時間と心の穴
「クリス様、先日エレナ様が水場で雑巾を洗っておいででしたが、使用人たちはどうされているのですか?」
洗い場でエレナを見た数日後、冷静になったケインが馬車の中でクリスに尋ねた。
本当は翌日に聞きたかったが、その段階ではクリスに詰め寄ってしまいそうだったため思いとどまったのである。
「ああ、エレナがね、自分の部屋の掃除を自分でするって言って……」
「エレナ様が?」
「他にもいろいろやっているよ……」
「どういうことですか?」
「学校に入れないと分かってからね、勉強以外のこともできるようにならないとって言いだして、私たちが学校にいる間に、色々なところに顔を出しては見学するようになってね」
学校以外のどこを見学しているというのだろうか。
視察であればもっと大掛かりなものになるはずである。
「見学ですか?」
ケインが聞き返すとクリスは苦笑いを浮かべてうなずいた。
「そう。私が留守の間に掃除をしているところをわざわざ見に行ったり、洗い場で洗い物のやり方を聞いたりしていたみたいなんだ」
「お菓子作りだけではなかったのですか……」
以前始めてエレナが作ったお菓子をもらってから、たびたびできたてのお菓子をもらっていたケインは驚いた。
受け取るたびにだんだん上達しているのが分かるほど、エレナのお菓子は味だけではなく形も整ってきている。
「お菓子作りはね、裁縫以外の趣味として勧められて始めたら、本人が気に入って続けているって感じなんだけど、掃除や洗濯は……」
「では、させられているというわけではないのですね」
「当然だよ。むしろ使用人や侍女が止めても聞かないから困っているくらいだって話だよ。それにエレナがそんなことを強制されているなら私が間に入って止めてるよ」
「そうですか……」
本人が希望しているということなら、確かに周りにいる人に止めることはできない。
ケインは天井を仰いだ。
「詳しくは知らないんだけど、そういった仕事が一通りできないと将来困るって思ってるみたいなんだよね……」
詳しくは知らないと言ったが、クリスにはエレナの目指している先が分かっていた。
しかしそれはクリスの口から話すことではない。
「それで私物の雑巾など持っているのですか……」
「雑巾だけじゃないんだけどね、ホウキやモップも専用のものを部屋に置いているよ……」
それを聞いて思わず首を戻して、クリスをまじまじと見て聞いた。
「エレナ様はどうされたのですか……?」
「理想の女性像というものを追い求めた結果、こういう方向になってしまったみたいなんだよね」
「辞めるように説得しますか?明らかに貴族女性のすることではないでしょう」
エレナは王族であるが故に学校に通えなかった。
それは将来有力な貴族や他国に嫁ぐことを考えてのことであると聞いている。
しかしもしかしたら、そのようなしがらみ、貴族であることすら嫌なのではないかとケインは不安になったのだ。
「今はまだ無理かな」
「なぜですか?エレナ様が手にあかぎれを作りながら冷水で雑巾を洗っていたりするのを見過ごせません。許可をいただければ私が話をしても……」
「ケイン、学校のことを蒸し返されたら対応できる?」
「学校のこと?」
ケインの頭の中では、倉庫でのエレナ、そしてさらに遡って自分が幼いころに、その年齢になれば学校に行けるようになると期待させてしまったことがあの事件の一因となったことなどが思い出された。
「エレナが今こうしているのは、学校に通えないことで空いてしまった時間と心の穴を埋めるためだと思うんだ。エレナから学校だけじゃなくて、せっかくできるようになったことまで奪うの?」
「ですが……」
「ケインがエレナを心配してくれるのは嬉しいけど、私が学校を卒業して、エレナの公務が増えてきたら、少しずつそういう作業から切り離していけると思うから、今はあまりきつく言わないであげてほしいんだ。それに、エレナは何も悪いことはしていないんだから」
確かに悪いことをしているわけではない。
クリスが対策を考えているのなら、邪魔する必要はないとケインは考えた。
「……わかりました」
ケインはそう言ってうなずくことしかできなかった。
学校の休み時間、クリスはエレナにもした質問をしてみようと切り出した。
「ところでさ……」
「何でしょう?」
「ケインはエレナにどうなってほしいの?」
「どう、とは?」
エレナと似たような返しに思わずクスッと笑いがこぼれた。
「だって、エレナが掃除や洗濯を頑張っているのって悪いことじゃないはずなのに、やめさせたいと思っているんだよね?」
