小悪魔な彼女はとても可愛くて、僕の手には負えません。でも、いつか振り向かせてみせます。
「ねー先輩、キスしてもいーですか?」
「ぶっ、ばっ、な、なに言って」
あまりの驚く発言に、俺、藤崎翔太郎は飲んでいたスポーツドリンクを吐き出した。
「やだぁ、汚いよう、先輩。ほらはい、ハンカチ」
隣を並んで歩く後輩である湊亜由美からハンカチを受けとる。ピンクのレースのハンカチは、爽やかな柔軟剤の匂いがした。いやこれは、無意識に匂いが入って来ただけで、わざと匂いを嗅いだというわけではない。
俺と亜由美が一緒に帰るようになったのは、ある意味必然にも近かった。俺と彼女は同じ部活の部員とマネージャーという立場であり、数少ない学校からの徒歩での帰宅組だ。同じ部活なだけあって、帰宅時間はいつも一緒。この先の角を曲がるまでは一緒の道だ。
「あ、亜由美なんで、いきなりそんなことなんて」
動揺を隠せない俺とは違い、やや小悪魔の様な笑みを浮かべながら亜由美が数歩先で立ち止まる。その瞬間、ふわりと彼女の長いポニーテールの髪が揺れた。風に乗って、彼女の匂いまで漂ってくる気がした。
「えー、先輩の唇、柔らかそうだったから……、じゃダメですか?」
小首を傾げるその姿は、まるで小動物のように思える。そしてそれが何より可愛らしく、心臓の音がうるさい。
「そ、それくらいなら……別に」
恥ずかしさのあまり顔を背けると、にこにこしながら亜由美が覗き込んできた。俺の唇などより、亜由美の唇の方がよっぽど柔らかそうだ。そこまで考えて、自分がしてはいけない想像をしたことが急に恥ずかしくなる。
「先輩、アンカリング効果っていうんですよ」
やや背伸びをしながら、その白く細い指が俺の唇に触れた。こんなことですら、恥ずかしいと思う俺がおかしいのだろうか。亜由美はいたずらっぽい顔をしているだけで、ドキドキはしていないように見える。
部活の中でも亜由美はいつも人気者だ。マネージャーという立場場でもそうなのだが、一番の人気は誰にでも優しく差別をしないということだ。メインメンバーだけでなく、補欠や怪我で参加出来ない部員などにも、必ず分け隔てなく接している。そのため、皆が亜由美のことを狙っていると言っても過言ではない。かく言う俺も、ずっと……。
「アンカリング効果って」
「今日習ったんですよ。んと、初めに通らないような大きなことを言って、その後小さなことをいうと、これぐらいならばって人間の脳は思ってしまうってやつです。実践、してみたかったんですよね」
「ちょっと待て、じゃあ俺は実験台ってことか」
「えへへー。でも、唇柔らかそうって言ったのは本当ですよ」
どこでそんな悪いことを覚えて来るのだろうか。小学校からずっと同じ学校に通い、ほとんどといっていいほどずっと一緒にいたというのに。亜由美の中での俺の位置は、仲の良い男友達くらいなのだろう。そんなこと今さら考えなくても、分かりきっていることなのに。それでも悲しいと思ってしまうのは、俺が身勝手だからだろう。
「先輩もやってみます?」
初めに大きなことをふっかけて、次に小さいか。
「……じゃあ、俺と付き合ってくれよ亜由美」
「え……」
亜由美の真顔を見て、いかに自分が馬鹿なことを言ったのか理解する。いやいやいやいや、いくらふっかけろって言ったって、これはないだろう。これは自分でもアウトだと分かる。付き合ってくれって、俺の口は何を言ったんだ。ずっと思っていたこととはいえ、これはない。ああ、時間を巻き戻してくれ。なんて俺は馬鹿なんだ。自分でもびっくりする。ああ、どうすればいいんだ。そうか、次の小さい欲求を言って、相殺すればいいんだな。って、何も思い浮かばねーよ。
「……っぱい……しょーくん、聞いてる?」
すっかり自分の世界に入っていた俺を、亜由美が引き戻す。俺の右手を両手でつかみ、横に振っている。俺が全然話を聞かないことに怒ったのか、その頬っぺたを膨らませた。先輩という固有名詞ではなく、名前で呼ばれたのはいつぐらいぶりだろうか。高校で初めて顔を合わせた時には、すでに先輩呼びになっていた。そう、その他大勢と同じ、ただの先輩に。
「すまない、聞いてなかった」
「もー。いつも、そうなんだから。で、次はなんて言うつもりだったんですか?」
「あ、いや、それが……」
キスしたいと言いかけ、必死に思いとどまる。ダメだ、このままでは俺は変態になってしまう。落ち着け、落ち着くんだ。
「そ、そうだ。このまま手を繋いで歩きたい」
「……意気地なし……」
「え、今なんて?」
ささやくように小さな声で紡いだ言葉は、風でかき消された。
「なんでもなーいです」
怒ったように、亜由美は歩き出す。しかし手は繋がれたままだ。あの角まで。あと少し。このままもっと道が長く続いてくれればいいと心からそう思った。