、ジュリアという意思のはっきりした小さな令嬢とともに国の民のために生きる覚悟を決めたことも、僕がどうして死んだのかも、全て克明に覚えている。
恵まれた人生の中、幸せだったかと聞かれれば、そうではなかった。
国のために生きることは苦ではなかったが、一人で背負う重責は息苦しく、あの椅子はひどく冷たかったからだ。
しかし、神は無慈悲ではなく、僕に希望を与えてくれていた。
王妃である妻の付き人の娘、エリー。妻の幼なじみであって友人であるエリーは幼い頃から妻とともに登城していて、僕にとっても幼なじみのようなものだった。彼女がそう思っていなかったのは知っていたが、一緒にお茶をして、ジュリアの王妃教育に付き添い、健気に励まし、僕が疲れているといつも一番に気づいてくれるその優しさが、僕の希望だった。
人は皆、権力に飢えた薄汚い人間ではないのだ、と。
エリーのような人々のために、この国をよくする。それが僕の道なのだ、と。
そうして重圧に耐えて来れた。
初めて会った十歳の頃から、命を終える二十七歳まで、彼女の存在一つ。
黒い髪をいつも一つまとめにし、白い肌はいつも動き回っているせいか桜色に染まっていて、目が合えば、その瞳を細めて僕を呼んでくれる。
幸福はその瞬間だけに宿っていた。
ベンチに座る彼女は、ふと僕に気づくと、すぐに立ち上がって小さく頭を下げた。が、すぐにハッとして控えめに手を振ってくれる。
ああ、かわいい。
ものすごくかわいい。
「朝くん、おはよう」
「おはよう。小都子。お待たせ。行こうか」
「うん」
澄んだ空気の中、二人でそろって歩く。
隣の家に住んでいるのに、こうして待ち合わせのようなことをしているのは、ひとえに僕が彼女がバス停にいる姿を見たいが為だ。
ひんやりした冬の気配がひたひたと僕らの隙間を歩いている。
電線に飛んできた小鳥が朝露に塗れた羽をつついていた。
「あの、朝くん」
「なに?」
「……今日もいい天気だね」
「そうだね。寒いけどね」
彼女がなにを言いたいのかはわかっている。
僕を好きでもないのに「恋人」になってくれたが、色々と居たたまれないのだろう。ふと覚悟を決めたような顔で話を切りだしてくることがあったが、じっと甘く見つめればいつも彼女はほんのり頬を染めて折れてくれた。
「あの、やっぱり、いい?」
「……ん?」
いつもは諦めてくれるはずの彼女が、足を止めて僕を見る。
これは、もしかしなくてもまずい状況のだろうか。
付き合って三年、そりゃ少々姑息で卑怯な手で好きでもないのに「恋人」になってもらったけど、そうなってからは反応を見て加減をしながら愛情を注いできたつもりだった。いつか、必ず心から好きになってもらえるように、と。
「いいよ。どうしたの?」
内心バクバクと心臓が走り出してはいるが、僕はにこやかに頷いた。
決して彼女を追いつめない。
自制心を持たないと失敗することはよく知っている。
「あのね」
「うん」
「運命の人って、どう思う?」
「ああ……それかあ。懐かしいね」
子供の頃、小都子に「アーサー様には、大好きな運命の人がいるんだよ、会えるといいね」と事あるごとに釘を刺されていた。あの頃はまだ、僕を「アーサー様」とうっかり呼んでしまうことがあったが、決まって二人の時だったので、「じゃあ僕は君の王子様になるね」と言って流しておいたのが懐かしい。けど、思春期の彼女にとっては恥ずかしい思い出だったらしい。
目が泳いでいながらも、必死に口を開く。
「もう十七歳でしょう……なにか思うことはない?」
そういえば前は十七歳でジュリアと婚姻関係を結んだ。
二人ともそうするしかなく、しかしそれがお互いにとって最良だったので謹んで受け入れたのだ。まるで愛のない、むしろ自己愛だらけの結婚だった。
「そうだなあ。小都子ももうすぐ誕生日だし、二人でどこかに行こうか」
「うれしい、けど……ちょっと、そうじゃなくて、運命の人っていると思う?」
「いると思うよ」
「! じゃあ」
「うん。昔から言ってるでしょ、小都子が僕の運命の人だって」