「それは、エレナ様の手が痛々しかったので……」
「エレナの手?」
「腕まで冷たい水に入れて水洗いなどしているのですから当然ですが、水場でのエレナ様の手は真っ赤に色が変わって、ところどころ細かい傷もあったようですし、もう少し自身を労わってほしいと思ったといいますか……」
ケインはエレナが自暴自棄になって自分を痛めつけているのではないかと心配になったのだ。
倉庫では、自分には王女という地位にしか利用価値がないのだから、その王女というものが存在していればどのような姿であっても問題ないというところにまで追い詰められていたのだ。
あれからかなりの時が経ったものの、そういった感情がいつ再燃するか分からない。
「あの、エレナ様はまだ、学校のことを何か言っておいでなのでしょうか……」
「本人が口にすることはないかな。私も二人の時はあまり学校のことを話題にしないようにしているし、それ以前にそんなことを考える暇を作らないくらい、色々なことに手を出してしまっているからね。ちょっと困ってる」
クリスは頬杖をついてため息をついた。
「実はね、あまり話もできていないんだ。やっと話ができるかなって思ったら、騎士団長に訓練を受けさせるようにって直談判しに部屋を飛び出していってしまうし、本人は意識していないかもしれないけど、思い出さないようにするために、がむしゃらに頑張っているみたいに見えてちょっとね」
「それは手をあのように傷めてまですることなのですか?」
「私達からすれば、何でそこまでするのかわからないよね?たぶん、本人もよくわかってないと思う。というか、そういうものだって思い込んでいるのかもしれないけど」
思い込んでいるのならなおさら話をした方がいいのではないかと思ったが、それは先ほどクリスに釘を刺されている。
「それでも、私に手伝えることはないのですね……」
「そうだね、難しいかな。これは完全に身内の問題だし、公務に支障が出ているわけでもないしね。今はそっとしておくのが一番かもしれないな。様子を見て、今回みたいに医者を呼ぶとか、できるのはそのくらいだよね」
「お医者様には見ていただけたのですね」
エレナが室内に戻った後、ケインがクリスに状況を説明して、その先どうなったのかは聞いていなかった。
「うん。典型的なあかぎれだから命には関わらないし、薬を塗って手を濡れたままにしなければ数日でよくなるって言われていたよ。流石にエレナが水仕事をしていて手が荒れましたなんて、誰も言えなかったけど、ちゃんと薬を塗って、今頃部屋で刺繍とかしながら、おとなしくしているんじゃないかな」
結果を聞いてケインは安堵しながらも次の心配をした。
「それは、治ってからが心配ですが……」
すぐによくなるものなら続けても問題ないと、エレナがまたそういう行動を再開しかねないとケインは危惧したのだ。
また知らないところでエレナが傷を作っていても、自分は何もしてあげられないし、先日も偶然見つけただけで、いつも通りエレナが迎えに出てくれていたら気がつくことはなかっただろう。
手袋をしていても寒くなったから使っているのだと違和感を覚えることはなかったに違いない。
現に、エレナは手が荒れ始めてからずっと手袋をしていたが、ケインの記憶にその印象が残っていないのが何よりの証拠だ。
「今後は護衛たちに、エレナを止めなくていいから、何をしていたか私にも教えてって頼んでみたんだ。本当はエレナの護衛だから、私が干渉するのはあまり良くないんだけど、エレナは何も話してくれないから……」
クリスは寂しそうに言った。
本当はエレナの口から話を聞きたいし、護衛を通じて行動を探るようなマネはしたくない。
しかし、そうしなければならないのが現状なのだ。
「クリス様も大変なのですね……」
ケインは思わずつぶやいた。
「大変というより、寂しいかな。確かに私は学校に通っていて、ずっとエレナの側にいられるわけではないけど、頼りにもしてもらえないって考えるとね」
エレナが頼りにしてくれることが、自分の支えになっていた。
だから、クリスは学校を卒業したら、ずっとエレナの側に寄り添っていようと思っている。
心に穴が開いたようになってしまったのはクリスも同じなのだ。
「私もできる限りのことはいたします」
この二人を支えるためにはそこまで自分が上っていかなければならないと知っている。
そのための学校での努力だが、最近は少しここでの生活に慣れ過ぎてしまい、たるんでいたかもしれないと思ったのだ。
クリスの話を聞いて、自分はもっと頑張らければならないとケインは自分を奮い立たせるのだった。




