国境を越えて
幸いにも数日の道中は異変もなく予定通り進んでいった。
ここまでは休憩以外、移動を続け、夜は事前に予約をしていた上流階級向けの貸切宿に宿泊し、また朝から移動を開始する。
そうして移動していくうちに、街も縮小していき、景色はどんどん長閑になっていく。
そうしてついに、初めて国境を越えた。
幸いなことにその国も比較的安全であり、少し急げば国境から街に入ることができる。 そのためそこまでの道中は急ぐことになったが、単に馬車が動きっぱなしとなっただけで他に大きな変化はない。 その間馬車の中では尽きることのない雑談に花が咲いていた。
残念なのは、こうして宿に入ったものの翌明朝に出発してしまうため、街を見ることができないことだ。
だからといって行程を変更するわけにはいかないし、先が長いので店舗があくまで街で待機というわけにはいかない。
それができるのはもう少し先だ。
「せっかく国境を越えて初めての街なのに、素通りするのは残念だわ」
国境を越えたものの、その境目にあるのは関所くらいのものだったこともあり、実感の湧かなかったエレナだが、街までくるとさすがに雰囲気の違いを感じることができた。
その興奮に乗じて本当なら街を見て回りたいところだが、地理に疎い場所で軽率な行動を起こせば、危険度が上がる。
もともと予定しての行動ならば問題ないが、目的が別にあるためここで寄り道はできない。
「しかたがないね。運が良ければ帰りにお店が開いているかもしれないけれど、到着が夜になったら店に繰り出すわけにはいかないから」
帰りなら人を回して調整を行い立ち寄ることはできるが、今すぐには無理だ。
クリスがそう口にすると、エレナは不満があるわけではないという。
「わかっているわ。危険なことをするつもりはないもの。それにもう少ししたら野営する予定なのでしょう?今のうちにしっかり寝ておこうと思うわ」
国境を越え、その先に野営をせざるを得ない日が入っていることは事前に説明を受けている。
本当は野営など避けたかったが、安全かつ日程のことを考えると、それが最善であるため、やむを得ずその道を選んだのだが、一番の懸念だったエレナは実感がないのかその点をあまり気にしていない様子だ。
しかも眠れなかった時のために、今のうちにしっかり寝ておこうというのだから肝が据わっているだけのようにも見える。
「馬車でも寝られるなら寝ていいんだけどね」
馬車に箱のメンバーしかいないのだから、疲れたら寝てしまっても問題ないとクリスが言うと、エレナは外に目を向けたままそれに答える。
「ええ。でも、せっかくだから移動中は景色を楽しみたいと思うの。そう何度も来られるとは思えないし、どうせ宿から出られないのだから、そこで体力を回復しておく方がいい気がするわ」
これから外交が増える可能性のあるクリスに対し、エレナは国内にとどまることが多くなることが想定される。
ケインの家も領地を持っているし、ケインが領地を継げば、それを助けるため大半をそこで過ごし、共に領民を守る役目を担うことになるはずだ。
用事があれば国外に出ることもあるだろうが、自由気ままにというわけにはいかないし、遠方に出向くのは難しくなるだろう。
けれどすでにお披露目の澄んだエレナにも、多くの国から声がかかりつつある。
だからケインと共に祖に出る機会はあるだろうが、行き先は毎回変わるのだし、ここを何度も通るかと言われたら否である。
エレナの言う子とはもっともだし、自分たちも似たようなもので、次がいつあるのかは未定なのだ。
「殿下はちょくちょく来てるけどね」
クリスがふと浮かんだことを口にすると、エレナは大きくため息をついた。
「この距離を移動して、よく頻繁に来られるものねって驚いているわ。遠いことは知っていたけれど、ここまでとは思わなかったもの。それに手紙も、あのスピードでやり取りできているのは、皆が休まず進んでくれているからだと身をもって知ったわ。でも騎士であるプレンダやケインならできるのかしら?」
視線を馬車の中に戻し騎士の二人を見てエレナがそう言うと、先に答えたのはブレンダだった。
「私たちでも厳しいですね。あの殿下は単騎、全力で移動してきているでしょうから、同列のスピードの出せる護衛しかついていけないと思いますよ。彼がのんびり移動しているとは思えませんから」
「そうですね。あとは馬そのものも鍛え方が違うかもしれません」
「たしかに」
ブレンダの意見にケインが自分の解釈を加えると、ブレンダはなるほどとうなずく。
自分たちの体力で移動距離が決まるのは歩兵くらいのものだろう。
馬に乗って移動する場合、乗っている自分たちもそれなりに体力を奪われるが、一番消耗するのは乗せてくれている馬である。
馬を借りている場合は、途中で交換することもできるのだが、愛馬で移動するのなら休ませながらにしなければ馬が持たない。
彼の国の殿下はいつも同じ馬で来ているようなので、きっと愛馬なのだろう。
それでかなりの移動をしてくるのだから、相当鍛えられた上、体力のある馬を使っているのは間違いない。
そういう種類の馬なのか、後天的に馬を鍛えているのか、はたまた両方なのかはわからないが、会話の過程でケインとブレンダはさすが軍事国家だと再認識する。
「そういうことみたいだから、これが普通ってことでいいんじゃないかな」
自分がいなければ早く移動できたかもしれないと気にした様子のエレナに、クリスはそう言って微笑んだ。
「遅いわけではないのならいいわ。予定より長くお待たせするのは申し訳ないもの。ただ待っているとは限らないけれど」
彼の国の皇太子殿下という人間は、きっと黙って待っていない。
正しくは、ただ待つという無駄な時間を過ごすことはしないはずだと考えられる。
迎えに出るのは直前で、それまで仕事をしているとか、前にエレナが言った通り、こちらに向かってくる可能性もある。
こちらでは当たり前に考えられる、歓待の準備を終えて、優雅にお茶をしながら待つような姿は想像できない。
彼は常に動いているのだ。
「そうだね。私たちの到着を心待ちにはしてくれていると思うけど、黙って待っているようなお人ではないね」
すでに全ては決定しており、移動が始まっているし、決まった行程の通り進むだけの段階なので、本当なら身構える必要はないはずなのだが、この先、それを崩される可能性を思い、クリスは思わず苦笑いを浮かべるのだった。




