皇太子の視察終了
皇太子殿下の想定外の行動はあったものの、通常より少し遅くなった程度で勉強の時間を迎えた。
エレナは自分の教え方を観察される立場のため、少し緊張していたが、子どもたちにとっては、単に新しい騎士が一人増えているだけなので、特に変わった様子はない。
それもあって、いつも通り復習を始めると、次第にエレナも彼の存在が気にならなくなった。
時々その存在を思い出させるかのように、一覧表を広げる騎士の手伝いと称して声を出すが、それはエレナの事を考えてというより、ここでの体裁を崩さないようにしてくれている様子だ。
そのため彼の対応を護衛騎士たちに任せてエレナは教える方に専念できた。
こうして無事に勉強の時間を終えて、その日の孤児院訪問を終えることができたのだった。
彼は自分たちの心配をよそに、彼はどんどん孤児院の人たちと打ち解けていった。
最初の子どもたちも女性たちも、彼を怖がることはない。
想像していた反応を示したのは院長だけだった。
もしかしたら、彼に対する噂や情報を知っている者だけが、先入観から過剰な畏怖を示しているだけなのかもしれない。
一方、彼も相手がどういった反応をしても動じる様子はない。
国内の夜会で寄りついてくる貴族たちとの器の違いを感じずにはいられなかった。
「少し意外だったわ」
エレナが帰りの馬車に同乗している皇太子にそう声をかけると、彼は何を言われているのかよくわからないと聞き返す。
「何がだ?」
「子どもたちの事よ」
エレナがそう言うと、彼は笑った。
「最初に言っただろう?慣れていると」
確かにそう聞いてはいたけれど、彼の反応はエレナが想像していたのとは違った。
彼は大国の皇太子で、力も権力もある。
当然、他国との交流の過程で自分の考えを隠す術も身につけているだろう。
だからこの視察においてはエレナを立てて、その不快感を隠しているのではないかと心配しているのだ。
「それは聞いていたけれど、もっとこう、鬱陶しがるのではないかと思っていたから」
大人と違って子どもたちは騒がしい。
すがりつかれたら動くのにも邪魔だし、子どものいるベテランの護衛騎士ですら、子どもの数が多い事もあって最初は対処に悩んでいた。
最初から対処が上手だったのは、兄弟が多いというケインの同期の護衛騎士だけだ。
兄弟がおらず子どもと触れ合う機会のなかったケインに至っては、彼に助けられてのスタートだった。
エレナの護衛騎士に差別意識のある人間は配置されていないし、王宮騎士団が完全実力主義で平民を受け入れていることから、彼らに関しては、子どもの扱いに不慣れというだけだったが、貴族の騎士の中には、彼らを下に見て、触られることを大きく拒絶する者がいるだろうとエレナは思っていた。
彼に関しては、今まで話をした感じからそういうことはないだろうと思いながらも、少し気になっていたのだ。
「そうか?子どもたちより、権力に群がる有象無象の方がよっぽど鬱陶しいと思うぞ?子どもの反応は素直で裏表がないから、考えが丸わかりで楽しいくらいだ。それを隠そうと頑張っているのが見えているのも面白いな」
日頃から様々な悪意にさらされている彼からすれば、害意も裏もない子どもと接することにストレスなどないという。
「でも、いきなり飛びついてきたりしたでしょう?」
子どもたちのその行動に最初はエレナも驚いた。
慌てて大人の女性たちが注意して止めてくれたけれど、エレナはともかく相手をしてくれる騎士なら良いと認識してしまったのか、時折子どもたちは騎士の腕にぶら下がろうとしたりするのだ。
そして彼もそれに近い洗礼を受けている。
「まあ、子どもだからな。別に大した重さもないし、ぶら下がるなら勝手に下がっていればいい。活発なのは悪いことではないからな」
自国の孤児院と比べると、子どもたちの表情が随分と明るい。
孤児院をこのような場所に変えていければと思ったと彼が付け加えると、エレナは安堵の息をついた。
「よかったわ。あの子たちを良く思われなかったら悲しいもの」