「違うよ……私じゃなくて、ジュリア様を……」
「え? なに? じゅ……様?」
「なんでもない」
うなだれて小声でジュリア様、と口にした彼女に、しっかり聞こえていたが聞こえないふりをする。
焦ったように顔を真っ赤にして、彼女は口を閉ざして今日のところは諦めてくれたようだった。
昔はあんなに無邪気に前世の話をしていたが、僕が「どの本のお話なの?」と、徹底的に前世などないと振る舞ってきたせいか、聡い彼女はいつからか「前世の話をするのはヤバい」と察知してくれて口にしなくなっていた。もちろん、将来前世を引きずらないため、周りの大人に白い目で見られないために、僕は心を鬼にしてトボケてきたのだ。いっそ全て忘れてしまえ、と思っていたのも事実だが。
小都子にも前世の記憶がある。
しかし、どうしてか僕のそれとは違って、記憶は完璧ではないらしいのだ。
僕の記憶は生まれたときからあり、小都子のそれは言葉を発する頃に徐々に思い出したらしい。
あまりにも緩やかに、不確かな夢のように記憶が沸き上がってきてたせいで、彼女がそれを「前世」と認識し、認めるまでに相当の時間がかかった様子だった。
僕は何度もそれを阻んだけれど、一度泉に水が湧いてきた後は止められないと悟り、その後は完全にスルーする事で対外的な彼女を守ってきたつもりだ。
まさか、僕と王妃であったジュリアが、相思相愛の仲良し夫婦だったなどあらぬ誤解をするほど記憶が中途半端なものだと知らずに。
まあ、知っていても僕は「前世」に関して全て忘れているどころか信じていない設定なので、どうにも反応できないのだけど。
二人で坂を下りながら登校する。
不思議なことに、この小さな町は昔いた場所と風景がよく似ていた。
小高い坂の上の城から見える緑に囲まれた城下町は、灰色の瓦屋根が並ぶ田園風景になっているが、町を下っていくと海があり、船がぷかぷかとおもちゃのように浮いていた風景は、まさにそっくりそのままだ。
小都子がじっと町を見下ろしながら歩いているのも、きっと懐かしんでいるのだろう。
ほんの少しの違いを探しているようで、同じ場所を探している。見つけては、記憶がふっと巻き戻るのを感じて、しかし風のにおいが違って現実へと戻ってくるのを繰り返していた。もう、何年も。
僕はその横顔をいつも見ている。
昔のように、彼女の横顔を盗み見て、ようやく息ができる気がするのだ。
満たされた朝のひんやりした空気を思いっきり吸い込む。
たった十五分、二人きり。
新聞屋の親父が一仕事を終えて木箱に座って町を見下ろしていることろに通りかかり、声をかけられた小都子はびっくりし「おはようございます、しんぷ……新聞、屋さんのおじさん」と、神父様と言い掛けたのをどうにか軌道修正した。
今日は新聞屋だったか。
僕は独り言を心の中に置く。
時折、まるで襲撃するように、見知った顔が僕らに親しげに声をかけることがあった。いつもは意識して気にしないようにしているのに、ふと前世を思い出している瞬間に不意打ちのように声をかけられると、頭が混乱するのだ。
髪の薄いふくよかな丸眼鏡の親父は、黒いコートを着込んでいる姿が昔の神父そのもので、小都子が口を滑らせるのも仕方なかった。
ほかにも、以前の暮らしの中にいた人々が、この町には紛れている。
たとえば、門番の青年が担任の教師だったり、城下町の酒屋の看板娘が生徒会長だったり、校内ですれ違う誰かが、いつか僕が通り過ぎたときに頭を下げた民だったりする。いつ、どこで、誰と、偶然に出会うのかがわからない。細いたった一本の糸が、前世から繋がってここにあることに、密かに感動する。
小都子はそのたびに引きずられているようだけど、僕は今まで一度も動揺することはなかった。
「養護教諭の佐伯樹里です。産休代替なので短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
体育館の壇上で晴れやかに挨拶をする元妻を見るまでは。
読んでくださりありがとうございます。
できるだけコンパクトに、短く終われるように、を目標に更新していきます。