護衛たちへの相談
ケインの意見を最後まで聞いたエレナは首を横に振った。
「確かに中途半端はよくないというのが総意よ。でも元は数字を教え終えるまでというのが、お父様やお母様、お兄様との約束なの。その先は保障できないと言われているわ。だけど私は名札や文字の表を作って終わりではいけないと思っているの。それに名札を作ったら、全員が自分の名前を理解して、できれば書き方も教え合える環境にしておきたいわ。院長を通じて卒院した騎士たちには、私が行けなくなるかもしれないから協力をしてもらえるようお願いしておくつもりではあるけれど、彼らだって仕事があるし、遠くで働いている人もいて、滅多に帰って来られないと言っていたはずよ」
数字を教えるまでが期限。
進みが遅いこともあり、そこを勉強の区切りとするという話があった。
だから数字を教え終える前に名札を作り、彼らにそれを託したい。
かけ足になってしまうかもしれないが、数字の勉強の前に、アルファベットの表もおさらいの中に入れてしまってもいい。
引き延ばす手段を考えたいのだとエレナが言うと、ケインは我に返って謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ありません。感情的になり、出過ぎた真似をいたしました」
この場は三人のお茶会の席ではない。
いくらケインとエレナの関係を理解している護衛騎士たちとの会話とはいえ、自分の感情任せに話していい場面ではなかった。
ケインが一人猛省していると、エレナは微笑んだ。
「いいえ。気にすることではないわ。それに皆の意見は大きな収穫だったと思っているの」
エレナはケインにそう伝えると、今度は護衛たち皆に言う。
「それでね、皆の話を聞いた上で、私はやっぱり孤児院へ行く回数を増やしたいと思ったの。だってできる事がまだまだたくさんあって、それができればあの子たちの道も広がるでしょう?何度も孤児院までついてこなければならないあなた達には、しばらく負担をかけることになると思うのだけれど、今しか時間がとれないから協力してもらうことになるわ」
数字が書けるのなら、書き方さえ教えれば計算したものを記録することができる。
そもそも彼らはバザーで商品を販売し、その際、金銭のやり取りを全て暗算で行っていた事もあり、計算が早い。
だから本来なら市場などでも仕事はできるはずだ。
でもそれが叶わなかったのは、数字の読み書きができないことが、商品の金額を理解できないものと判断された可能性がある。
そして数字だけではなく商品の名前も読めないと困ることが多い。
市場の値札は孤児院の値札のようにその商品を示す絵はなく、文字だけで書かれている。
毎日これらを入荷した商品と照らし合わせて設置する作業があるのなら、その準備ができないと、やはりそういったところでは働けないだろう。
そう考えたら数字だけでは足りない、もう少し先まで進めたい、それが仕事の幅を広げることにつながる。
だから絵本くらいの簡単な文字を読めるくらいまでにはなってほしいというのが、エレナの現在の希望。
彼らに教えているうちに、彼らの前向きな姿勢を見て欲が出てきてしまった。
けれどエレナは世間のことを知識でしか知らない。
だからまず、その考えは間違っていないかとエレナが護衛たちに問うと、彼らはエレナを肯定した。
「ああ、だからクリス様はエレナ様が文字を教えているのを事業にされるのか……。ただそうなると……」
ケインは肯定する護衛たちの中でそう呟いたルームメイトの方を見た。
エレナも驚いて彼の方を見ている。
「どういうこと?」
「クリス様も、今はエレナ様が孤児院へ行けなくなることは望んでいないということです」
「そうなの?」
文字を教えている途中という、中途半端な状態で訪問頻度を減らすのは良くない。
けれど将来的には訪問できなくなるというのが共通認識だと思っていた。
けれどクリスの考えは少し違うのではないかと彼は続けた。
「エレナさまの訪問を公的事業に関するものと位置づけることができたなら、エレナ様が文字を教えている限り、その訪問を公的事業の一つとして扱うことができます。思ったより文字教育が進まなかった点においては、皆が予想を外しましたが、実際、それだけ難しい、手間のかかることに着手しているということです。そして今、それを手探りで行っているのだから、時間がかかるのは仕方がないと、クリス様ならば周囲をそう言い包めることができるかもしれません。もし反対して、代替案や別途人員を出せるのかと言われたら、それを負担することは、きっと重鎮の誰しも渋ります。そうしたら代案もないのにすでに開始されている公的事業を中断させるつもりかと、私なら返します。これで時間をしばらく作れるはずです」
文官のブレーンのような発言に他の護衛騎士は思わずうなり声を上げる。
エレナの護衛のほとんどがクリスの護衛を経験した者たちばかりのため、クリスならそのくらいのことはやるだろうと納得していたのだ。
「でもお兄様が立太子なさったら、その後は私もたくさんの公務を負うことになるわ。だから孤児院に通えなくなる覚悟をするようにと、その覚悟を早くから持てるよう、期限を区切られたのだと私は考えていたの。それに私もいずれはそうなると理解しているわ。だから文字教育を急いでいるのだけれど、お兄様は違ったのかしら……」
孤児院への訪問を希望した時に、考えをすり合わせたはずなのにとエレナが小首を傾げると、彼は続けた。
「最初はそうだったかもしれません。そもそもエレナ様が孤児たちにそこまで思い入れを持つ事も想定していなかったでしょう。ですがそうなってしまった事を察したクリス様は、エレナ様が公務を負う立場になっても、できるだけ長く、回数が少なくなっても交流が途絶えることのないよう、孤児院で勉強を教えるということ自体を公的事業にする案を強行することにしたのではないでしょうか。それならば文字教育が一定のところまで終了してからも、エレナ様が関わった事業の経過観察という名目ができますし……。ですがこれは、私個人の考えなのでクリス様にその点はご確認いただいた方がよろしいと思いますが……」
確かに家庭教師から提案を受けた時から事態は大きく変わっている。
彼の言う通り確認が必要だ。
最初の提案からずいぶんと状況が変わったのに、クリスは忙しいだろう、とりあえず行く回数を増やすための許可だけもらっておけばいいだろう、公務が増える前にできることをしなければと、目の前の対処を優先し確認を後回しにしてしまった。
もしかしたらそれがすれ違いを生んでいて、クリスが知らない所で自分のために動きはじめている可能性まで出てきている。
エレナは彼の言葉を聞いて、クリスの負担を減らすために、近々話をする時間を作ってもらおうと決めたのだった。