そんな話をしているうちに馬車は王宮まで戻ってきた。
他国の皇太子が同乗している事もあり、出迎えの場には、騎士やおいていかれた彼の護衛たちの他にクリスもいる。
馬車から下りたところで、彼はエレナに言った。
「今日は世話になった。大変参考になったぞ。感謝する」
「いいえ、私のしていることなんて、あなたやお兄様のしていることに比べたら小さなことでしょう?」
周囲に人が多くいることから、大げさに褒めて自分を持ちあげてくれているのだろうと考えたエレナは、そこにいる彼の国の人たちを下げないようそう言って首を横に振った。
「そんなことはないぞ?小さいことができない者が大きなことなど手に負えないからな。それは勉強を教えているエレナ殿下もよくわかっているのではないか?いきなり難しい書物を与えても文字が読めなければそれはただの紙の束だ。そうならないように文字を読めるようにしている。一つの孤児院で成功したら、国営の孤児院で成功例を増やす。どちらも積み重ねには変わりない。訓練とも通ずるものがあろう」
確かに訓練も積み重ねだ。
本当に少しずつではあるけれど、年に一度の体力測定で、持ち上げられなかった剣を一度でも振れるようになっていたり、その回数が増えたりと、積み重ねで成長を感じることはできる。
きっと、騎士たちからすれば、進みが遅いので、もどかしいに違いないとエレナは思っていた。
だから自分が彼らに受け入れてもらえているのと同じように、一番遅い子がついてこられるよう、復習を欠かさない。
自分の価値観で進めているので、どんどん先に進みたい子たちには申し訳ない事をしているけれど、エレナは誰も置いていきたくはない。
「そうだけれど、こんなに進みが遅いとは思っていなかったのではないかしらって」
これはあくまでエレナの価値観だ。
クリスから素晴らしいものだと聞かされていたであろう皇太子殿下から見れば、お遊びのように映ったかもしれない。
そう案じたエレナが申し訳なさそうに言うと、彼はその必要はないという。
「そうだな。今まで文字に触れていないと、こういう対応が必要になるということはわかったぞ。進まないのは彼らの環境や能力の問題でエレナ殿下の問題ではない。ただ着実に知識をつけるためには長い時間がかかるから、教える方に忍耐が必要そうだな。何度も同じことを繰り返すというのは骨が折れるものだ。それを嫌な顔一つせずに続けているエレナ殿下は、充分、その役割を果たしていると思うぞ?」
訓練をしているのを見たときにも感じていたが、エレナはおそらく相当忍耐強い。
普通なら同じことを何度も説明させられたら怒りたくもなるものだろうが、苛立ちを見せることなく丁寧に接していた。
もしこの先、同じ制度を広げることになったら、同じだけの能力と忍耐力を備えた人物を割り当てる必要があるだろう。
意外とハードルは高そうだ。
彼の国の皇太子の言葉を、密かにクリスも心に留める。
施策として国に広げる役割を担うのはクリスだからだ。
「お褒めにあずかり光栄だわ」
クリスが色々考えている間に、エレナは彼に返事をする。
「クリス殿下も無理を聞いてもらって悪かったな」
彼が出迎えに来たクリスに感謝の意を伝えると、クリスは微笑みながらうなずいた。
「いいえ。エレナを褒めていただいてこちらも鼻が高いです。それよりお疲れになったのではないですか?皆様がお部屋でくつろげるようにとご準備なさっていましたよ」
「そうか。では、お言葉に甘えて部屋に戻らせてもらおう」
彼から早くエレナを引き離す方がいいと判断したクリスがそう言うと、彼はあっさりと引いた。
てっきりエレナと話をと言ってくると思っていたのが拍子抜けだ。
けれどそこに何かあったのではないかという疑念が湧く。
それについては先にエレナの話を聞くのがいいだろう。
「どうぞごゆっくり」
そんなことを考えながらも、クリスは微笑みながらそう言って、客室に向かって歩き出した彼を見送ったのだった。




