【ショートショート No. 001】振り返らないことにしていた
いつの頃からかは定かではないが、私は可能な限り後ろを振り返らないように心掛けて生きてきた。
『振り返らない』というのは、例えば既にしてしまった行動を後悔しないだとか、そういう比喩の類ではない。言葉の通り、首をひねって視線を背後に向けないということだ。
そんなわけのわからない決め事にも、自分が自分に課したものであるからだろうか、細かなルールが無意識の間に形成されていた。
ひとつ、意図せずして振り返ることは許す。
ふたつ、振り返るという行動に意識が向いたとしても、それが必要に迫られたものであるならば許す。
みっつ、振り返らないようにしているということを決して他人に口外しない。
母曰く、私は幼いころから頑固者だったようで、これと決めたことがあれば決してそれを譲らない子どもだったという。
記憶している限りでは、私はこの決め事を少なくとも四半世紀は破らずにいる。この頑なさは、母の語る一徹な性格に由来するところも小さくはないのであろうが、それとは別にもうひとつ大きな理由がある。
振り返るという行為が怖くて仕方がないのだ。
理由はわからない。ただ、ふとした瞬間、例えば書き物を終えてチェアの背もたれに寄りかかり天井に向かって大きなため息をつくなどしていると、「今振り返ればすべてが消えてしまう」という漠然とした不安が頭を過るのだ。
そういうとき、私は決まって両目を固く閉じて体ごと後方を向くようにしている。どうやら「振り返る」という言葉は、『首から上だけを後ろに向けること』と定義されているようだ。その証拠に、私の脳に植え付けられた恐怖の先にある何かが件の『振り返るに該当しない行為』によって現実のものとなったことは、幸いなことにまだない。
他人が聞いたら確実に理解に苦しむような決め事を律儀に守り続けている私が振り向いてしまったのは、ある日曜日の夕暮れのことだった。
その日は、その夏一番の猛暑日だった。取り立てて予定もないのに日光を照り返すアスファルトのじりじりとした熱線を浴びる気にもならず、その日は自宅に籠って過ごすことにした。
40代独身の男というものは、2種類に大別される。私がこれまでの人生で見聞きしたモノから築き上げた持論である。
すなわち、楽しみを味わいつくした者とそうではない者だ。
後者の人間は知らぬということを受け入れる謙虚さと、知らぬことを知ろうとする好奇心を備えている。
そして、前者の人間は知らぬことにもあたりをつけて、さも知ったかのように振舞う、いわば知における敗北者のことである。
勿論というのはいささかしのびなくもあるのだが、私は前者に属する人間であることは疑いようがない。それ故、その日も室内で興じることのできるなにかしらを模索することもなしに、せまっ苦しい部屋には似つかわしくない大きさのソファに寝ころび日がな一日まどろむことに決めたのだった。
目を覚ますと窓の外は薄暗くなっていた。窓ガラスに映った無精ひげを生やした顔にはうっすらと汗がにじんでいる。目の前に映し出された小汚い中年男性の背後には、安アパートによくみられる暗く細長い廊下が伸びている。
私は柄にもなく自身の生活、いや、それまでの生き方を恥ずかしく思っていた。今からでも外の空気を吸いに行こう。そう思い、首元が伸びきったTシャツと擦り切れる一歩手前のボクサーパンツを蓋が開きっぱなしの洗濯機に放り込んで浴室のドアを開けた。
今思えば、この時の私は、無意識下に自身と『後者の人間』とを隔てる一線を越えようとしていたのかもしれない。
蛇口を目一杯ひねって頭から熱いシャワーを浴びる。体中にまとわりつき固まった泥が、湯に溶けていくような開放感を覚えた。
その時感じた身軽さは、精神を通り越し肉体にさえも伝播していた。
駆け巡る衝動が、質量を失いつつある体に衝突した。瞬間、私は首をひねって後ろに振り返った。
そこには、私が居た。
母曰く、私は幼いころから頑固者だったようで、それはこれから先も変わることはないだろう。
ああ。
———ああ。これからも、私の後ろには私が居る。