倉庫の二人
正面に置かれたランプの温かい光のゆらめきを眺めながら、ケインは果実水をグラスに入れてエレナに渡した。
今度は自分でグラスを手にとって飲んでいる。
「おいしい……」
自分で水分を取れることが分かってケインは少し安心していた。
「よかった。それはね、料理長が持たせてくれたんだよ」
「そう……」
エレナは料理長に対して思うところがあったのか、グラスをじっと眺めては果実水を飲んでいた。
エレナがグラス一杯の果実水を飲み終え、少し落ち着いたところでケインは尋ねた。
「ところでエレナは木登りなんていつ覚えたの?」
ケインはクリスからエレナが倉庫に引きこもる前、部屋から木をつたって脱走したという話を思い出したのだ。
「したことはなかったわ。でもケインが時々登ったり降りたりしているのを見ていたから真似をしてみたの」
「見ていただけでできてしまうなんて、エレナはすごいな」
「必死だっただけよ」
エレナが二階の窓から脱走しようと考えるくらいこじらせていたのかとケインは頭を抱えたくなった。
「そんなに嫌だったの?」
「そうかもしれないわ……。でも、もう誰も信用できないと思ったの」
「クリスのことも?」
「たぶん……」
いきなり部屋に踏む込まれた恐怖と、裏切られたと感じた悲しみだけは覚えているが、その時にどう考えたのかを説明することはできない。
エレナはケインに聞かれてもあいまいな答えしか返すことはできなかった。
「そっか。一人で頑張ったんだね」
ケインがそう言って頭を撫でると、エレナは黙ってうなずいてうつむいた。
うつむいたエレナに、ケインはぽつりと言った。
「エレナ、俺は学校に行きたくて行ってる訳じゃないんだ。本当だったら勉強だって好きじゃない」
「でもケインはものすごく勉強も実技も優秀だと聞いたわ」
毎日のようにクリスに学校の様子を聞いていたエレナは言った。
「それはね、そうなるために努力してるからだよ」
「どうして?学校に行きたくないのに、学校のために頑張るの?」
エレナは疑問をぶつけた。
ケインは学校のために頑張っているわけではない。
自分の将来のため、エレナの側にいるためだけに頑張っているのだ。
だからと言って、エレナのために頑張っていると面と向かって言うのは恥ずかしい。
それをどう伝えようか悩み、少し考えてから答えた。
「本当は学校なんか行かないで、こうしてエレナと会っていたいんだ。でも、それだと、大人になったとき、俺はクリスやエレナの側にいられなくなっちゃうんだって。大人になっても二人の側にいるためには、俺が頑張らなきゃいけないって言われたんだ。だから今は一緒にいられる時間が少ないけど、これからできるだけ一緒にいられる人になるために頑張ってるんだよ」
幼い日に誓ったことも、自分が騎士になると決心したことも自分の中では何も変わっていない。
ただ、それをエレナに伝えたことはなかった。
「エレナは俺の言うことが信じられない?」
エレナは首を横に振った。
「じゃあ学校に行けなくても我慢できる?」
「……」
エレナは学校の事を出されるとすぐに答えは出せなかった。
何年も我慢し、そのための努力をしてきたのだ。
すぐに諦められるならこんなことにはなっていない。
ケインはそんなエレナの気持ちを察して頭を黙って撫でるのだった。
エレナが黙りこんでから少しして、ケインはぽつりとつぶやいた。
「これからどうしようか」
「どうって?」
何を言っているのか分からないと、ケインの方を向いてエレナは首を傾げた。
「ずっとここにいる?」
てっきり否定されると思って言った言葉だったが、エレナの答えは違っていた。
「そうね、どちらでもいいわ。もう、考えるのも疲れてしまったもの」
「そうだったんだね」
予想外の答えにケインは少し戸惑った。
「だって、私がどんなに頑張っても、願い事一つ、叶うことはないのだから」
「それは……」
思いつめたエレナに掛ける言葉が見当たらない。
ケインが言葉につまっているとエレナが続けた。
「あのね、ケイン。私がお兄様とは違うってことはわかっているの。お兄様はこの国を背負って立つ人だから、大事にされるし、何でも経験させるって。私は同じ両親を持っていても、あの両親の子どもだから利用価値があるだけでそれ以上のものはないんだってことも」
「エレナ?」
ケインは驚いて声を上げた。
エレナがそこまで自分を卑下するとは思っていなかった。
しかし完全に違うと否定することはできない。
エレナの努力はしっかりと見てきたつもりだ。
だから、エレナ自身に価値がないとは思っていない。
しかしエレナの王女という立場は政治的に利用価値が高いことは事実なのだ。
「だから、その利用価値すらなくなってしまったら皆が困るのよね。彼らは学校に行くと私の価値が下がるというのでしょう?だからもう、どちらでもいい。別にここでこのままぼんやりしていてもいいの。それが何年になっても、ずっと出られなくても、学校にさえ行かなければ、部屋にいても、ここにいても、王女という価値は変わらない」
自分の立場は解っている。
だからそれに抗うことはもうしない。
でも、もう頑張ることはできない。
「私には何もないもの。自分のために頑張ったことも全部、自分のためにはならない。私には何も残らないもの」
「そんなこと言わないで。俺はエレナと一緒にいられたら嬉しいよ?」
ケインはエレナに精一杯の気持ちを伝えた。
頑張っているのはエレナだけではない。
ケインも同じなのだ。
「私もよ。でも、ここを出たらもうそれも難しくなってしまうのよね」
エレナは寂しそうに言った。
ここを出たらもうケインはエレナ様としか自分を呼ぶことはできなくなる。
また二人の距離は遠くなってしまうのだ。
「じゃあさ、二人でずっとここにいようか。もう、これ以上エレナが苦しまなくていいように、俺もここにいるよ」
エレナがどう思ったのかわからない。
ケインがそう言った時、目を閉じて壁を背にもたれていたエレナが、急にバランスを崩してケインとは反対の方に倒れかかった。
「こっちにおいで」
眠たいのかと思って倒れそうになるからだを自分の方に引き寄せて、寄りかからせた。
そして、その柔らかい髪を優しくなでてると、先程の無気力とは違い、眠いのか体がだるくうまく動かせないのか、返事はするもののフラフラとした動作を続けている。
「大丈夫?無理に起きなくていいからね」
ケインは自分にエレナをもたれさせたままそう言った。
「ええ……」
エレナはそのまま目を閉じたが、やはり様子がおかしい。
「エレナ?」
ケインがエレナに呼び掛けるが反応がない。
ランプの灯りがあるとはいえ倉庫の中は薄暗く、このままではエレナの表情をきちんと見ることはできない。
ケインは静かにエレナの体を壁に預けると、少し離してあったランプを取って彼女の顔を照らした。
そして彼女が気を失っていることに気が付いた。
ケインは対応に悩んだ。
倉庫に二人でいようと提案したばかりにもかかわらず、ここでエレナを倉庫から連れ出すことが正しいのかどうか分からない。
しかしこのままではエレナの体が心配だ。
自分ではエレナの体調を回復させることができない。
それに倉庫は環境が良くない。
ここに長く居てはゆっくり休むこともできず、食事をとることも難しいだろう。
自分が一緒にいたいのは生きている元気なエレナであって、気を失っているエレナではない。
ケインは罪悪感を覚えながらも、この扉を開ける決心をした。
「ごめん、エレナ。何年かかっても絶対に側に戻ってくるから」
意識のないエレナにそう誓って彼は再び彼女から離れた位置にランプを置くと、閂を外して扉を開けたのだった。




