感情の行方
ケインが帰ってくると聞いたエレナは、その話を聞いて、冷静さを失うのではないかと思っていた。
けれど思ったより冷静に受け止めることができていた。いない間、ケインのことをあまり考えないようにしていたからなのか、過去にもあまり会えない期間があってそれで体制ができているからなのかわからない。
けれど素直に喜べない自分は、冷たい人間なのかもしれない。エレナはそう感じていた。
ありがたいことに、そんな悶々としているタイミングで母親から騎士のご家族に無事を知らせる手紙を書くという仕事を一緒にやらないかと声をかけられた。
雑念の多い時こそ、作業に集中する方がいい。
そうすることで、その感情と向き合う必要がなくなるからだ。
結果、その考えが作業により一層集中させる結果となっていた。
「エレナ、もう少し周囲を気にするようにしなければいけないわ」
ようやく二人のところに意識を戻したエレナに母親が言うと、エレナは反省の色を見せた。
「気を付けるわ」
よく言われることなのでそれが良いことではないのは分かっている。
常に周囲が見えないくらい集中してしまっているので、没頭しているという言葉がふさわしい。
「色々考えないようにしているのは分かるけれど、相談があるならここで話してごらんなさい」
エレナがこうして没頭する時は、思考をそちらに全て使うからだ。
そしてそうしている時は、嫌なことがあったり、不安なことがあったり、早く終わらせなければならないという義務感をもって取り組んでいることが多い事に、長年見ている母親は気が付いていた。
けれど何に悩み、どう声をかけていいか分からず、常にそのままにしてしまっていた。
まだ過去に失った信用を取り戻せておらず、距離を取られていること、そしてクリスが相談相手を買って出ていることもあり、一人で抱え込む心配をしていなかったからだ。
ここ数年ではブレンダもエレナの味方になっているので、より一層任せきりになっていた。
しかしいつまでもこのままでいいとは考えていない。
こちらからすればあれは不慮の事故のようなものなのだ。
できればエレナが降嫁する前に関係を改善しておきたい。
これをその一歩にと考えて王妃はそう尋ねたのだがエレナはきょとんとして首を傾げた。
「特にないのだけれど……?」
悶々とした思いはあるけれど、相談したいことはない。
そのため、本当に母親の言いたいことが分からず、エレナはじっと母親を見て言葉を待った。
「とてもそうは思えないわ。まるで何かから逃避しているように見えるもの」
エレナの集中した様子は、まるで現実から目を背けるために行われているように見える。
没頭することで忘れようとしているのか、その時だけでも考えないようにしたいのか、そこまではわからないが、その分からない部分こそ、エレナが一人で抱えている悩みや苦痛ではないかと考えていた。
しかしそれすら自覚のないエレナは、その言葉を聞いてじっと考える。
「逃避……?そうね。そうかもしれないわ。でも自分でもよくわからないのよ」
クリスもそうだが我慢をする事も、感情を押し殺す事も、当たり前になってしまったためか、自分が受ける傷や不安に関しては無頓着なところがある。
しかしそうなっても他人に寄り添い、他人のために怒ることはできるので、周囲からは感情を殺しているように見られないし、善良な人に見られることが多い。
本人たちには刷りこまれた習慣なのかもしれないが、それがいびつであることは、長年近くで見ていればそれがよくわかる。
「エレナ様はその、わからないことを明確にしたいと思いますか?」
ブレンダが尋ねると、エレナは少し悩んでから答えた。
「そうね、そうするのが正解なのかどうかもよくわからないのだけれど、そうした方がいいのかもしれないわね」
分からないことが分からない、もしかしたら知らない方がいいのかもしれないけれど、その判断基準になるものさえ、考えることができない状態だ。
知って後悔することかもしれないが、元々自分の中で抑えているものだというのなら、理解しておいた方がいいかもしれない。
