生活に必要なこと
プレゼントを渡してすっきりとした様子のエレナは思わず笑顔をこぼしながら言った。
「みんなに隠れて作るのは大変だったもの。これでこれからは堂々と作れるわ。それにこれを付けて掃除や料理もできるようになるわね。考えついた時は言いたくてうずうずしていたのよ」
プレゼントを喜んでもらえたこと、驚かせることへの成功にまぎれて、王族らしからぬことを嬉しそうに言ったエレナに、思わず家庭教師は聞いた。
「ところでエレナさま……。お掃除はまだお続けになるのですか?」
「ええ、もちろんよ。だって、やり方を忘れてしまってはもったいないでしょう?それに、これは全て市井の女性ならできることなのだから、私もできなければならないわ。お洗濯はまだ勉強中だから実際にできていないけれど、早くできるようになりたいと思っているのよ?」
「お洗濯を勉強中とは……?」
見学に行ったことは知っていたが、勉強を続けているとは聞いていないし、自分は何も教えていない。
そうなるとエレナはどう勉強しているのか
まさか部屋での勉強が終わってから洗い場に通っているのかと家庭教師は気になった。
「お洗濯場で教えてもらったのよ。布によって洗い方も違うし、使う洗剤も変えなければならないからお勉強が必要だって。それで、そういうことをまとめた本が図書館にあるっていうから、少しずつだけど読んでいるの」
エレナは洗い場のリーダーが言った本をすぐに図書館で探し出して手元に置いていた。
「これよ!」
机の上に置かれている分厚い本を手にとって表紙を家庭教師に見せた。
確かに洗い方の基本となる情報が載っている本だが、その本は専門書である。
「……それはお仕事で行う場合に必要な情報が書かれている本ですよね。市井の者は洗剤をたくさん買うことはできませんし、滅多に使いません。水を変えて何度も洗うことができれば充分でございます」
家庭教師が告げると、エレナは困ったような顔をした。
「でもそれだと、洗い場で体験ができないわ。洗剤は貸してもらえないみたいだし……」
掃除同様に服やシーツも洗ってみたいらしい。
人がついていれば洗剤の種類を間違えることはないだろうから、体験そのものはできるはずだが、その時にそう言ったのは、おそらく洗い場のリーダーが、エレナに仕事をさせないためだろう。
確かに体験の際に強い洗剤を使ってエレナの手が荒れてしまうようなことがあっては困る。
それに洗剤の貸し出しなどあり得ない。
洗剤は誤った使い方をすれば毒にもなり得るため、厳重に管理されている。
それに洗剤は貴重品なのだ。
「……そうですね。エレナ様は洗剤を使ってみたいのですか?」
どうしてもというのであれば、人がついて体験させた方がいいと、エレナの意思を確認した。
一種類でも洗剤というものを使ってみれば納得するに違いないと思ったのである。
「特に洗剤というものにこだわりはないのだけれど、洗い場で洗うというお仕事をしてみたいとは思っているの」
予想に反して、エレナの要求はシンプルなものだった。
あの大きなたらいを使って、見習いの人たちと同じように洗い物をしてみたい、それだけだったのだ。
「それでしたら、雑巾が何百枚にもなったと思えばよいのですよ。洗い物というやり方を忘れないためでしたら雑巾を洗っているだけで充分でございます」
今度シーツなど、普段洗うことは少ないが簡単に扱えるものを洗う際、エレナに声を掛けてもらえるよう頼んでみようと家庭教師がひそかに考えている間、エレナは自分にできることを考えたらしい。
「わかったわ。それならなおさらお掃除はしなければいけないわね。特に拭き掃除が大事ね」
このままではエレナが掃除の得意な雑巾洗いの達人になってしまう。
洗いものを忘れないために、汚れた雑巾を作り出すために、拭き掃除を重視しようと言いだしたエレナに思わず家庭教師はアドバイスをした。
「あの、エレナ様。それぞれのお仕事をバラバラに考える必要はないのですよ?」
「どういうこと?」
「前に市井の女性の生活のお話をいたしましたよね」
「ええ」
前に市井の女性が家のことをするという話を聞いた。
そして家のことをしている女性も仕事をするのだということも教えてもらった。
最悪ひとりでも生活できるようにならないといけないのだと。
だからエレナはそういうことができる女性を目指すと決めたのだ。
「エレナ様は難しくお考えすぎなのでございます。要はすべて生活のためなのでございます。ここにいる者はお金をもらってお仕事として行っていますから、しっかりとやらねばなりませんが、家庭の者はそれを適度に繰り返しているだけでございます。洗いものもそうでございます。洗わなければ着る服がなくなるから洗う、床が汚れればモップで拭いて、台が汚れれば雑巾で拭く。雑巾やモップも汚れたまま使うと汚れを広げてしまったり、それらがにおいを発したりするようになるからしっかりと洗うのです。あと、食器や調理道具も使ったら洗いますね。ですが、人は洗い物のために生活をしているわけではなく、洗うことができないと不衛生になるため洗うのでございます」
エレナが洗い場に執着していたのは、できないことがあることへの不安からだった。
自分は洗い場に見習いとして立ち入ることもできないレベルなのだと思っていた。
洗い物ができるということの最低ラインに到達していないからこそ、本を借りて勉強をしなければならないと頑張っていたのだが、実はもう充分、生活できるくらいには達しているということだ。
「確かにそうだわ。それでは、そこまで調べる必要はないのかしら?」
分厚い本に目を落としてエレナが尋ねた。
「はい。エレナ様が洗い場のプロとして働くわけではございませんので、そこまでする必要はないかと思います。ですが、今まで勉強してきた知識もきっと無駄にはなりません。知識はいつどのような場面で役に立つか分からないものですが、知らなければ、その考えに至ることすらできないのですから」
エレナの前向きな努力を、勉強したことを否定しないように家庭教師は言葉を選んだ。
エレナがどのくらいその本で勉強をしたか分からないが、いつかその知識が何かの形で役に立つ日が来るだろう。
そして願わくば通常の授業にもそのくらい力を入れてほしい、そう心から思っている。
「エレナ様、そろそろ授業を始めましょうか」
「そうね。つい嬉しくて……。お勉強も頑張らないといけないわよね」
エレナから前向きな返事が返ってきたことに安心して、家庭教師は通常の授業を開始するのだった。




