名前だけという弊害
数字の勉強を終えて数日後、エレナは再び孤児院を訪れていた。
いつも通り院長の部屋に挨拶へ行くと、院長から話をしたいと言われた。
エレナたちが構わないと了承すると、院長は言いにくそうにしながらも、早速本題を切り出した。
「ここまでしていただいて、大変恐縮なのですが、子どもたちが名前を書けるようにするのは少し待っていただきたいと……。こちらは教えていただいている側で、教育方針に逆らいたい訳ではないのですが……」
名札の使い方についてあらかじめ手紙で説明されていた院長は、急に勉強方法を変更してほしいと言いだした。
名札を作る時にはそのような反対意見はなかったので、てっきり問題ないと判断して準備していたエレナは小首を傾げた。
「どういうことかしら?」
「今の子どもたちを見ていると、それがよくない方向に進む可能性が見えてとても不安なのです」
子どもたちを見ている限り、皆、希望に満ち溢れているように見える。
それがなぜ、悪い方向になるのか。
「なぜ?皆、自分の名前を文字で書けるようになるのを楽しみにしているわ」
「だからでございます」
「ごめんなさい。説明いただけるかしら?」
なぜ急にそういう話になったのか、院長はどうしたいのか。
分からないままこちらの意見を通すのはよくない。
話を進めればわかる事もあるかもしれないと思ったが、理解できなかったエレナは院長に説明を求めることにした。
すると説明を聞いてもらえることに安堵したのか、院長は話し始めた。
「数字の勉強の時からなのですが、今の彼らは目を離すとどこにでも数字を書くんです。書けるようになったことが嬉しいのでしょう。どこにでもと言いましても、壁や床を汚すという意味ではありません」
「それで?」
「先日、練習するのに紙が欲しいと言いだしましたので、書類で書き損じた不要な紙を渡そうと準備していたのです。それまで、皆が積極的に勉強を進める姿は微笑ましいと思っておりました。けれどその時に気が付いてしまったのです。次に書けるようになるのは名前なのだと。何も知らない子どもたちが名前を書けると周囲に話し、じゃあここに書いてみてと言われたらどうなるのかを……」
そう言いながら院長はエレナたちに一枚の契約書を見せた。
その契約書にサインはない。
そしてここにと院長が指差しているのは、署名欄だ。
「ああ、何も考えずに、もしくは自慢しようとして書いてしまうかもしれない。確かに名前だけ書けるというのは危険ですね」
真っ先に気が付いたのは兄弟の多い新人護衛騎士だ。
彼は自分の弟妹の行動と照らし合わせ、全てを理解したらしく、院長にそう返すと、院長は続けた。
「数字の読み書きができる事が嬉しい子どもたちは、市場などに買い物へ行くと、その値段なども知ったように話すことがあるんです。でもそれを数字と同じ感覚で、名前で始めてしまうかもしれない」
詳しく話を聞けばエレナも充分理解できる内容だった。
「私もその対策が必要というところまで考えが至らなかったわ。名前を書くことを教える前で良かったのかもしれないわね。でも勉強はどう進めようかしら?」
学ぶことに前向きな彼らの心意気を自分が台無しにするのは避けたい。
そのためにはいつも通り勉強をするという体裁を整えなければならない。
エレナがどうしたものかと悩んでいると、最初に意見した彼が言った。
「とりあえず本日は読むことだけをすれば何とかなると思います。あの表にあるイニシャルの読み方を復唱しながら覚えさせるんです。子どもたちが書けない事に納得するかは分かりませんが……」
彼の意見にケインも同意しながら、子供たちへの説明方法について自分の意見を加えてくる。
「エレナ様、当初、絵本を自分たちで読めれば、という女性たちの発言があって、この話になったと記憶しております。それをお話すれば今日のところは収まるかもしれません。私も院長の話を聞いて、今日は読むだけにして、次回までに書くことについての対策、名前を書く時の注意点などをまとめて、皆に理解してもらった上で、名前を書く事を教える方が安全のように思いました」
確かに最初にそんな話をしていた。
何となく彼らの希望をこのようなところで持ち出すのは卑怯な気もするが、それが彼らを守ることに繋がり、納得してもらうために必要なものなら使うしかない。
しかしふと、エレナは自分の時にどうだったのかを考えて小首を傾げた。
「私たちの時も最初に覚えた文字は自分の名前だったように思うのだけれど、どうだったかしら?」
「確かにそうですね」
「ですが私たちと子どもたちでは環境が違います。貴族なら外出の際、護衛という大人が側にいますし、サインをするにも両親の許可を必要とする場合があり、それを言明されますから迂闊にサインをするような場面には遭遇しません。しようとすれば周囲の者が止めてくれますし、常に複数の人の目があります。ですが彼らは違うでしょう」
自分たちと彼らの違い。
貴族なら家庭教師が教えてくれて文字を練習するし、そしてその紙は必要があれば安全方法で処分される。
悪意を持ってよってくるような者がいれば、よくわからない契約書にサインをさせようとする者が紛れる可能性もあるが、そもそも家庭教師と二人という事もない。
それに仮にそういう事があっても親が対応できる。
だが孤児院は違う。
院長という保護者はいるけれど、子どもを守る親はいない。
大人の女性はいるけれど、彼らも保護されている弱者で保護者ではない。
だから何かあった時の対応は困難だし、その対応はすべて院長に委ねられる。
問題が増えれば対処しきれなくなる事もあるだろう。
「そうね。それに大人の女性たちだってそれを指摘できるだけの読み書きはまだできないわ。そう考えると、院長の懸念はもっともね」
院長の懸念を理解したところで、その後しばらく、皆で院長室にて意見を交わし、この先の教育方法について、すり合わせを行った。
その結果、勉強の目的を、最初の目標だった絵本を読めるようになる方に寄せて説明する。
そして内容は、張り出されているアルファベットの表の文字の読み方を復唱して、音読できるようにする。
とりあえず今日は、これで乗り切る方向で話がまとまった。
その説明を子どもたちにするのはエレナの仕事だ。
皆が納得してくれるように、そして波風を立てないように、何よりやる気を失くさないように、エレナは調理を始めてからも、女性たちの会話に相槌を打ちながら、その説明を必死に考えるのだった。