その上で、同じ状況に陥った時、明確にするかどうか判断する基準を持てるなら、今回はブレンダの提案を受け入れた方がいいだろう。
「もし、明確にしたいのなら、断片でもいいので口にしていくと、それで考えがまとまったり、頭の中が整理できたりしますよ。それを試してみませんか?」
王妃への忖度もあり、あえてここでとブレンダが提案すると、エレナは黙ってブレンダを見た。
「私たちでは話し相手として不足かしら?」
ブレンダはよくても自分には話せないことなのかもしれないと一抹の不安を覚えながら王妃が尋ねた。
もしそうだと言われたら今日はお開きにすればいい。
王妃はそう覚悟を決めて聞いたのだが、エレナは首を横に振った。
「そんなことはないわ。プレンダとお母様に話せないことなんてないもの」
エレナがそう言うと、王妃とブレンダは顔を見合わせた。
「じゃあ、話してちょうだい。皆は少し離れていてくれるかしら」
今は一応この国も戦争に加担している最中だ。
いくら戦勝が確定したとはいえ、護衛を含めて人払いをするわけにはいかない。
そのため、部屋の中で距離を取らせる。
護衛たちが残るので侍女たちも同じように残るが、その前に一人が、三人の前にあるお茶を新しいものへと交換して同じように控えた。
それを確認し王妃がエレナに無言で話すよう促すと、エレナはうなずいてから控え目な声で話し始めた。
「私は自分が思っていた以上に薄情な人間なのだと自覚した気がするわ」
ケインの事は大切に思っている。
戦場に送り出すのは不安だったけれど、それ以降、離れている間は何も思わなかった。
そして無事に帰ってくると聞いた時も、なぜかあまり喜べなかったのだ。
むしろ騎士学校に行くことになって、しばらく会えない日々が続くと知った時の方が悲しかったし、久々に会えると知った時の方が喜べたくらいだ。
それが自分のケインに対する感情なのだと思うと、ケインと同じ感情を自分は持っていないのではないかと思われた。
少なくともケインが自分のためにとしてくれている事に比べて、自分のしていることがあまりにも軽すぎる。
ケインと釣り合う感情を自分が持ち合わせていないことが、自分がケインに対して薄情なのだと思ったし、他の人に対しては、義務以上の感情を持てていない。
心配を口にはしたけれど、それも自分の中で虚無なものとなっていて、今は何も思わないという。
「そうだったのね。でも単に実感がわいていないだけではないかしら?」
母親がおっとりとそう言うと、それにブレンダが同意する。
「私もそうだと思います。本当に薄情な人間は、普段から自分より他人を優先したりはしませんから」
少なくとも気に病むような薄情な人間とではないと二人に言われたエレナは、ため息をついた。
「じゃあ、私の中にケインへの情がないということかしら」
ケインが人生をかけてくれたのに申し訳ないとそんなことをエレナが思っていると、ブレンダは笑いながらそれを否定した。
「それはさすがに考えられませんね」
「エレナ、そうしてケインのことを今、こうして考えている時点で、少なくともケインに対しての情は充分にあると思うわ。だって、ケインへの心配が足りない自分をエレナは責めているのだもの」
確かにケインに対する情がないことを不安に思った。
これが情と言われてもピンと来るものはないが、二人がそう言うのならそうなのだろう。
「そうなのかしら?」
腑に落ちないとエレナが渋い表情をすると、それを見て二人は顔を見合わせた。
「そうね」
「ケインを前にしたら何か変わるかもしれませんし、気に病む必要はないと思います。そもそもここは戦禍を免れていますから、離れて生活をしていた時期と、感覚が変わらないのでしょう。それこそまさに彼らのおかげです。逆にそれを知ったら自分たちが役に立ったのだと向こうは喜んでくれるのではないでしょうか?」
少なくとも自分があちらに参戦していたら、この状況は喜ばしいと思うだろう。
ブレンダがそう言うとエレナは黙ってうなずいた。
とりあえずケインに会えば感情が動くかもしれないというのなら、それを待つしかない。
エレナはこの感情に対する答えをいったん保留にして、心の隅に押しやったのだった。




